停滞する留守番
電話が鳴ると、母さんは人が変わる。受話器を耳に押し当てて、口紅を塗ったくった真っ赤な唇が、緩い弧を描く。母さんじゃないような、遊んだ、つかみ所のない甘い声がいやに耳について離れない。間延びした話し方が、誰か知らないひとのように感じさせた。わたしはそんな母さんの姿を見るたびに大きな不安に襲われて、皿の一枚でも割って、無理やり電話を中断させていつものように大声で怒鳴られたいと思うのだ。
蝉がようやく鳴きはじめた。小学校低学年の妹の肌が段々と真っ黒に日焼けしていって、友達の制服姿が長そでから半そでへと変わっていく。色濃く染まっていく鮮やかな景色を見て、わたしは夏の到来を五感全部で感じる。
思わず顔を歪めてしまうようなきつい香水の匂いで、わたしは目を覚ました。畳ばりの、布団の敷き詰められた小さな部屋に、むっとする匂いが充満していることに気がつく。ただでさえ暑い部屋なのに、と心の中で悪態をつきながら目を擦って辺りを見回す。隣でまだ妹のゆかりが静かな寝息を立てていた。
部屋の隅に置かれた古臭いドレッサーの前に座って、入念に化粧をしている母さんの姿を見つけた。部屋に香水の匂いが充満しているのは、きっと母さんのせいだろうと確信する。いつもより華美な服装に、また新しい彼氏とどこかでデートでもするんだろうと安易に予想がついた。
カーテンの隙間から零れている日の光に目を細めながらわたしは重たい体を起こして立ち上がる。
「もう昼よう」
年相応とはとても言えないような浮ついた口調で、母さんはわたしを咎めるように言った。
母さんのその言葉に促されるように壁に掛けられた時計を見て、もう昼だということにやっと気がつく。やってしまった、と小さく舌打ちしてから、とりあえずカーテンを開いた。痛いくらい真っ直ぐな明るい日差しが部屋の中に入ってきて、思わずわたしは何度か大袈裟に瞬きする。ふと、網戸のところに蝉が一匹はりついているのを見つけた。昨日の昼からずっとガラス戸は開けたままで、網戸だけ閉めた状態でいたから、きっとそのあいだに掴まりやすい網戸に寄ってきたのだろう。網戸越しに、蝉の腹を指で突っつく。ぴくりとも動かず、鳴きもしない。ためしに網戸を揺すってみたが、それでも反応を見せない。唖蝉はただ網戸につかまっているだけで、それ以上のことは全くしないつもりのようだ。
パジャマがべたべたと肌に纏わりついてきて、鬱陶しい。寝汗を掻いたせいか、体全身がねちっこい油でも被ったような感覚がする。布団をあげたらゆかりと一緒に水風呂にでも入るかと、溜め息をついた。
「ゆかり、もう昼だよ」
汗で額に張り付いた細い髪をなでながら、ゆかりの体を軽く揺する。ううん、と煩わしそうなくぐもった声が聞こえてきて、あと少し寝かせてやるくらいはいいか、と肩を落とす。
わたしと母さんの分の布団を押入れに戻す。そのあと、寝苦しくないようにとゆかりに風があたるように扇風機の位置と角度を調節した。その間に母さんは出掛けてしまったようで、お昼ごはんはいるかどうか訊こうといくら呼んでも返事が返ってくることはなかった。
「おねえちゃん」
水風呂に入り、昼食も終えたゆかりは妙にさっぱりとした様子で、皿洗いをしていたわたしをいきなり呼んだ。わたしは皿洗いを中断させて、タオルで手を拭きながらどうしたの、と尋ねる。ゆかりは一度口を開いたがまたすぐに閉じ、じれったそうに体をくねくねとくねらせて、何も言わなくてもお姉ちゃんなら察してくれるでしょう、と言いたげな様子が伺えた。
「どうしたの」
わたしはもう一度、ゆかりにはっきり伝わるように尋ねる。
ゆかりは一度躊躇って、それから「そと」と小さく答えた。声を出すのも億劫だとでもいうような、完璧に近いほど形の整った貧弱な唇から、ぼそりと発せられたその言葉は妙に乾いて聞こえた。
