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2話

 初めてボディーガードの依頼を引き受けたレミ。ターゲットは得意客も多いマフィア「ドナ=オリエント」の組長の娘だった。彼女が主催する怪しげなパーティーに潜入するため、レミは秘書のユツキにドレスの用意を頼んだのだが……これが間違いだった。



「……パーティー?」

「ああ。うちの組、『ドナ・オリエント』が毎年7月に極秘で開催してる。あんたらにはウチの用心棒として、そのパーティーに潜入してもらいたい」


 ユツキの向かい側のソファに座ると、依頼人の「ドリー」は本題に入った。

過去に経験がないボディーガードの依頼に、ユツキは早速腕を組む。


「先走ったイメージを言っていい? 壇上で高らかに演説するおたくの組長を、私たちが黒いスーツを着て守る感じ?」

「いいや。うちの組長は、このパーティーの存在を一切知らない」

「……うん?」


 ドリーはよれたジャケットの胸ポケットに指を突っ込み、一枚の写真を引っ張り出した。その中央には、右目の下に泣きぼくろがある女性が写っている。年齢は十代後半といったところか。


「護衛を依頼したいのは、ここに写っている組長の『娘』だ。このパーティーは彼女が主催している……父親に秘密でな」


 それを聞いたユツキが、さらに深く眉をひそめるのも無理はない。


「……ドリーさんだっけ。質問してもいい?」

「も、もちろん」


 レミが社長席から発言したのを受けて、ドリーの声はあからさまに上ずる。この事務所を訪れて数十分になるというのに、彼は未だにバスローブ姿のレミを直視できないままでいた。


「私たちも仕事上、『ドナ・オリエント』の名前はよく知ってる。何人かウチにお金を借りに来た人もいるけど、皆ちゃんと返済してくれたから、『卵』になった人は一人もいない。きっと組自体も安定してるんだろうね」

「……そいつはどうも」

「だからこそ不思議だよ。組長の娘を守るという重大任務を、どうして私たちみたいな『外部』に依頼するのか。お抱えのボディーガードくらいいるでしょ?」


 自らの手相を舐め回すように見つめた後、レミは視線を依頼人に移した。八年前、この場所で上官や同僚を喰らった時と変わらないブルーの瞳が、ドリーを再び射抜く。こんな人並外れた美女と目が合うことを素直に喜べないのは、彼がレミの正体を知る唯一の「生き残り」だからだ。


「……『お抱え』を動かせば、嫌でも組長の目に留まるからな。さっきも言ったように、これは組長には内緒のパーティーだ。分かりきったことをあえて聞くなんて、あんたも性格悪いぜ?」 

「女の子を狙いに来る相手に心当たりは? こっちも初めての案件だし、情報は多めにもらいたいんだけど」

「……『ボッシュ・カルテル』。今、うちの組と抗争中の麻薬組織だ」


 その名前が出た瞬間、ユツキは音もなく立ち上がる。彼女の表情は驚きをとうに過ぎ、早くも冷静さを獲得していた。


「ドリーさん、お帰りください」

「おいおい、まだ話の途中……」

「これ以上話しても無駄よ。うちはあんな凶悪な組織と一切関わりたくない。ましてやボディーガードなんて……」

「最後まで聞いてあげよう、ユツキ」


 動揺を露わにするユツキの後ろで、レミが静かに言った。


「レミちゃん、本気? 『ボッシュ・カルテル』産の麻薬が赤いのは、殺した人間の血まで原料にしてるからだって、私、本気で聞いたことあるよ。ついこの間も『身内で』銃撃事件を起こしたって言うし……危険すぎる」


 顧客の前ではレミのことを「社長」と呼ぶルールも忘れ、ユツキは顔を引きつらせていた。


「……続けてもいいか?」


 右手を上げ、ドリーも立ち上がる。


「不用意に『ボッシュ』の名前を出したことは謝る。確かに、連中の悪名高さはこの世界でも指折りだからな。しかし、だからと言って、奴らがこのパーティーで何か事を起こすとは限らない。裏社会で最も重要なものが何か、あんたらも知ってるだろ?」

「……信頼」


 その答えが会社の窓口役であるユツキの口から出たのは、それを肌で痛感するような業務を毎日こなしているのが彼女だからだ。


「そうだ。敵対しているとはいえ、俺たちは確かな情報もなく別の組を襲うことはしない。安易なデマに乗せられてよその組や一般人を巻き込んだら、それこそ組の沽券に関わるからな。だからまず、この手の非公開パーティーで『事件』が起こることは無い」

