御島京子はいなかった
とうとう我慢できずアスピリンを2錠飲んでしまった。
ここ一週間というもの、あまりにも頭痛が治まらず耳鳴りも酷い。
熱いシャワーを浴びてベッドで30分ほど体を休めると、ようやく少しだけ痛みが和らいできた。だが耳鳴りは止まない。ズリッズリッと何か重いものを引きずるようなねっとりとした音が左耳に、キィンキィンと乾いた金属音のようなものが右耳に響き続けている。時折その嫌な音に混じって低い男の声で「おい」と話しかけらていれるような錯覚を覚える。もちろんこれも耳鳴りだ。
俺は若いころから頭痛持ちだったが、しかしこんな不快な耳鳴りは初めてだ。
いや、これは本当に耳鳴りなのだろうか。
人差し指と親指の腹で眉間を揉みながら洗面所に向かい、シェーバーで乱雑に髭を剃る。
その15分後、ぴったり約束どおりの時刻に2人の客がやってきた。
弁護士の大村悟氏とフリーライターの秋島精太郎だ。
応接間の焦げ茶色のソファに2人を座らせ、カップに注いだインスタントコーヒーを出す。
そのまま俺も2人の対面にゆっくり腰掛け、自分のカップに手を伸ばすと、それに口を付ける暇もなく大村氏が喋り始めた。
「私どもは何分こういうケースに慣れておりませんもので。とにかく専門の方のお力を借りるほかないと、こう判断しまして、それでこちらの秋島さんに貴方をご紹介いただけましたので、こうして参上した次第でして」
「はあ。左様ですか」
俺がわざと間の抜けた調子で返事をすると、ほんの僅か大村氏の頬がぴくりと動く。本当にほんの僅かだけ、ぴくりと。なるほど弁護士というのは鉄面皮だ。
「ねえ秋島さん。あんたこちらの弁護士先生に、どんな風に俺のこと説明したの」
「どんな、って。ちゃんと教えたよ。オカルト系の調査に強い人間だって」
「それじゃ困るんだよ、あんたいつも人に何か伝えるとき言葉が足りないんだから。あのですね大村先生、私確かにフリーランスの調査員で、そこの秋島さんや他にも何人か懇意にしてるライターさんがいて、依頼されて色々調べ物をやったりしているわけなんですが、裁判に関連するような調査なんてことは一度もやったことがありませんし、何よりオカルトとか心霊みたいなものの専門家ってわけじゃ」
「勿論、存じておりますよ箕輪さん」
「はあ」
「『一見』怪奇現象かのように思われる事象の調査が貴方の得意分野だ。どんな異常な出来事も、貴方は地道な調査で、科学的な、常識的な、不思議でもなんでもないただの普通の事件として解明してしまう。裏を暴いてしまう。しかし、ということはですよ。逆に、貴方のような専門家が調査しても真相を暴けないならそれは本当に『本当の怪奇現象』だと言えるんじゃないですか」
「さあ。どうですかね」
「ちなみに今までそういう『本当の怪奇現象』に遭遇した経験は?」
「ゼロですね」
「頼もしい。成功率100パーセントというわけだ」
「妙な買いかぶりは止めてください。私なんかのところに依頼される調査は、どれも詰まらない取るに足らないものばかりです。誰がやったって成功率100パーセントですよ」
「いつも取るに足らない調査ばっかり依頼して悪かったな」
秋島がわざとらしく口を尖らせて、拗ねたような表情をみせてくる。
それが40を過ぎた髭面のおっさんのやることか。
そして大村氏はそんな秋島のほうに目線を送ることすらしない。
完全に無視して話を続ける。
「去年おこった品川の夫婦による6人連続殺傷事件のことは覚えていますか?」
どうやら本題に入るらしい。
「ええ。ショッキングな事件でしたから」
品川区の一軒家に住む会社員・蛭田翔平とその妻・蛭田いずみが3年間の間に自宅で5人もの人間を殺害していたことが発覚したのは昨年11月のことだ。夫婦はインターネットの出会い系サイトやSNSを通じて知り合った男女を自宅に監禁し、暴行のうえ殺害した。
1人殺したら数ヶ月のインターバルを開けてまた別の人間をターゲットとして犯行を行う、というサイクルで20代から50代の男4人、女1人が犠牲になった。