「公園に行きたいの? それとも別の場所?」
「公園」
本当はテレビのコマーシャルでもやってる遊園地や大きいプールに行きたいのだろうけれど、それを押し殺して少し間を開けてから答えたゆかりの姿はあまりも痛々しかった。
「準備して待っててね、すぐに洗い物終わらせるから」
ゆかりの額に浮かんでいる汗を拭ってやりながら、わたしはなんとか笑ってみせる。途端にゆかりは顔を輝かせて、あどけない笑顔をわたしに向けて元気よく頷き、自分の部屋へと消えていった。
やらなければいけない家事を全て済ませたころには、もう三時をまわっていた。ベランダから外を覗くと、夕方に近づいているような淡いオレンジ色が遠くの空に見えたが、やはり夏ということもありまだ随分と明るかった。痛いほど降り注ぐ日差しが目の奥を痛くさせた。熱された夏の中に、力強く吹く風が浮き出た汗を奪い去ってゆくのを感じた。
近所の公園は小さくもなければ大きくもなく、小さい子が遊ぶために置かれているいくつかの遊具がある場所と、軽い少年野球ができそうなグラウンドの二つに分かれていた。
ゆかりは公園に着くなり、慌てて空いていたブランコまで走っていって、誰も使わないのを確認してからブランコに座った。地面を蹴ってこいでみると、錆びかけの鎖が擦りあって、キィ、キュイ、と音がする。小さな足がさらに強く地面を蹴って、空中を舞っては戻ってを繰り返すゆかりの姿を、近くのベンチに腰掛けてわたしは眺めることにした。
他にも公園には何人かの子どもがいた。砂場に一緒に座り込んでいるのを見る限り、同じ小学校の友達か近所の友達で遊びにきたのだろうと予想がついた。ゆかりはその子どものグループを、ブランコをこぎながらちらちらと見ていた。気になって仕方がない様子だ。
いつものように高くブランコをこぐ前にゆかりは降りて、何をやっているのか数秒おきに喚声を上げる子どもたちの円の、すぐ傍まで歩いていった。仲間に入れてほしそうな視線と、その一歩を踏み出すのを躊躇っているようなため息が混じり合う。ゆかりは人一倍人見知りをするから、きっと「ねえ」と声を掛けるのさえできないのだろうと思うと、わたしはきゅっと胸を締め付けられた。きゃあ、わあ、とひっきりなしに聞こえてくる声に、見えない手でぐいぐいと押し返されているようにその場に立ち尽くすゆかりに、わたしはどうしていいかわからないまま呆然とその景色を眺め続けた。
結局ゆかりはひとりでまたブランコをこぎ始め、いつものように地面を強く蹴って空中へ高く舞い上がった。気がつくと先ほどの子どもたちはもう別の場所へ移動したようで、あれだけ熱心にかこっていた砂場は閑散と乾いた土を夕風に遊ばせていた。ゆかりはブランコをなおもこぎ続け、もっと高い場所を求めるかのように上へ上へと向かってブランコを上下に揺らしている。放っておいたらその小さな体ごとどこか遠くの場所へ飛んでいってしまいそうで、怖くなって「ゆかり」とわたしは呼びかけた。
上下するブランコのスピードが緩んでから、ゆかりは軽くジャンプして地面に着地する。ふう、と息を吐きながら顔にかかった髪を邪魔そうに払った。
「なあに」
ベンチに座ったままのわたしを見ながら、ゆかりは首を傾げる。
「もう暗くなってきたし、そろそろ帰ろっか」
呼びかけた理由を話すわけにもいかず、上手い言い訳を思いつく時間もなく、わたしは目に映ったオレンジと紫の混じり合った空を見て、ゆかりに手を差し出した。
「うん」
汗に濡れた小さなゆかりの手を握って、歩き出す。その瞬間に、ゆかりがどこか名残惜しそうに公園の砂場をちらりと振り返ったのを、わたしは見て見ぬふりをした。
蝉はもう随分と前に鳴き止んで、閑散とした中にもさんざめくような寂しげな賑やかさを残した公園が、心寂しい夏の印象を与えた。