「それじゃ、貴方たちは何を恐れているの?」


 レミの核心を突いた質問に、ドリーはやや時間を置いて答える。


「……スパイだ。情報収集や工作を目的に、俺たちに敵意をもった連中がパーティーに紛れ込み、組長の娘にも接触してくる可能性がある。そいつらを排除してほしい」

「父親は娘が大事じゃないの? そもそもパーティーの目的は?」

「……すまないが、仕事に関係ない内情は伏せさせてくれ。こっちにもいろいろ『事情』があるんでな」


 これ以上の情報は渡せない、という心の声を映すかのように、彼はポケットに手を突っ込んだ。


「だが、俺がこの『マザー商会』を選んだ理由はシンプルだ。あんたが黒スーツ姿のマッチより何倍も頼れる存在だってことを、俺は八年前から骨身にしみてる。こうして仕事を頼む立場じゃなけりゃ……今すぐ逃げ出したいくらいにな」


 そう言いながら、ドリーはおそるおそる背後を振り返る。その目線の先ではつい先ほど、彼を新鮮なエサと勘違いして近寄ってきた四つ足の巨大な竜が、代わりに与えられた巨大な肉塊にアグアグと噛り付いていた。あの竜が『マグナ』という名前で、かつて隣国の軍に所属していたドリーの上官を務める人間「だった」と知っているのは、今この部屋にいる三人だけだ。


「……彼と同じ姿になりたい? 君一人なら三十分もかからないけど」

「じょ、冗談はよしてくれ。こっちはあの日以降、しばらく寝小便が止まらなかったんだぞ」


 よほどトラウマだったのだろう。一方のレミも、竜に変身して人間を呑み込み、それを体内で卵に変えて産み落とすという一連の流れを、ユツキ以外の他人に「目撃」され、その感想を八年越しにぶつけられる経験は初めてだった。ふふっ、と自然な笑みがこぼれる。


「まあ、とりあえず依頼は受けるよ。『昔のよしみ』もあるしね」

「本当か! 助かる!」

「ただし、割引はできない」

「わかってるさ。前金で1000万ジェリカ、成功報酬としてもう1000万でどうだ?」


 結構、とレミ。ユツキはまだ何か言い足りない様子だったが、「社長」の決断を覆すことはできないと悟ったらしく、テーブルの上に並んだ写真やチラシを片付け始めた。


「パーティーは一週間後の土曜日だ。場所や時間は追って連絡する」


 踵を返し、社長室の入り口へと下がったところで、ドリーは手を打った。


「おっと、大事なことを言い忘れてた。当日は仮にもパーティーだからな。当然、あんたらもそれらしい服装で頼むぜ」



____



 一週間後。地平線に太陽が沈みかけた頃、広い敷地の正面に掲げられた「DONA HOTEL」という看板にライトが点く。


 その看板から東に五十メートルほど離れたフェンスの前で、ユツキは黒いニットのワンピースを身にまとい、よく映える真珠のネックレスを西日に輝かせていた。コンパクトなお団子にまとめられた黒髪と、艶やかな紅を帯びた唇が、今日が「特別な日」であることを物語っている。左肩に有名ブランドのポーチを提げ、耳にはピアスも光っているが、そこに当てられているのは仕事用の携帯電話だ。


「もしもし、レミちゃん?」

「……下見、お疲れ様」

「どういたしまして。そろそろ着きそう?」

「うん」

「私が社長席に用意していた服、ちゃんと着てくれた?」

「……うん」


 気乗りしない返事の直後、近くの交差点から一台のタクシーが現れ、ハザードを点滅させながらユツキの前に停車した。既に料金は支払ってあるため、後部座席のドアはすぐに開いたが、わざわざユツキのいない方から出てくるあたり、彼女も相当「おかんむり」のようだ。


「レミちゃん! おつか……れ……」


 労いの言葉くらいは、せめて陽気に。だが声を失った途端、ユツキはそんな自らの打算が甘かったことを思い知る。彼女は「まだ」振り向いてもいないのに、V字に割れたドレスから覗く滑らかな背中が見えた瞬間、ユツキは携帯を落としそうになった。