6人目の被害者女性のNさんは蛭田の自家用車内でナイフにより足を切りつけられ、自宅に連れ込まれそうになるも、隙を見て逃走。近辺のコンビニエンスストアに逃げ込み保護された。事情を聞いたコンビニエンスストア店長が警察に連絡し、駆けつけた警官により蛭田夫妻は逮捕された。
その後、警察の家宅捜索で蛭田宅の押入れ、物置、風呂場からバラバラになった5人の死体が発見された。
「あれの弁護を私、担当しておりましてね」
「それはそれは」
「で、関連してちょっと人探しをしてるんですよ。これがどうにも妙な話でして。あ、今からお話しする内容は完全に守秘義務に違反するんですが、まあお気になさらず」
さらりと危険なことを口にする大村氏に、俺は思わず顔をしかめた。だが大村氏は意に介する様子も無い。パリッとしたスーツに、落ち着いた話くちで一見まともな弁護士に見えるこの男だが、とんだ食わせ物なのかもしれない。
秋島のほうを睨みつけると、すっと目を反らされてしまった。
頭が痛い。さっき飲んだアスピリンは一向に効いてこない。
コーヒーを飲む。
余計に頭が痛くなる。
耳鳴りがする。
「で、私が捜している人間というのは6人連続殺傷事件の主犯・蛭田翔平の幼馴染の女で、名前を御島京子と言いましてね・・・・・・」
ここからは大村弁護士の語った蛭田翔平と御島京子の話である。
蛭田と御島京子が始めて出会ったのは小学3年生のときだった。蛭田の家の近くに御島京子が引っ越してきたそうだ。当時彼らの通う市立西第二小学校では児童に集団登校を義務付けており、住所の近い2人は同じ登校班であった。
顔見知りではあったものの特に親しい間柄ではなかった2人だが、5年生に進級した際のクラス替えで同じクラスになったことを契機に頻繁に一緒に遊ぶようになった。
初めはザリガニ釣りだった、と蛭田は言う。
登校途中に会話の流れで蛭田が、たくさんアメリカザリガニが釣れる川を知っている、と話すと「ぜひ連れて行って欲しい」と頼まれたそうだ。
ザリガニは雑食性なので、何となく食べられそうだなと思ったものを紐に結んで、ザリガニのいる池や川に垂らせば大抵食いついてくる。スルメイカが一番だが、その辺りで適当に捕まえた虫や輪ゴムを丸めたものでも釣ることができたため、当時の彼の友達の間ではいかに珍しい餌でザリガニを釣ったか、ということが1つの自慢の種だった。
蛭田と、同級生男子のNさんと共に公民館の裏手のどぶ川に行った御島京子だが、はじめのうちはザリガニ釣りに参加せず、後ろで蛭田とNさんが釣る様子をにこにこ眺めているだけだった。しばらくしてNさんが釣ったザリガニを勝手に取り上げ、その体を引き裂き、それを餌にしてザリガニ釣りを始めた。
唖然としてその様子を見る蛭田、Nさんに対し御島京子は「こうやって釣ったザリガニを後でたくさん1つの狭い水槽に集めて、餌をあげずに放っておくの。そうするとそいつら共食いしだすんだよ。仲間の肉を食べて釣りあげられるような悪いザリガニは、そんな目にあうのが因果応報だよね」と微笑んだ。
当時の蛭田は因果応報という言葉の意味を知らなかったが、なんだか不気味な言葉だな、という風に感じたそうだ。その日は3人ともたくさんの赤々としたアメリカザリガニを釣り上げ、大満足であった。御島京子がそいつらを本当に共食いさせたかどうかはわからない。
それ以来、蛭田と御島京子、それにNさんはしばしば一緒に遊ぶようになった。御島京子はとにかく虫や動物を殺したり、共食いさせる遊びを好んだ。蛭田はそれを少しだけ気味悪く感じていた。
3人の子供の力関係はいつも、御島京子が何かを命令する側、蛭田が笑ってそれを助長する側、そしてNさんがその命令に従う側だった。ただし時にはクラスのいじめられっ子を相手に3人で何かを命令して楽しむこともあったようだ。
学校近くの文房具屋で万引きをしてこい、だとか。クラスの誰々の靴をゴミ箱に捨てろ、だとか。碌な子供じゃありませんでしたよと蛭田は言う。その通りだと思う。
