姫様は温もりを欲しがっている。
あの一件から、侍従は以前よりも私の側にいることが多くなった。表情も幾分か柔らかいものに変わった気もする。
勢いであんなことを廊下のど真ん中で叫んでしまったけれど、まだ見ぬ陛下に誰か告げ口してはいないだろうか。
全くと言って良いほど自覚はないけれど、仮にも嫁いできた立場でありながらあの発言は良くなかったに違いない。
所々誤解を招く言葉選びだったのは否定できない。私が考えなしに口を開いたせいで、侍従が責任を問われるようなことがあれば目も当てられない。
それでも穏やかな数日は続いていた。こんなに何もしていなくていいものかと思うくらい、ゆっくりとした空気が流れているせいで自分の体質を忘れてしまう時間があった。
私はどうにもならないほど体調が悪い時がある。
それは年齢を重ねる度に顕著になっている。毎年のように膨れ上がっている魔力が全ての原因だ。
こういう時は侍従を極力近付けないことにしている。普段でも近付きすぎるのは危険なのに、こんなに状態が悪い時の万が一など御免だからだ。
そんな時、普段はどこまでも聞き分けの良い侍従も私の側から離れるのを渋る。
今回に至っては私が離れるなと言ってしまったせいか、再三に渡って「本当にそれでいいのですか?」と問いかけられた。
そんなもの、良いわけない。落ち着くまで一人ぼっちだなんて寂しすぎる。でも、一時の感情で側にいてほしいと手を伸ばして、侍従を殺してしまったら……だから今は我慢するしかない。
夜、寝台から降りて這うように扉に近づいて、誰の気配もないのを確認してから扉を開ける。
部屋の前に用意してもらった食事を手に中へと戻り、何とかソファーに腰かけて手を付けようとするけれど、思っていた通り飲み下すのも困難だった。
食べるのはやめよう。作ってくれた人に申し訳ない。二つの気持ちがせめぎ合っていたところに、何かが窓を叩く音が聞こえてきた。
無理矢理立ち上がって、窓に近づいても音の正体は分からなかった。何かの拍子に風にでも煽られた物がぶつかっただけだろうか。
暫く窓の外を見ていると、緑の蔓が伸びてきて幾つもの花を咲かせていった。
蔓から咲く様々な花達はどれもこれも聖の森に咲いているものと同じもので、この魔法があのドラゴンのものだと分かった私は急いで窓を開けた。
硝子を隔てずに花と対面したことで気分が良くなってきたところで、パタパタと羽音が聞こえてきた。音のする方を見ると、思った通りドラゴンがその小さな手から蔓を伸ばしていた。
私に気が付いたらしいドラゴンがにこりと笑ってこちらに向かって飛んできて、窓枠にちょこんと座る。「きゅ!」と短い手を上げて鳴く姿は挨拶をしているみたいで、思わず笑みが零れる。
「こんばんは、それからありがとう」
間違ってもドラゴンに触れてしまわないように距離を取ってから、昨日から絶望的に具合が悪かったことを説明した。
丸い瞳を瞬かせながら静かに話を聞いていてくれたドラゴンは、その手からたくさんの花を咲かせて私に手渡してくれる。束になっている花を受け取って、鼻孔を香りで満たすと体調が持ち直していくような気がした。
私からドラゴンには何もお返しが出来ないし、何かをしてあげられるわけでもないのにこうしてたまに現れる。それが過去の記憶に繋がった。
「あなたは、天使、なのかしら?」
そんなわけがないと思いながらも口走っていた。そう問われたドラゴンは頭の上に大きな疑問符を浮かべている。
無理もない、天使と呼んでいるのは私だけだし、あの男の子もそんなことは知らない。
私ときたら、何年も経っているのにまだどこかであの男の子の姿を探しているらしい。ドラゴンが人の姿になるどころか、存在すら最近まで物語の中だけのものだと思っていたのに、もしかして、と思ってしまった。
……もう、あの子には会えないのに、未練がましいものだ。
心配させてしまったのかドラゴンが顔を覗き込んでくる。
こんなに私のことを心配してくれるのは侍従とあの男の子と、それからこのドラゴンだけ。
幾ら聖の森に咲くものと同じ花が近くにあったとしても、今の状態の私が相手では効果は持続しないらしい。これ以上側にいると良くない。今日のところはもう帰ってもらおうと御礼を口にしたのに、ドラゴンは帰ろうとするどころか私に近付いてくる。
それだけ心配してくれるのは嬉しい。だけど、私はもう誰も傷付けたくない。ドラゴンから逃れようとふらふらと逃げれば、ドラゴンは一度躊躇う素振りを見せてからぴょんと跳びはねて部屋に入ってきた。
「それ以上近付かないで!」
思いの外大きな声で拒絶してしまったのに、何を言いたいのか分からないけれど、何度も「きゅ、きゅ!」と何かを説明したそうに高い声で鳴きながらドラゴンは私を追ってくる。
これ以上近付かれるとどんな目に遭わせてしまうか分からない。私は両手に魔力を込めて、初めて魔物以外の者にそれを放った。
軽く発したつもりが、調整すらまともにできない状態なのか、突風は渦を巻いてドラゴンに襲い掛かる。
寸でのところで避けてくれたけれど、部屋の中の物を巻き込んでしまったせいで、一輪挿しが窓際の棚から落ちた。
枯れかけの花でもまだ捨てないでほしいと、侍女に言ったことを思い出す。初めて貰った贈り物だ。ドラゴンから貰った花が一輪挿しから抜けて床に落ちる。
それを追うように落ちてくる本が、枯れかけの花を次々に押し潰していくのを見てへたり込んだ。
「っ、ごめんなさい。あなたがくれたものだったのに……」
床を這って積み重なった本を退けていくと、無残に花びらを散らせた花が現れた。
茎も折れて萎れてしまっていて、これではもう水をやっても元気になりそうにない。
悲しみに打ちひしがれていたところに、ちょこちょことドラゴンが歩いてきた。何やら淡い光を纏っていると思えば、枯れかけの花に短い腕で触れる。その次の瞬間には、手元の花は摘みたてのような瑞々しさを取り戻していた。
それをもう一度手に取ったドラゴンは更に輝く光を花に込めてから、「きゅう!」と笑顔で手渡してきた。
まさか、こんな風に魔法が使えると思わなかった。魔力は、私から何もかも奪っていくものだと思っていた。
花を受け取ろうとした私の手にドラゴンが触れる。
反射的に手を引っ込めたけれど、ドラゴンは何ともなさそうに身体全体を使って首を傾げてみせる。
「私に触れても、何とも、ないの……?」
そんなわけがないと思いつつ問いかければドラゴンは頷いた。私に花を渡して、そして、もう一度私の手に触れる。
つるりと滑らかで固い表皮から温かな体温を感じた。誰かに触れるなんて、一体どれくらいぶりだろう。そっと小さな手を握り返すとドラゴンは嬉しそうに鳴いた。
ドラゴンは最強の生物だと物語には書かれていた。
私の異常な魔力をも凌ぐ最強のドラゴンなら、私みたいな化け物に触れても大丈夫なのだろうか。
気のせいか、魔力に浸されている故の気分の悪さからも解放されていくようで、どうしようもなく心が満たされていく。
私はドラゴンの手を摘まんだまま、顔を見られないように俯いた。