「……あまり見ないでくれる?」


 そこに立っていたレミが放つ色気の濃さは、ユツキが知る彼女の姿の中で間違いなく「二番目」だった。普段束ねていても存在感のある黄金の髪は、ハーフアップされてよりガーリーな形へと編み込まれ、メイクをほとんどしない彼女にしては珍しく、頬にほんのりとチークを乗せている。


 どちらも日常とは一味違う魅力だが、胸元が大胆に開いたドレスのインパクトには到底敵わない。露出した肌の白さを引き立てる紫色のVネック。彼女が昔から普段着にしているタンクトップですら、そこに生まれる谷間が食虫花のごとく男を吸い寄せるというのに、縦に二枚の「布」が走っているだけで、左右の胸の丸みを全く隠す気がないそれは、もはや服と呼べるかどうかも怪しいラインだった。道中で身ぐるみをはがされてしまったため、急遽街で拾ったタペストリーを身体に巻いてきたという斬新な言い訳も、彼女でなければぎりぎり成り立つだろう。だが、レミの衣服を力づくで奪い取ることができる者など、少なくともこの街には一人もいない。


「ユツキ」


 タクシーのドアが閉まると、レミはユツキがいる側に回り込んできた。ラベンダーの香水すら飲み込むほど強烈な妖気に、ユツキは腰の力が抜けそうになる。タクシーの運転手がカーエアコンを使用していたかは定かではないが、これほどかぐわしい「女」の匂いが充満する車内で、よくぞ理性を保ってくれたものだ。せめて女性ドライバーを指定してあげればよかった、という反省を抱きつつ、ユツキは走り去っていく彼が帰りのハンドル操作を誤らないことを願った。


 暗くなっていく空の下、二人は向き合う。


「レミちゃん、すごい似合ってるよ。とっても、その、セクシーで……」

「ユツキ」


 正面からレミに迫られている時ほど、ユツキは自分の背丈を恨めしく思うことはない。この八年間で身長差は一段と広がり、気を抜くと彼女の胸に顔をうずめそうになる。レミもそのことは知っていて、わざと「圧迫」してからかってくる日もあるが、今日のドレスはまさに鬼に金棒だった。


「あ、憧れちゃうなあ。こういう極端な服って、スタイル抜群なだけじゃダメだと思うの。服に『着られちゃう』というか……流石、レミちゃんは器が違うね!」

「ねえ、ユツキ?」


 逃げ切ろうと早口でまくし立てるユツキに対し、レミは終始柔らかい微笑みを浮かべていた。


「これ、経費で落ちると思わないでね」

「えっ……わむっ」


 ドレス選びへの仕返しとばかりに、レミはユツキの顔を一瞬だけふさぐ。ただでさえ呼吸が早くなっていた彼女にとって、それは窒息しかねない強力な「罰」だった。


「ご、ごめん。レミちゃんのドレス姿なんて初めてだから、つい張り切っちゃって……」

「こういう服、昔は苦手だったよね。抵抗なくなったの?」

「……」

「私に着せたかっただけ?」


 ユツキは観念したように頷く。

 しかし、彼女が二度目の「罰」に備えて息を吸い込んだとみるや、レミは細い指でその顎を持ち上げ、無慈悲な口付けをした。


「あう」

「……色は嫌いじゃないから、半分出してあげる」


 そう言い放ち、レミはホテル正面口の方へと歩いていった。何かの「原液」を口から流し込まれたような感覚に襲われる中、ユツキも無理やり頭を仕事モードに切り替え、その後を追う。


「ユツキ、クライアントから入金は?」

「あ、確認済み。打ち合わせ通り、19時から娘さんによる開会の挨拶があって、私たちの護衛もそこからスタート。パーティーは明日の朝まで続くらしいから……長丁場だね」

「……ボディーガードが正面から入るのって変な感じ。一応、入ったら彼女に挨拶しとく?」

「実はそのことなんだけど……」


 ユツキは胸ポケットから依頼書を取り出した。


「今朝になってクライアントから『依頼内容を修正してほしい』って手紙が届いたの。変更点は一つだけ……私たちが護衛についてることを、娘さん自身には知られないように努めてほしい、って」