小学6年生の秋、どこから手に入れたのか黒いガラス瓶を取り出して見せた。「これは毒性の強い農薬だ」と。その瓶をNさんに渡し、飼育小屋のウサギが飲む水にこれを混ぜろと命令した。ウサギが死ぬところがみたいのだ、と。
それはさすがにできないとNさんは拒んだが、御島京子はしつこく強要した。それで一度は瓶をもって飼育小屋の前まで向かったNさんだったが、結局「どうしてもできない」と戻ってきた。すると御島京子は瓶を取り上げ、蓋をあけて「じゃあお前が飲め」とNさんの口元に押し当て中身を流し込んだ。
Nさんはすぐに吐き出したが、それでも少量を飲んでしまったらしく、それで体調を崩し、そのまま卒業式まで登校することはなかった。
5分、10分と、時間を追うごとにNさんの顔色がみるみる青くなって足元がふらつく様子は本当に怖かった。生き地獄だった。と蛭田は語った。そして御島京子はそれを心底嬉しそうに眺めていた、とも。
Nさんがいなくなってからは、御島京子の遊びはクラスのいじめられっ子を対象に続けられた。勿論蛭田も一緒だったが、内心では「もう付き合っていられない」と思っていた。御島京子の行動は明らかに一線を越えていた。蛭田はとにかく彼女との付き合いを絶ちたいと思っていたが、家も近く学校のクラスも同じという状況ではそれは難しかった。Nさんの辿った結末を思うと御島京子に逆らうような態度も取れなかった。
そのときの蛭田の御島京子への感情は、友人や同級生に対するものではなく、ただ純粋に恐怖だった。怖くて、嫌いだけれど決して逆らえない相手だと認識していた。
蛭田にとって辛い時期は、しかし、唐突に終わった。
中学1年の夏に御島京子は転校して行ったのだ。
転校のことは誰にも伝えられておらず、2学期が始まったらクラスに御島京子はいなくなっていた。忽然と姿を消した、という感じだった。担任教師すら転校先を知らなかったようで、彼女の転校に関する説明は一切なかった。不思議なことに御島の家はそのまま残っており、過去に2、3度見かけたことのある御島の母はその後もそこに住み続けていた。
御島京子がいなくなったことに蛭田は心底ほっとした。もう2度とあいつに関わらないですむと考えると心が晴れ晴れした。
そのまま大人になるに連れ、蛭田は御島京子のことを忘れていった。思い出したくない記憶であった。
地元で進学校と呼ばれる高校から国立大学に進学し、証券会社に就職。29歳のときに、友人の紹介で知り合った山村いずみ(旧姓)と結婚した。そして今から5年前、結婚2年目に妻・いずみがある人物を2人の住む家に連れてきた。
いずみの中学時代の友人であると紹介された、その背の高い女が、なんと御島京子であった。
「なるほど。その御島京子という女と蛭田さんは不思議な縁があるようですね」
「はい。中学1年で御島京子が転校して行った、その先の中学校に、後に蛭田氏の妻となるいずみさんがいたというわけです」
「で、その御島京子がどうかしたんですか?」
「彼女がどうやら事件の主犯のようで。少なくとも蛭田氏といずみさんはそう言っています。殺す相手も、殺す方法も、監禁してから何日生かしていつ殺すかも、全て御島京子の指示に従ったと。やりたくなかったが自分が殺されるのは嫌だから逆らえなかったと。そう主張しています」
「なら捕まえなきゃいけませんね」
「そうです。そしてそれは我々弁護士ではなく、警察の仕事だ。だが警察はそれをしないのです」
「何故ですか」
「いないからです。御島京子なんて女は」
どういうことだろう。
話を聞いているうちいつの間にか、あれほど酷かった頭痛が消えていた。代わりに耳鳴りが大きくなっている。耳の中を穿り返されているような不快な感覚だ。
「いないってどういうことですか?」
口を挟んだのは大村弁護士の隣に座る秋島精太郎だった。
「警察の捜査では、御島京子という人間は存在しないそうです。確かに蛭田氏の実家の近所には御島という家がありますが、その家には京子という人間はいませんでした。蛭田氏の通っていた市立西第二小学校にもそのような児童が在籍した記録はありませんでした」
