姫様は勝手に決められて怒っている。
「っ、離して……!」
細身な夫とは違う、力強い騎士の腕に抱かれて、妙に頭の中がはっきりしてくる。とんでもない状態になっていると。
余力で叫ぶ私に兄は顔を顰めた。私の反応を厭うものではなくて、気の毒で可哀想なものを見るその表情。私の、一番嫌いなもの。
まともに動かない身体で、その腕から逃れようとして、更に抱き込まれて困惑する。見かけよりずっと逞しくて苦しい。
「お兄様、私の妻をお渡しください」
このままでは殺してしまう。そう思った時に、救世主の声が頭上から響いた。
力強く奪い取られた身体は、よく馴染んだ夫の腕の中に移る。深い安心感に身を任せた途端、兄が憤慨した様子で口を開いた。
「お前にお兄様と呼ばれる筋合いはない!」
この兄は一体何を言い出すのか。
貴方が望まなくても続き柄ではそうなるのだけれど。と言い返したいところ、魔力を吸い取られる心地好さに微睡んでしまい、その先、夫と兄がどんな会話を交わしたのかは、私の耳には届かなかった。
「フェリウは、まだ器は人の身のままなんだな」
意識が浮上した瞬間、聞こえてきたのはよくわからない台詞。
辛うじて兄の声だとは判断出来たけれど、まだ頭がぼーっとしていて、言葉一つ一つの意味は理解出来なかった。
まだ身体の何処にも力が入らない。兄は、誰に話し掛けているのか。
「……そうですね。俺が日々吸い取って薄めてはいますが、まだ『毒』の範囲です」
よくご無事でしたね。と、夫の声が皮肉を言う。間違いない。絶対、兄を心配している声じゃなかった。
この男が意地悪なことを言う癖は、私だけに留まらないようだ。どうやら私と同じらしい、面倒な性格の兄が怒らなければいいけれど。
「これしきで死んでいるようでは、今後国を守っていけるはずがない。何の為に強くなったと思っている」
打ち返した上でふんぞり返った。
やはり、血は争えないらしい。幼少期の対応から悪癖に進化したものだと思っていたのに、元の性格の可能性が出てきてちょっと凹む。
それとは別に、私の身体に触れても、兄が問題なく生きている事実に胸を撫で下ろした。実兄を再会した直後に殺していたら、私の寝覚めが悪いから。
「妹を、人でない存在にする予定があるのなら、今からでも返してくれ」
兄の声が、一段低いものになる。
人でない存在? 一体、兄は何の話をしているの?
夫は夫で言葉に詰まっているのか、なかなか返事をしないし、私には何が何だか分からない。
やがて、小さな声が「……嫌です」と発したのを私は聞き逃さなかった。それに対し、兄の更に冷たい声で「何?」と返す。室内の空気が急速に冷えきっていく。
「嫌です、と言いました。フェリウは返しません」
何だかちんぷんかんぷんだけど、力強い夫の声に、恋する妻はときめいてしまう。年下だとしても、カッコいいところは絶対にあると信じていたのだから。
そう、そのままいつものように言い負かして、兄を追い返せばいい。心の中での応援が止まらない。
「それに……この先も、俺はフェリウに手を出すつもりはありません。フェリウを、竜人にする気はない」
思考が停止した。
夫は何を言っているのか。
私を竜人にする? どういうこと? 何故それが夫婦の営みに繋がるの? 脳内で疑問符が飛び交う。
というか、夫は妻の胸を枕にしても何も起こらなかった人だ。私はてっきり、まだ幼すぎてそこまでの知識がないのだと、そう思っていたのに違ったらしい。
なら、夫はわざと、私と結ばれないように自制していたのだろうか。頭の中が黒い靄に包まれる。
「フェリウの人としての生を奪うつもりはないんです。ただ俺は、初恋の女の子に側にいて笑っていてほしい。それだけです」
夫のその言葉が嬉しくないわけではない。むしろ、言われていることは今すぐに抱き締めたいくらいには、嬉しい。
でも、違う。そうじゃない。兄も兄で、何を満足そうに「そうか。ならいいぞ」とか言っているのか。
ほんの少しでも今の状況がおかしいと思わないのか。
本人をそっちのけで勝手なことばっかり。
夫も兄も、私が起き上がれずとも耳はよく聴こえているとは少しも考えていない。瞼すら持ち上げられなくて、文句をしこたま言ってやることも出来ないこの身体に苛立ちが募る。