母さんは夜になっても帰ってこなかった。また一週間くらい戻らないのかな、とゆかりは夕飯の時間にぽつりとつぶやいた。わたしは「きっとすぐ帰ってくるよ」と何の根拠もない言葉を返すのがやっとだった。
わたしとゆかりの家はひとつだけだが、母さんの家は三つある。実家と、このアパートと、もうひとつ、彼氏ができたときのためにあるマンションの一室だ。もともと離婚した父さんのマンションなのだけれど、母さんがわたしたちを武器にして自分のために父さんから奪ったのだ。それからというもの彼氏ができるたびに数日間はわたしたちのいるアパートを出てはマンションで子どものいない、二人きりの空間を楽しんでいるらしい。お金は母さんの部屋に置いてあるから、何日か母さんがいなくてもやっていけるのだが、そういう問題ではなくて、いくらマイペースなひとだとはいえやはり親がいないというのはどこか心許無かった。
じりじりと、名前もわからない虫の声が聞こえる。都心からやや離れた民家には、夜の静けさを破るような車の走る音も、大声で笑ったり話し合ったりするひとの声も聞こえてこない。
「見てみて」
ゆかりが、わたしが朝見つけた唖蝉を網戸からはがしてわたしのところへ持ってきた。敷いたばかりの布団の上にぺたんと座り込んで、自分の愛用の枕の上にぴくりとも動かない蝉をのせる。やはり、朝と同じように鳴かない、微動だにしない。わたしは長く伸びた髪を耳に掛けて、ゆっくりと蝉の顔を覗き込む。
大きく開かれた、或いは開く以外すべのない眼が、部屋の電球の明かりを反射させながらどこか一点をじっと見つめている。変わった模様の薄い翅は擦りあわされることもなく、細かな白の斑点のついた太く短い赤黒い胴体にぴったりと張り付いていた。
「どうしたのかな」
ゆかりは細い指で蝉の背中を撫でながら、呟いた。
なおも蝉は動かない。きっと、死んでいるのだろう。
「ゆかり、汚いよ。はやくベランダに置いておいで」
お風呂に入ったばかりだよ、と付け足してから、わたしはゆかりの頭を撫でる。
「ねえ、おねえちゃん」
「なに?」
「死んでるのかな」
小さな手で蝉をつかみながらゆかりは不思議そうに首を傾げてわたしに訊いてきた。対照的な、それでもどこかその蝉と酷似しているゆかりの姿を見て、わたしはなんとも言えない気持ちになった。その際立った違いと近似さの矛盾が、ゆかりを遠くへ連れ去ってしまうのではないかという、公園で感じたものと同じ不安がわたしを襲った。
「ねえ、ゆ」
ねえ、ゆかり。と諭そうとしたときに、タイミング悪くわたしの携帯電話が鳴った。電話がきたときに鳴るように設定しておいた着メロが流れている。わたしはため息をついて、枕元に置いていた携帯電話を手にすると、画面を開いて誰からの電話か確認する。同じクラスの友達からだった。そのまま電源を落としてしまおうかと思いながらも、通話ボタンを押して携帯電話を耳に押し当てた。
「もしもし」
「もしもし、さっちゃん?」
さっちゃんとは、わたしのあだ名だ。智子の一番最初の文字を取ってちゃんをつけただけの、至ってシンプルな愛称。さっきまで電話に出るのも煩わしく感じていたのに、友達の声を聞いただけで、なんだかテンションが上がっていく気がした。電話の理由は特にないらしく、ただ最近会わないからどうしたのかと気になって電話をしてみただけだったらしい。用事がないだけに、他愛のない話で盛り上がっていく。携帯電話の向こうからは、夏を堪能している友達の浮かれた声がしきりに聞こえた。
「あれ、ゆかり?」