「じゃあ蛭田の狂言ってことですね。架空の主犯をつくりだして刑を減じようとして」
俺が無感情に言うと
「しかしね。記録には残ってないですが、記憶には残ってるんです。当時の蛭田氏の同級生は確かに御島京子のことを覚えているんです」
なんとも不思議な話でしょう、とすっかり冷めたコーヒーを啜りながら大村弁護士は言った。その顔には何の表情も浮かんでいない。どこか惚けた様な無表情だ。
「我々もどうすべきか困ってましてね。蛭田氏は主犯であれば間違いなく死刑だ。5人殺して6人目も逃げなければ殺されてたでしょうから。しかし御島京子こそが主犯で、蛭田氏は御島京子の強い精神的支配下にあり犯行を強要されていたとなれば、まあ無期懲役の可能性が高い。だが肝心の御島京子がこんなわけの分からない状況ではね」
だから貴方に調査を依頼したいのです、こういう類の調査はお得意でしょ、と。大村弁護士は俺の顔を真正面からまじまじと見つめ、にっこり笑った。嘘くさい笑い顔だった。
翌日。
耳鳴りに耐えながら俺は仕事を始めた。
雨が強く降っている。湿った空気が体にまとわりついて気分が悪い。
まずは名簿屋から平成八年の市立西第二小学校の卒業生名簿を買い、蛭田の同級生のうち現在も連絡先がわかる人間に片っ端から電話をかけた。本当は卒業アルバムも手に入れたかったが、その年の卒業生でアルバムを売った人間はいないようだった。
当時のクラスの人間は、少なくとも俺が話を聞けた限りでは、全員が御島京子のことを覚えていた。背が高く、髪が長く、目鼻立ちの整ったかなりの美人だったらしい。
電話をした男性の大半が、当時態度にこそ出さなかったが実は心中密かに御島京子に憧れていたと懐かしそうに語った。一方、女性の大半が、御島京子は確かに見た目は美しかったが何処か周囲に溶け込もうとせずそれどころか見下しているような雰囲気があり、男女問わずクラス全員から嫌われていたと言っていた。そして、そのうち半数くらいが、実はクラスの中でも自分だけはこっそり御島京子と仲良くしていた、とも付け加えた。
どうも辻褄が合わないように感じられた。
彼らの言っていることが全て正しいなら、当時の彼らのクラスは一体どういう状況だったのだろうか。
そして誰の証言でも共通するのが、普段の御島京子は常にひとりぼっちで、誰とも仲良くする素振りはなかったということだ。前述の自分だけは御島京子と仲良くしていたと証言した女性たちも、それぞれ「自分以外には御島京子に友人はいませんでした」と言っている。
大人びた少女であったことは確かなようで、クラスの誰も読まないような難しい思想書や詩集を机に向かって読んでいたそうだ。そして、蛭田と御島京子が友達だった、と言う人間はひとりもいなかった。Nさんについては、クラスにそんな人間がいたこと自体を誰も覚えていなかった。
ひとり、変わった思い出を語ってくれた者がいる。
ある冬の日の出来事だ。
その日彼はクラスで一番に登校し、教室の前方に設置してあった石油ストーブに火を入れ暖を取っていた。本当は担任教師が教室にやってくるのを待ち、担任にストーブを点けて貰うのがルールだったが、担任の高橋真智子先生は児童が勝手にストーブを使っても怒ることは無かった。
真っ赤に暖まるストーブに両手をかざしていると、後ろ側の扉から御島京子が入ってきた。御島京子は教室の真ん中辺りの自分の席に座ると、いつものように本を読み出した。
「御島京子は黙って本を読んで、こっちには視線も向けていなかったんですが、話しかけてきたんですよ。声を使わずに頭の中に直接」
頭の中に自分の思考とは別に、御島京子の声が勝手に響いたのだ、と彼は言う。あんなことは後にも先にもあの時だけだった、と。御島京子の声は、ストーブにかざした彼の両手をもっと前に突き出せと命令してきたそうだ。ストーブの縁を両手でがっしり掴んでみろ、と。