「難しいことを言うね。私たちに透明人間になれとでも?」

「『可能な範囲で』って意味だと思うよ。急な変更だし、この点を守ってもらえれば追加報酬を払うとも書いてあるけど……」

「そっか。じゃあ頑張ろう」


 ころりと意見を変えたレミの足取りは、明らかに数秒前より軽くなっていた。竜の血が性格にも影響しているのか、そのルーズっぷりが生活の端々で目立つ彼女だが、お金に関しては実に細かい。特に本業では1ジェリカも相手に妥協せず、一分でも返済が遅れた相手には容赦しない。その証拠に開業以来、マザー商会で「半年以上返済を怠った債務者の数」と「出荷された卵の数」は、ユツキがいつ数え直しても不気味なほど「一致」していた。


 噴水がある広い庭を抜け、大理石で造られたホテルに入る。あらかじめドリーとすり合わせた偽名を受付に伝えると、二人はトランプ大のカードを一枚ずつ渡され、正面のレセプションルームへと通された。


「なんだろうね、このカード」

「さあ」


 レミのカードには55、ユツキのカードには70という数が印字されており、どちらも裏面にはホテルのロゴマークが描かれていた。


 ところが宴会場に入るやいなや、レミは足を止める。


「レミちゃん、どうしたの?」

「……いない」

「え?」

「この会場、男性が一人もいないね」


 彼女がそう言った途端、ユツキも違和感に気づく。巨大なシャンデリアの下、体育館ほどもある空間には既に五、六十人ほどの参加者が集まっていたが、間違いなく全員が女性だ。さすがにレミほど大胆なドレスを着た人間はいないが、誰もが派手に肩や胸を露出させ、ワインやシャンパンを酌み交わしながら、近くにいる相手と楽しそうに話している。仮にもマフィアのパーティーとは思えない光景だ。


「まあ、素敵なドレス!」


 その時、入口近くのグループで談笑していた女性の一人が、会話を打ち切ってすぐさま駆け寄ってくる。彼女の視線はレミに釘付けだった。


「今日はレベル高いわねー。貴方のお名前は?」

「レイラ」


 レミは偽名を即答した。その声色まで気に入ったのか、その女性は足元からぞくぞくと震え上がる。


「私はハンナよ。顔もスタイルも好みだし、できれば今から唾つけておきたいけど……貴方、ちなみにおいくつ?」

「23歳」

「ふーん、年下かあ」


 お世辞どころか求愛レベルの発言にも物怖じしないレミに対し、女性はゆっくりとそのボディラインを舐め回すように吟味する。


「うん、最高。もし今夜組むことになったら、いっぱい可愛がってあげるね」


 レミの右頬と顎、そして左の胸に一回ずつ触れてから、女性は元のグループに戻る。


 この不可解な出来事に唖然としていたのがユツキだ。「一応」レミの隣にいた自分に目もくれなかったことより、彼女の異様に馴れ馴れしい態度にショックを受けたようだ。また、その声が終始大きかったせいか、周りの参加者たちもレミに熱い視線を向けている。


「……待って、そういえば」


 何かを思い出したように、ユツキは一度しまったはずの依頼書を取り出す。よく見るとその枠外には、「お前らも『そっち』なんだろ?」という手書きのメッセージが添えられていた。


 ユツキの肩がわなわなと震え始める。


「……レミちゃん、心配しないで。この一言多い『クライアント様』は、仕事が終わり次第、私がきっちり締め上げておく」

「いいけど、残りの報酬を貰ってからにしてね」


 レミがそう言った直後、シャンデリアの光が暗くなり、奥のお立ち台にスポットライトが当てられる。


「『レディース・アンド・レディース』にお集まりの皆様、ようこそ。当ホテルの副支配人を務めております、アメリアと申します」


 MCの口からパーティー名が明かされた瞬間、レミもユツキも、この集まりが「そういう」目的であることを確信した。もしそれが本当なら、先ほどのハンナという女性の振る舞いも、依頼時にドリーがその内容を答えたがらなかった理由も頷ける。


「皆様もご存じの通り、当『ドナ・ホテル』は国内屈指の五つ星ホテルとして、年間を通じ、各界の要人や文化人にご利用いただいております。今は7月……ホテルとしては掻き入れ時でございますが、今宵はオーナーの強いご要望により、皆様のためにすべての客室を『貸し切り』とさせていただきました」


 その発表を受けて、黄色い歓声が会場を埋め尽くした。


「それではご登壇いただきましょう。『ドナ・オリエント』グループのご令嬢にして、当ホテルのオーナー、ドナ=ガーネット様より、開会のご挨拶を賜りたく存じます」


 しん、と会場が静まり返る中、乾いたヒールの音だけが響く。まばゆいライトに照らし出された髪は赤く、幼さの上に独特な風格を感じさせるほど、その目鼻立ちははっきりとしていた。右目に泣きぼくろがあるのを確認したレミとユツキは、阿吽の呼吸でさりげなく前の方へ進み出る。彼女こそ、今回の『マザー商会』のターゲットだ。


