姫様は然り気無く気を遣っている。
アズレトがまだ私の侍従になったばかりの頃のこと。
初めてその冷たい面差しを見た時の印象に違わず寡黙だった侍従は、急に質問を投げ掛けると答えないことがあった。
最初は答えづらいことを聞いてしまったのかと思っていた。けれど、何気無い問いにも無言を貫かれて、さすがに不思議に感じて視線をやれば、侍従が一度口を開いて何度か喘いでから閉ざすのを見てしまった。
反射的に喉を押さえた侍従に何か声を掛けるべきかと悩んで、私は何も言わず、それを見なかったことにした。
触れていいものか、私には判断出来なかった。
世の中には色んな病気が蔓延っている。私の魔力の強さも、身体を蝕んでいる時点で病気だと思う。
多大なる心の傷を受けて、声が出なくなる病気があることを知識だけとは言え私は知っていた。
かと言って病気扱いは失礼だし、侍従がそれに該当するほど殊勝な男には見えない。そうなると私の選択肢は『放置する』のみになる。
時々返事が出来なくなると困ったように眉を下げて、申し訳無さそうにするのがどうにも居心地が悪くて、一度「私は喋る方が好きなの。黙って聞いていなさいな」と切り捨ててやった時、侍従が大きく目を見開いて驚いた後に至極可愛い顔で笑ったのを覚えている。あれは信じられないくらいに可愛かった。
たまに声を出せない程度大したことはなかった。私には、どうでもいい話を聞かせる相手すらいなかったのだから。
そうして、いつの間にか侍従が喋りだすよりも先に何が言いたいのか理解出来るようになってしまった。
ドラゴンと触れ合ってから史上最高に体調が良い。部屋を飛び出して廊下を走り出したくなるほどに。
間もなく私の奇行に気付いた侍従に止められた。侍従は優しげに口許に弧を描きながらも、生暖かい目で私を見ていた。口で何か言われるより堪える。
あまりにも快調なものだから、まさかあのドラゴンも天使のように現れなくなるのでは、と危惧していたのにも関わらず、平然と私の前に現れた。
見た限り、問い質した限りでは体調に異変は無さそうなドラゴンに安心して、思わず小さな丸い身体を抱き締めると「きゅうううっ!?」と、ほとんど断末魔のような声を上げるから今度こそ殺してしまったのかと思った。実際は驚いただけのようで、ドラゴンはまたもや無事だった。
ちんまりとした姿でも物語通りだなんて、さすがは最強の生物だ。
穏やかな日々を過ごし、いつまで経っても現れない結婚相手のことを忘れそうになっていた日の午後、侍従に異変があった。
日頃から無口だからと、誤魔化せるうちは誤魔化すつもりでいたんだと思う。今日の侍従はきっと、声が出ない。
共に過ごす日々を重ねるに連れ、侍従が話せない日が減っていくのが嬉しかった。何かしらの事情があるにせよ、その症状が出る回数が減るのは良いことだから。
それが私の側にいるからだとしたら尚嬉しい。
この国の特産品だというお茶を淹れてもらいながら、今日はどんな話を一方的に話し続けてやろうかと画策する。「ありがとう」とカップを手に取れば、侍従はゆるゆると首を振ってから微笑んだ。
私はその瞬間、薄く開きかけて強張り、引き結ばれた唇を見逃さなかった。
「この国に来てから随分経つのに、未だに陛下は現れないわね。本当に実在するのかしら」
まずは前置きを。侍従がこんな状態の時、私が浴びせてやることにしているのは、侍従が返答に困る話だ。
この無口な男とて、物申したいことがあればその口を何度でも開く。碌な返しをされないのだから、男の性質を逆手に取って黙って聞かせておけばいい。
決してざまあみろとは思っていない。いくら常日頃下剋上を目論むこの男相手とは言え、そんな大人気ないことは思わ……ざまあみろ。私は自分の気持ちに正直だった。心の中で高笑いしてやる。
「ここに来る時は腹が立っていたもの、面白いことしか考えていなかったわ。たとえば……適当に陛下を怒らせて、殺されてみる、とか」
出鼻を挫かれた瞬間に消え去った、もう二度と決行されないだろう計画。
小さく笑ってからお茶に口を付けると、目の前で侍従が手を滑らせた。それなりに大きな音を立てて陶器と机がぶつかる。
侍従がこんな失態を演じるところは初めて見た。目を見開いて固まっていると、侍従は手早くそれらを片付けてから私を静かに見下ろしてきた。
怒気と焦燥感を孕んだ紫色の瞳が、言葉など無くとも私を責め立てる。
「そんなに怒らないでちょうだい。私はただ、父に悪戯をしてみたかったのよ。それに、この私を殺せるかもしれない相手に会えるのが楽しみだったの」
復讐と呼ぶには幼稚な、ただ父を困らせてみたかった娘のお茶目な計画が、祖国を破滅に追いやる為の筋書きをなぞるなど御笑い種にもならない。
この男でも突拍子のないことを話せば動揺したりするのか。
怒った顔をやめたかと思えば、次は眉を下げて悲しそうにする。一度私に向かって伸ばしそうになった手を、寸でで握り締めて引っ込める。
笑った顔の愛らしさ以外に年相応な部分が見つからないから、その点ではつまらないと思っていたけれど、ちゃんと人らしいところがあるならそれだけで満足だ。
「アズレトは私が死ぬのが嫌なのかしら?」
我ながら意地の悪い。答えられないのが分かっていながら、わざと疑問符を付ける。
侍従の悲しそうな顔が、次はもどかしく苛立たしげなものに移り変わる。少し虐めすぎたかもしれない。
「嫌に、決まって、います」
吐息混じりの声が、途切れ途切れに降ってくる。確かな怒りを湛えて絞り出された声を聞けば、早くも虐めてごめんなさいねと宥めてしまいそうになる。
私は大人気ないのと同時に、年下である侍従に甘い部分がある。やっぱり謝ろうと侍従を見上げると、侍従はもう怒るのをやめて優しく微笑んでいた。
それはもう、怖いくらい綺麗に。美しく咲き誇る大輪の花のように。
「姫様がいなくなった後、俺は、誰を追い抜く為に生きればいいのでしょうか」
…………。本当に可愛くない。
少しでも可哀想なことをしたかもしれないと思い悩んだ時間を返してほしい。
一度声を出せるようになれば、次の瞬間にはすらすらと至極当然に話し出すところも気に入らない。
結局のところこの男はいつでも罠を張っている。勝ったものだと私が油断したところで、それが最大の出力を発揮出来るように見計らっている。なんという侍従だ。
触れることが出来るなら、襟首掴んで脳震盪の一つや二つこの場で起こしてやるものを。
沸騰しそうになった頭を落ち着かせるべく、私は一度手元のお茶を口に含んだ。
侍従がこんな風に話せなくなるのが久しぶりだったからと、ほんのちょっとだけ心配してみた私が馬鹿だった。