彼はその頭の中の御島京子の声に何の疑問も持たず、言われたとおり両手をそっとストーブの縁に押し当てた。するとそこから自分の体の中にストーブの火がじんわり流れ込むような感触があり、冬の朝の冷たい空気で悴んだ体全体が内側から解きほぐされる様に思ったそうだ。得も言われぬ優しい感覚だったらしい。母親の胎内で感じるような暖かさだと。
二十秒、いや三十秒はそうしていただろうか。
ふと彼は後ろを振り向いた。
いつの間にか御島京子は本を机の上に伏せ、じっと彼のほうを見つめていた。
「そんなことをして熱くないの?」
そう言った。頭の中の声ではなく、口に出してはっきりと御島京子はそう言った。その瞬間、先ほどまであった体の内側の暖かさは消えうせ、逆に背筋を寒気が走り、同時にストーブを直に掴んでいた両手に激痛が現われた。
当然だ。
充分に暖まったストーブの熱部分を手袋もせず三十秒も掴んでいれば、手のひらはぐずぐずに焼け爛れていた。火傷の痛みを自覚した瞬間、彼は転げ周りのたうちまわり泣き叫んだ。その様子を御島京子は助けてくれるわけでもなく、誰か大人を呼んできてくれるでもなく、ただケラケラ笑いながら眺めていたそうだ。
その後すぐに近くを通りかかった先生に連れられ保健室で応急処置をし、救急車で病院に運ばれたという。
「御島京子って女は化物ですよ。どっから来たのかわからないが、あれは人を苦しめて楽しむ悪魔みたいなやつだ。比喩的な意味じゃなく、あいつは絶対人間じゃない。僕なんかはあいつの被害者の中じゃまだマシなほうなんじゃないですか」
と彼は言っていた。
さて。小学5、6年生の蛭田と御島京子の担任を勤めたのが高橋真智子先生だ。彼女は蛭田達が卒業した翌年、市内の別の学校に転勤となり、それからいくつかの小学校を転々として昨年度にまた市立西第二小学校に教頭として戻っていた。
電話でお願いすると、時間をつくって対面で話をしてくれる、とのことだった。
意外な展開だった。
一般に学校という組織に所属する人間は、口が重い。もともと学校というのは独立的というか閉鎖的な環境であるうえ子供のプライバシーを握っているという意識もあり、こういう調べごとをするうえでは、とにかく話を聞いてくれないし聞かせてくれない。特に公立校はそうだ。
しかし今回は蛭田翔平と御島京子の名前を出した途端、向こうのほうから「会って話がしたい」と切り出してきた。異例中の異例だ。
火曜日の昼、俺は市立西第二小学校を訪れた。
雨は止んだが空は曇り模様。蒸し暑さも変わらず。
そして俺の頭の中に響く耳鳴りも変わらず。いや。昨日よりさらに酷くなっていた。
誰かに「おい」と話しかけられた気がして「なんだ」と振り向くと誰もおらず、ただの耳鳴りだった。たまらない。
高橋先生に案内され応接室に通された俺は、その机の上に広げてあった卒業アルバムを見せられた。
「あの事件があって、警察の方やマスコミの方が私のところにも結構いらしたんです。でも昔のこととはいえ、生徒のことをあんまりベラベラ喋れないでしょ。それでそういう方々には全部何もお話せずお引取りいただいたんです。だけど、そんなことがあると色々昔の話を思い出すでしょ。で、そういえば蛭田くんは御島京子さんととても仲良しだったなって、それで御島京子さんはとても地味で目立たない子だったんですけど、どんな顔だったかなって卒業アルバムを引っ張り出したんです。そうしたら」
不安げな顔で高橋先生は言った。
「載っていないんですよ。あの子、どこにも載っていないんですよ」
確かに「6年4組のなかまたち」とヘッダが打たれ、子供たちのバストアップの写真が並んだそのページに、御島京子という名前はなかった。
ページを捲るとクラス全体の集合写真に変わる。
「この囲いの写真の女の子。この子は違うんですか」
集合写真の右上に四角く囲われ一人だけ後から写真を追加された女の子がいた。
「いいえ。その子はNさんです。みんなと一緒に卒業できるはずだったんですけど、春休みに自宅で間違って農薬を飲んで、亡くなったんです」
なるほど。これがNさんか。