「みんな、こんばんは」


 彼女が口にした挨拶は、巨大なやまびこのように参加者から返ってくる。ほぼ全員が自分より年上だというのに、その口調には少しの緊張も見られなかった。


「……見た感じ、今日が初参加の人も多いみたいね。さっき副支配人が言ってたけど、このホテルは本来、ビュッフェやユニットバス、クーポンという言葉とは無縁の『格式高い』ホテルなんだ。昨日までそうだったし、明日には通常営業に戻るだろうけど……今夜だけは違う」


 横に現れた副支配人が、彼女にマティーニを手渡す。


「総支配人からベルボーイまで、今日は男性の従業員は一人も出勤していないわ。今宵、このホテルは『私たち』だけの物になる。独り身だろうと彼氏持ちだろうと関係ない……内なる欲望を秘めている者同士、自分の胸がうずいた相手と、今夜限りの愛をたっぷり育んでちょうだい。明日の清掃員にはもうチップを払ってあるから、ホテル内の壁や床、客室のベッドは、好きなだけ汚してもらって結構」


 グラスを掲げ、彼女は高らかに「愛に」と叫んだ。

 参加者たちも同じ言葉を繰り返し、あちらこちらで互いのグラスをぶつけ合う。


 しかし振り返ると、それは戦闘開始の合図と言っても過言ではなかった。乾杯の後、一口目を飲む女性はほとんどおらず、大多数は目星を付けていた相手の元へまっすぐ向かう。運営側の意図を感じさせる間接照明と、各所に配置されたディフューザーから漂うアロマが、彼女たちの雰囲気を「一変」させていた。


 そんな中、早速レミの周りに人だかりができる。


「あなたのお名前、レイラさんで合ってる? よかったら私とお話しない?」

「ほんと……すごい身体ね。私もよく男に声をかけられるんだけど……今ならその気持ちも分かるわ」


 揉みくちゃにされ、離れ離れになりそうになるレミとユツキ。

 二人が固く手を繋いでいることに気付いたらしく、女性の一人が声を上げた。


「あら、相思相愛なんて羨ましい。でもあなた達、ルールはちゃんと守ってね」

「ルール?」

「そうよ。一人の女性に応募が殺到した場合、その相手は『くじ引き』で選ぶことになっているの。入口で番号札をもらったでしょ?」


 彼女は視線を、レミが反対側の手に持っていたカードに移した。


「55番、ね。すみません、『ラブリーダイス』55番でお願いします!」


 耳慣れないワードが飛び出した直後、正面の壁に左右のプロジェクターから光が当たり、そこに高速で移り変わる数字が映し出される。悪趣味な話だが、このルーレットで「無理やり」相手を決めようというのだろう。


 誰もが固唾を飲んでその結果を見守っている隙をついて、レミはユツキに耳打ちした。


「ユツキ、ターゲットが動く。私は後で行くから、彼女の監視をお願い」


 レミが顎で示した先をユツキも見る。そこには壇上にいたはずのドナ=ガーネットが、他の参加者に先駆けてレセプションルームを出ていく姿があった。


「わ、わかった。ターゲットの方は任せて。でも、その……」


 状況を理解してなお、動揺を隠しきれていないユツキ。『ラブリーダイス』が見知らぬ番号に止まった瞬間、彼女はさらに落ち着きを失った。その打ちひしがれた様子は、同じ結果に溜め息をつく女性たちとは比較にならない。


 それでも、レミの微笑はユツキだけに向けられていた。


「……大丈夫、私はあなたのものだから。何かあったら携帯を鳴らして」


 反対の手を「強く」引っ張られ、レミはユツキから手を離した。さりげないウィンクが功を奏したのか、ユツキも意を決したように「うん」と頷き、踵を返す。



____



「ごめんねー。手、痛かったでしょ。貴方を奪われたらまずいと思って、つい」

「……大丈夫」


 番号付きのドアが左右に並ぶ廊下を、二人の女性が歩く。衣擦れの音が一人分しか聞こえないのは、もう一人のドレスに擦れるほどの布面積がないからだが、言うまでもなくそちらがレミである。その左手には、誰かの爪が食い込んだことを示すマニキュアが残されていた。