すっかり電話に夢中になっていたわたしは、電話を切るなりついさっきまで隣にいたゆかりがいないことに気がついた。ついでに、枕の上からは蝉の姿も消えている。どこに行ったのだろうかと、家の中を探し回るが、どこにもいない。わたしは少しだけ怖くなった。ただの杞憂のはずが、本当にいなくなってしまったのでは、と仕様もない考えが頭の中をぐるぐると回転する。すると、ベランダの方で何かが動く音がした。多分昼間だったら聞き逃していたであろう小さな音が、途切れ途切れに聞こえてくる。ベランダを覗くと、そこにはわたしに背を向けてしゃがみ込むゆかりの姿があった。どうやら随分と前に枯れた花をいつまでも植えてるプランターをいじっているらしい。
「何やってんの」
やっと見つけたという安堵感と、少しばかり怒ったような二つの声色を含めて、ゆかりに問いかける。
「埋めてるの」
わたしを見ないまま、ゆかりはすぐさま答えた。
訝しく思って、跣足のままベランダに出るとそのままゆかりの隣にしゃがみ込んで、プランターを覗き込む。ゆかりは、スコップも何も使わずに、ゆっくりと土を掘り返していた。プランターの傍らには、さっきの蝉もが置いてあった。
「お墓、作ってるの?」
プランターを覗き込んだまま、わたしはまた問いかけた。
「うん」
短い返事が返ってきた。
「蝉の?」
わたしはまた問いかける。
「おねえちゃん、うるさい」
ついには疎ましそうにゆかりに咎められた。
そう怒られてしまうと、わたしもゆかりに何も質問できなくなってしまった。ただなんとなく、ゆかりに話しかけていないと不安でたまらなかったからわかりきった、意味のない質問をしただけなのだから。わたしは諦めて、膝に手をついて立ち上がると、部屋に戻ってベランダに足を出して座り込んだ。
ゆかりはせっせと、部屋の明かりだけがベランダを照らす薄暗さの中、土を掘っていた。それを終えると、今度はパジャマのポケットに突っ込んでいた一枚のティッシュペーパーを取り出した。何をするのだろうかとわたしは首を伸ばす。ゆかりは傍らに置かれていた蝉をそっと丁寧につかむと、やさしくティッシュにくるむ。白いかたまりが、やけに目についた。
その後姿はあまりにも小さくて、いや、子どもなのだから小さいのは当たり前なのだけれど、そうではなくて、もっと別種の小ささがわたしの目には痛かった。くっきりと骨の浮き出た細い腕が、いたわるように白いかたまりを穴の中へ置く。そして今度は掘った土をぱらぱらとそのかたまりの上へ落としてゆく。その動作が、幼いゆかりにはまだあまりにも不似合いで、それと同時によく似合っていた。
「母さん」
わたしは母さんの携帯に電話をかけた。もちろん母さんがこんな夜に電話に出るはずもなく、留守番電話の状態がずっと続く。何度かかけなおしても留守番電話のままだったので、わたしは渋々メッセージを残すことにした。
はやく帰ってきて。
ゆかりはまだベランダに出たままで、母さんの電話は繋がらないままで、わたしはただ焦っていた。生活感はあるのに、妙に寂しげなリビングが、また更にわたしのなんともいえない焦燥感を煽る。
きっと、幼いころに感じた、母さんに置いていかれてしまうのではないかという懐かしい不安がよみがえる。ちがう。わたしはきっともう、誰かに置いていかれることはない。わたしは心のどこかで、それだけは強く確信していた。そうではなくて。きっと今わたしは、置いていかれる立場ではなく、置いていってしまう立場におかれているのだ。ゆかりはもう随分と遠い場所にいる。死とか生とかそういうものでも、距離的なものでもない遠さ。
つーつー、と電話の切れた音だけがする。わたしは受話器を置いてから、布団の敷いてある部屋へと戻った。そこからベランダをちらりと覗くと、えらく長い合掌をゆかりはしていた。
じりじりと、名前もわからない一匹の虫の声がどこか遠くでゆっくりと鳴き出した。静かな夏の夜に響くその声はひどくわたしの耳に残った。
思いっきり斬ってください。切実にお願いします。
もう中傷まがいの批評でもいいので。