しかし農薬を飲んだという点は同じだが、色々と蛭田が語っていた話とは辻褄が合わない。そもそも蛭田の話ではNさんは男の子だったはずだ。それに電話で話を聞いたクラスの誰もNさんのことを覚えていなかったことも妙だ。例えそれほど親しくない人間だったとしても、小学校の同級生が在学中に農薬を誤飲して死んだなんて話をそんなに簡単に忘れるものだろうか。
「ねえ箕輪さんでしたっけ。あなた蛭田くんの事件のことを調べてるんですよね。蛭田くんはあんな事件を起こすような子じゃありませんでした。御島京子は蛭田くんの事件に何か関係してるんですか。御島京子って、何なんですか。御島京子って、私が担任していたクラスに本当に存在していたんでしょうか」
息つく間もなく、縋り付くように語り掛けてくる高橋先生に、俺は何も答えられなかった。
小学校からの帰り道、俺は御島京子の家に寄った。
蛭田の実家の近く、広大な田んぼに面した古い平屋建ての家だった。
インターホンを押すと「はい」と不機嫌そうな暗い女の声が返ってきた。
「あの、すみません。そちらの京子さんの同級生だった者で、箕輪と申しますけど」
嘘をついた。
「うちに京子なんて子はいませんけど」
「いやでも。20年前に西第二小で同じクラスだった」
「だから、京子なんてうちにはいないです。あの子はね、ある日ふっとこの家に勝手にあがりこんで、「ただいま」なんて言うもんだから私もそう言えばこの子はうちの子だったなんて思ったりもしましたけど、またある日ふっといなくなって、それでやっぱりうちの子でもなんでもないって思い出したんです。わかりますか。あいつはうちの子じゃないし、私とは何の関係も無いんです。ただ何年かの間勝手にここに居着いていただけ。私はあの子の親じゃありません。あなたがあいつに何をされたか知りませんけど、私には関係も無いことですし責任も取れません。わかったら帰って。二度とここには来ないでください」
そのまま何度インターホンを鳴らしても返事はなかった。
「帰ります。失礼しました」
必要ないかとも思ったが一応最後に一声だけ掛けて、俺はその場を去ろうとした。
と、どうしたのだろうか、一瞬インターホンの向こうで息を飲む気配があった。そして
「ちょっと待って」
声と共に、家の中からドタドタと音が聞こえ、玄関ドアが開かれた。中からは少し背の曲がった白髪の老婆が顔を覗かせていた。人生に疲れきったような頬のこけた老婆だった。恐らく御島京子の母親だった女のはずだが、年齢が想像できない。ただとても年老いているということしかわからない外見だった。
その老婆が靴もはかず一気に玄関を飛び出し、俺に掴みかかってきた。
「ねえどこ行ったの!?」
俺の胸倉をぐらんぐらんと揺さぶり老婆は叫んだ。
「なんですか一体」
「今いたじゃない。カメラに映ってたわよ。御島京子があんたと一緒にいたじゃない。あんたの後ろにいたじゃない。どこに隠したの!」
ゾッとして後ろを振り向いた。誰もいない。
確かにインターホンにはカメラが付いている。そのカメラで家人は家の外の様子を確認できるようになっている。そこに映っていたと言う。俺が捜している御島京子その人が、俺のすぐ後ろで、俺を嘲笑うように立っていたのだと言う。
だがそんな筈はない。後ろは狭い道だ。田んぼまでの幅は3メートルそこそこしかない。そんなすぐ後ろに人がいれば絶対に気配に気付いたはずだ。
あるいは、この間からずっと続いているこの酷い耳鳴りで、気配を感じ取ることができなかったのだろうか。それにしたって辺りは曲がり道ひとつない真っ直ぐのあぜ道だ。さっきまでそこにいたのなら、まだ姿が見えるはずなのに。
「ねえ。あの子どこに隠したのよ」
老婆は半ば金切り声のような叫びをあげつづけた。
それから数日間調査を続けたが状況は変わらなかった。
結局何を調べても、誰に聞いても、同じ。
みんな御島京子を覚えているが、その記録はどこにも残っていない。これでは振り出しから一歩も進んでいないも同然だ。