「たまにいるのよね。ラブリーダイスの結果を無視して、他人の相手を横取りしちゃう人。ほんと最悪」


 そう毒づきながら、ハンナは一番奥にある客室のドアを開けた。くじ引きの際、何人がレミの「夜のお相手」に立候補していたかは定かでないが、何にせよ幸運を勝ち取ったのは、このパーティーで初めてレミに声をかけた彼女だった。


「レイナさん、どうぞ」


 レミを先に通してから、ハンナは後ろ手に「がちゃり」と部屋の鍵を閉める。わざとらしく音を立てるあたり、雰囲気作りも形から入るタイプなのだろう。


「ふふ……貴方って無口なのね。無理に角部屋を選ぶ必要、なかったかも」

「どういう意味?」

「あら、案外気にしないタイプ? 隣の部屋の人に自分の叫び声を聞かれるのって、すごく恥ずかしくない?」


 彼女の真意が掴めないのか、レミはきょとんとしていた。


「私、叫び声なんて上げないけど」

「はぁん!」


 昇天したような声に合わせて身を突き上げ、ハンナはレミによりかかる。勢いのままベッドに押し倒そうとしたのだろうが、レミが一ミリも動じなかったため、彼女は不貞腐れたようにハグをするしかなかった。


「貴方、完ぺきよ。でもダメ……貴方みたいに気丈で隙のない女の子を見ると、私、つい壊したくなっちゃうの」


 ハンナは甘い声で囁きながら、レミの首筋や背中、へそ回りや太ももなど、素肌が露わになった部分をじっくりと撫で回していく。形や大きさはレミに軍配が上がるものの、彼女が惜しげもなく密着させている双丘もまた、並みの男を篭絡するには十分な迫力がある。四つの実をつけた木が風に揺らぐように、二人はしばらく、暗がりの中で身を重ねていた。


「……ん?」

「最初は……少し痛いかもしれないわ」


 一方的な愛撫にも顔色ひとつ変えないレミだったが、ハンナがどこからともなく取り出した物を見て、さすがに目を細める。それは鈍く光る本物の「鞭」だった。


「でも、すぐに気持ちよくなるから安心して。私が今までに調教してきた女の子も、最初は泣いて嫌がるばかりだった。でも足腰を優しく打つところから始めて……少しずつ上の方も責めてあげたら、最後には『もっと、もっと』って欲しがるようになったの」


 その鞭が「新品」でないことは、細かい傷があったり、革の一部が裂けていることからも明らかだった。


「でも、もちろん鞭ばかりじゃないわ。ちゃんと頃合いを見て『アメ』もあげる。こんな風に……」


 そう言ってハンナは立てた人差し指を、レミの左胸の頂点に近づける。しかし触れるか触れないかのところで、レミはその手を掴んだ。


「あら、なあに」

「ねえ……外でしない?」


 ——数分後。一度は鍵を閉めたはずの客室を出たレミとハンナは、夜風の当たる裏庭に足を踏み入れる。パーティーの開始からおよそ十五分——客室から漏れる声を聴く限り、せっかちな人々は早くも一回目のクライマックスを迎えているようだが、さすがに序盤から屋外を縄張りにする猛者はいないのか、そこは無人だった。とはいえ、もう十五分もすれば、ベッドイン前の過程も含めて楽しみたいという「奥手」な女性たちが、手軽なデートスポットとしてこの場所を訪れ始めるだろう。


「……意外ね。ベッドより芝生の上がお好みなの?」

「うん。むしろ、これくらい広くないと困る」


 変わったこだわりを見せるレミに、ハンナは詳しい理由を問う余裕もなかった。何しろこのとき既に、彼女の脳裏を支配していたのは、滑らかな曲線美を描くレミの肢体が、今のドレス姿以上にあられもない格好で大地に横たわる、そんなワンシーンだったからだ。発達した二つの乳房が、背丈の低い草を押しつぶし、くびれた脇腹や長い脚に付着した土が、まるでライオンのごとく地に伏した彼女の野性味を引き立たせる。