人として? 元より私はほとんど人間ですらないのに。……兄だって、私を幽閉するのに賛成だった癖に。私を化物扱いする癖に。
その口で私の存在が危険だと言った癖に。
今更何を言っているのか。
「勝手に、人の未来を決めないでほしいわ」
漸く動いた唇から出た言葉は、明らかに怒っていると言わんばかりの冷たい音に乗った。
二人が驚く気配を感じながら、鉛のように重い瞼を持ち上げる。首を横に倒して、思わず「あほなのかしら?」と呟いた私に非はないと思う。
やたらと近くから声が聞こえると思えば、二人揃って寝台の真横に椅子を置いて対面しているなんて。それで私が起きないとでも思っていたのか。
「アズレト、オニイサマ、私のことは私が決めるものなのよ。人をお人形扱いするのはやめて」
開幕怒りに口を開いてしまったせいか、身体が熱くなって頭がくらくらしてくる。軟弱な身体に鞭を打って起き上がろうとすると、先に動き出したアズレトに制されてしまう。
「まだ安静にしていてください。本調子に戻られたら幾らでも聞きます」
聞くだけ聞いて有耶無耶にするつもりなのか。睨み付ける私を、夫はいつものことだと軽く受け流して、私の額に掌を当てる。
何を? そう問い掛けようとせずとも、夫は私から魔力を吸い上げ始める。頭に血が上っていたはずなのにそれどころではなくなった。
「アズレト、貴方、今日はもう――」
「多めに頂いておきます」
そんなことをしたら、過剰な魔力は夫の身に害を為す。
いつだって夫は、私の体調が芳しくないと無理をしようとする。夫の手を振り払おうとした瞬間、色とりどりの花びらが宙を舞った。
ぽんっと軽い音と共に夫の人型は空気に溶けて、代わりに白銀の丸い物質が目の前に現れる。
「ほら、言わんこっちゃないわね。やり過ぎよ」
お陰でだいぶ身体は軽くなった。上体を起こして頭を撫でてやると、情けなくも「きゅううう……」と鳴いている。至極悔しそうだ。
何処にあるのかはよくわからないけれど、確かに存在しているらしい肩を落とす夫の身体を抱き上げた。
「幼竜……だと……?」
驚愕に呟かれた声を聞いて、私はもう一人部屋にいたことを思い出した。
忘れていた兄を顧みると、腕の中にいる小さな夫を見て瞠目している。
暫くして、何やら一人でぶつぶつと言い出した兄を見て、私は首を傾げた。
この兄、色々と調べて知った上で憤り、乗り込んできたわけではない?
この国が竜人の国で、夫が国王で竜人であることは知っている。それは元より持ち合わせていた知識なのか。でも、夫が幼竜であることは知らなかった?
何だか、すごく嫌な予感がする。
「……フェリウ、どういうことだ」
兄の目が据わっている。
どういうこと、と言われても、一体何の説明を求めているのか。返答に困っていると、夫がつるっと私の腕から抜け出て、短い腕を広げては私と兄の間に立ちはだかった。
私を責めるな、ということだろうか。丸く小さな身体でも男らしく、最強に愛らしい夫の姿に、心打たれる私。鋭い新緑の瞳に剣呑な光を強く宿す兄。
「きゅっ! きゅきゅきゅう!」
「何を言っているのかさっぱりわからんが、こんな幼子に妹は任せられん!」
その後、妹の相手がまだ年端も行かない未熟な王というだけでも納得出来なかったのだと、兄は文句を連ねていった。
年齢詐称も甚だしい幼竜の姿を知って、益々妹を嫁がせるわけにはいかないと、妹が国に帰るのを承諾するまでは居座ってやると宣った。
私が絶対に帰らない、アズレトの側から離れない、と言っても聞く耳を持たない。
夫は私の発言に、嬉しそうに「きゅう」と鳴いたり、頬を押さえていたりしたけれど、今は可愛いとか思っている場合じゃない。
兄は他国の王太子に過ぎないと言っても、近い未来に即位を控えた次期王。
しかも、何の為に強くなったと思っている、などと物騒な台詞も吐いていた。
ここに来て、思いもよらない――というか忘れていた第三者の介入により、夫との穏やかな夫婦生活が脅かされることになるとは思わなかった。
何とか兄を丸め込んで追い返さなければ。