耳鳴りは治まらない。そろそろ病院に行くべきかもしれない。耳鳴りに混じって誰かに話しかけられているような気がする。頭の中に声が響いているような感覚だ。まったく性質の悪い耳鳴りだ。
大村弁護士から連絡があった。
調査を一旦ストップしてほしいそうだ。
獄中で蛭田が自殺したらしい。
「ずっと、『御島京子に見張られてる』と言い続けてたんですが最近は『殺される。頭の中に御島京子の声がする。あいつが頭の中にいる』と四六時中主張してました。それで昨日の夜、着ていたものを破いて無理やり自分の喉に詰め込んで。窒息死だそうですよ」
私も死体を確認しましたが窒息死すると顔があんなに真っ青になるものなんですね、といかにも詰まらなそうに大村弁護士は続けた。
「申し訳ありませんが調査のほうは今のところ大した進展もありませんで」
「ええ。構いませんよ。ここまでの料金はお支払いします。まだ調査を続けるかは、今の時点では一旦保留にさせてください。あと御島京子から私のところに一度電話がありました。本当に本人かどうかわかりませんが、とにかく御島京子を名乗る女性が電話をかけてきて『5人も殺した悪い人間はちゃんと死ななきゃいけませんよね』とだけ言って切られました」
「気味が悪いですね。わざわざ大村さんに電話を掛けてくるなんて、自分のことを探してることはお見通しだ、と言わんばかりですし。蛭田さんの自殺を予言しているようにも聞こえる」
「自殺なのか、本当に頭の中にいる御島京子に殺されたのかわかりませんが、不気味なことは確かです。秋島さんの件はご存知ですか?」
「ああ。事故のことですか」
「ええ。道を歩いていて、赤信号を無視して飛び出して車にはねられ意識不明。轢いた車はそのまま逃げてまだ捕まっていないそうです。秋島さんもね、声が頭の中に聞こえるって、言ってました。実は私も最近空耳が聞こえるんですよ。女の声で『おい』とか『ねえ』とか話しかけれてるような気がして。で、その声がこの間の電話の声になんだか似てるような気がするんですよね」
「大丈夫ですか。疲れてるんですよ。少し休まれたほうが」
「いや。私は仕事が趣味みたいな人間ですから。働いてるほうが体も心も休まるんですよ」
冗談なのか本気なのか、そんなことを言って大村氏は帰っていった。
事務所の窓から眺めると、道を歩く大村氏が見えた。その後ろにぴったりと寄り添って背の高い、髪の長い、赤いブラウスにグレーの長いスカートをはいた女が歩いている。本当にかなり近くをぴったりと歩いている。アレは大村氏の知り合いだろうか。恋人だったりするのだろうか。あるいは御島京子か。
「おい」
と女の声で話しかけられたので振り向いたが、事務所の中には俺の他に誰もいなかった。
御島京子はいなかった。
だけど御島京子をみんな覚えている。
どこにもいないけど、みんなの頭の中にいる。
一体どんな奴なんだろう。御島京子。
窓の外では大村弁護士が、信号待ちでスマホをいじりながら立っていた若い男性を道路に突き飛ばし、その男性は運悪く猛スピードで走りぬける黄色いスポーツタイプの車に撥ねられ空中に打ち上げられていた。大村弁護士は何故自分がそんなことをしたのか分からない、という風に呆然と自分の両手を見つめ、その後ろに立つ女は愉快そうにケラケラ笑っていた。
冬の日御島京子によってストーブを触らされ大火傷を負ったあの男の言葉を俺は思い出していた。
「御島京子って女は化物ですよ。どっから来たのかわからないが、あれは人を苦しめて楽しむ悪魔みたいなやつだ。比喩的な意味じゃなく、あいつは絶対人間じゃない。僕なんかはあいつの被害者の中じゃまだマシなほうなんじゃないですか」
さて。自分の身にこれから起こるかもしれないことを考えると背中の毛が逆立つような思いだ。俺はこれからどうなるのだろうか。できれば手のひらに火傷を負うくらいのことで済ませて貰いたいものなのだが。
空調のよく効いた事務所の中で俺はガタガタと奥歯がぶつかり合う程に震えながら、ゆっくりとソファに腰をおろした。