 そんな妄想に、手の早いハンナが耐えられるはずもなかった。


「ねえ、あまり焦らさないで。レイナさんの側を歩いてるだけで、私、もう……」


 その足がふらついたのも、もはや気を引くための演技ではない。


 一度レミの容姿に「目」を奪われた者は、時間をおいて「鼻」も虜にされる。彼女が身にまとう独特な香りは、ジャスミン、ココナッツ、モッツァレラチーズなど、さまざまな原料を彷彿とさせるが、世に「秘伝」と称される黒い炭酸飲料のレシピと同じく、その配合は誰にも再現できないものだ。この匂いは男女や年齢を問わず、あらゆる人間の思考から理性を引っこ抜き、行動を思春期レベルに後退させる。


 鞭を落としそうになっているハンナを見て、レミは少し口角を上げた。


「ごめん。最後にひとつだけ聞いていい?」

「な、なあに」

「このパーティーは、さっき壇上にいた人が主宰してるんだよね。彼女にもパートナーはいるの?」

「マーガレット様のこと? そりゃ、いるんだろうけど……あの方は特別よ。いつも開会ぎりぎりに来て、挨拶の後はすぐ姿を消しちゃうから……誰もあの人にアプローチする暇なんてないわ」

「……そう。ありがとう」


 いまだに素っ気ないレミに対して、ハンナは訝しげな表情を浮かべる。


「レイナさん……まさかとは思うけど、逃げるつもりじゃないわよね。言っておくけど、貴方に唾をつけたのは私よ。ラブリーダイスが当たった以上、少なくとも『一回』はお相手をしていただくわ」


 疑いの目を物ともせず、レミは大きく伸びをした。


「……いいよ。でも、『唾』をつけるのは私の方かな」


 ハンナを再び卑猥な妄想へと引き込んだのは、その意味深な発言だけではない。有言実行と言わんばかりに、レミは自身のドレスを肩から脱ぎ捨て、その扇情的な裸体を露わにする。


「え?」


 しかし五秒後、彼女の目の前で起こった「変化」は、想い描いていた甘美な世界とはかけ離れたものだった。突如、脱力したように四つん這いになったレミの身体は、内側から波打つ筋肉に呑み込まれ、手足も何十倍という大きさに膨れ上がる。


「え……え……?」


 正面の空に浮かんでいた夕月もすっぽりと隠れる。大きめの街路樹か電柱なみの巨体は、およそ十メートル弱といったところだ。レミの白い肌はもはや見る影もなく、代わりに一片が人間の顔ほどもある藍色の鱗が、びっしりと彼女の視界を覆っていた。


「ひゃっ……!」


 暗がりの中に浮かぶ、挿し色のようなピンク。それが無数の牙に守られた巨大な「口」だと気づく頃には、ハンナはその内側に閉じ込められていた。筋骨隆々の男による「お姫様だっこ」よりも軽々と持ち上げられた彼女の身体は、たいした抵抗をする間もなく、ゴクリと一瞬で呑み下される。


 ——またもや数分。金色のたてがみを夜風になびかせ、竜は空を見上げていた。その鱗が闇と同化していることに加え、人の気配がある客室は軒並みカーテンが下りているため、その存在に気付く者はいない。


 ごぽり。

 唯一、皮膚の色素も厚みも薄くなっている部分から音が鳴る。竜が四本足で立っている以上、そこに収められた獲物の重さは、皮膚の落ち込み具合にしっかりと反映される訳だが、「彼女」もかなり重い部類のようだ。


「グァウ……」


 竜が力を入れると、その膨らみはゆっくりと体内を遡り始めた。通常が「一方通行」なだけに、そのスピードは喉を下った時よりはるかに遅い。だが柔軟な筋肉に優しく押し上げられた甲斐あって、ようやく口から吐き出された時、全身が唾液まみれで失神していることを除けば、ハンナは完全に無傷だった。


 嚥下からおよそ三分——この絶妙なタイミングは、レミが竜となっても自分の意思をはっきり保っている証なのだが、同時に彼女が人間を「呑み慣れている」ことの現れでもある。吐き出すのが早ければ、ハンナの意識を奪うことはできなかっただろうし、逆に遅ければ消化が始まっていたか、過去にレミの腹へと消えた男たちと同様、ハンナは「卵室」送りになっていたに違いない。


「ごめんね」


 人の姿に戻ってすぐ、レミはそう呟いた。口角から垂れた涎を拭い、何事もなかったかのように落ちていたドレスを身に着けた彼女は、力なく横たわるハンナの隣にしゃがみ込む。彼女のうなじを撫でると、ねっとりとした液体が銀の糸を引いた。


「まあ……ちょっと激しめの『チュー』ってことで」



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