姫様は突然の来訪におののいている。
あれから数週間。王としての仕事が一段落した夫は、私に正体がバレたにも変わらず、侍従として私の世話を焼きたがる。
私に触れられるのは自分だけだから、とか、慣れていることを日常的にやりたい、だとか言い訳しつつ、最終的には私の傍にいたいからだと、顔を紅くしながら言われた時は私の方が恥ずかしかった。
別に、その……夫婦にはなっているのだから、気にせず傍にいればいいのに。
激務の反動か、この数日ずっと傍にいたのに、今日に限って朝から夫の姿が見えない。
そう言った作戦で気を引こうとしているのであれば大成功だ。半日隣にいないだけで、足りないと思うなんて。
夫の自室を覗いてからは、ひたすらに城内を歩き回っている。
途中、すれ違う者達に行方を聞いても誰も知らないようだ。元々、私に会う為に城を開けがちだった夫のことだからと、誰もが居なくなった主を気にも留めていない。
昼間に出ることはあまりない、ドラゴンとの逢瀬に使っていた庭に出る。
さすがに日が高い内は人型を保てる夫がいるわけないか、と踵を返そうとした時、何処からともなく「きゅうううう!」と高い鳴き声が聞こえてきた。
近いのに遠い、くぐもって聞こえる鳴き声。助けを呼んでいるように切迫していて、見つけられない私の焦燥を煽る。
ドレスの裾を捲って小走りになりながら、声のする方へと近付いていく。
塀に囲まれて行き止まりになっている場所で、小さな丸いお尻が壁から生えているのを見つけた。
穴に綺麗に嵌まっている白いお尻は、短い足を上下に忙しなく動かして、申し訳程度の尻尾をこれでもかと振り回して身を捩っている。
「……アズレト、そんなところで何をしているのかしら」
普段の夫からは、想像も出来ない間抜けな姿には、安心を通り越して呆れてしまった。
一つ溜め息を吐いた私は、その小さなお尻を掴んで、勢いに任せて全力で引っ張る。程無くして、すっぽーん、と気持ちの良い音が辺りに響き渡った。
自室に連れ帰る道程でも項垂れていたけれど、夫は一生の不覚だと言わんばかりに落ち込んでいる。「そんなに落ち込むことはないわ」と慰めの言葉を掛けるものの口許が弛むのを抑えられない。
だって、夫が横着をした挙げ句穴に嵌まって抜けなくなっているなんて、最高に可愛い。
私が馬鹿にしているのに気付いた夫は、不機嫌そうに唇を尖らせているけれど、可愛さに拍車を掛けただけに終わっていた。私の夫は何処まで可愛らしい生き物なのか。
ただの主と侍従だった頃は、その可愛さが仇になる程憎たらしい時が多かった。
今では私の上の立ち位置に夫がいるのは当然で、こうして夫婦として逢っている時は、私が上であることを夫は甘受している。
「俺には個人的に急ぎ確認したい用があったんです」
「抜けなくなっていたら意味がないわね。ほら、また敬語よ」
「姫さ、フェリウに関係があることで……あの、敬語は、まだ勘弁してもらえませんか?」
私に対して更に優しくなった夫に、我が儘を強いてみては困らせて遊ぶ。それが私の最近の日課だ。年下の男の子だからと言って容赦はしない。
敬語をやめてほしい、なんて当たり前の要求なのに、我が儘に数えられてしまうのは夫がまだまだ子どもである証。
まだ式を挙げていないと言えばそうなのだけど、……私達には未だ、夫婦の営みもない。たまに齧りつかれる程度の、世間の恋人達も驚きの清さだ。
そんな私も本での知識のみで、未だに唇を重ねるだけで、年上の威厳が保てないでいる……。
「私に関係があること?」
初心者向けのお付き合いをしてきた数日に思いを馳せていて、ふと夫の台詞に自分の名前が入っていたことを思い出す。
「お兄様が来られるそうです」
「……あら、誰の?」
「フェリウのお兄様です」
はて、私の血縁にそのような者は存在していただろうか。
暫く惚けた態度を取っていると、一つ溜め息を吐いた夫は詳細を語り始めた。
私の兄から、夫宛てに書簡が届いたのはつい昨日のこと。
内容は私との面会を申し込むものだったそうだけど、何やら怒っているらしい。何を怒ることがあるのかと思えば、私が嫁いだことを聞いていないからだと。
言われてみれば兄はこの数年、何処に行っているのか城を開けていた。当然夫と顔を合わせたこともなければ、私も顔を覚えていないくらいだ。
もはやほとんど他人の兄が、私のことで怒るのは不可解だけれど、来るならば相手をしないわけには行かない。
しかし、その話と壁から生えたお尻だけになる理由が繋がらない。
「この国の周辺は安全とは言い難い、無事に国境を通過出来るか……」
「つまり、兄の身を案じて飛び出して行こうとしたのね?」
真剣な面持ちで頷く夫は、「大事な妻のお兄様でしょう?」と恥ずかしげもなく囁いては私の頬に手を伸ばす。
こういう瞬間に、自分はまだ夫婦という関係性に慣れていないのだと自覚させられる。可愛い顔をして駄々漏れの色気、顔が熱くなってくるから仕舞ってほしい。
実妹である私ですら、綺麗さっぱり存在を忘れていた相手なのに、夫は律儀な人だ。
一度私の手を握ってから「行ってきます」と声を掛けて、夫は今度こそ何処にもお尻を嵌めないように、人型のまま部屋を飛び出した。
「い、行ってらっしゃい……!」
言うか言わまいか悩んだ末に、夫の背中に叫んでみる。
すると立ち止まった夫が此方を振り返って、恐ろしく愛らしい笑みを見せてから走り去っていった。
それから数刻、兄は無事に城へと到着した。
金糸に紅を掛けたような、鮮やかなストロベリーブロンドに、新緑の瞳。色合いまで私とそっくりそのままの兄は、遠い記憶よりもずっと背が高く、精悍な顔付きの男性に成長していた。
数年、何をしていたのか知らないけれど、事前情報無しにこの男を見たら、王子ではなく騎士だと勘違いしそうだ。
正直、この男と自分が、如何に疑いようもない血縁関係にあるかはどうでもいい。
兄を迎えに行ったはずの、夫の姿が見えないことだけが心配。
「この兄を出迎えるとは、あの我が儘な妹は随分と殊勝に育ったようだな」
「兄上を待っていたのではありませんわ。アズレトは何処にいらっしゃるの?」
「……お兄様、だろ? 愚妹は数年で兄の呼び方も忘れたらしい」
何だか、すっごく腹が立つ。
高圧的な態度の人間なんて、その場に一人いれば充分迷惑なのだから、私以外は不要も不要だ。
不承不承「オニイサマ」と呼んで、もう一度夫の所在を問えば、「知らん」と短く返された。こめかみに血管が浮かぶのが自分でも分かる。
何が、知らん、なのか。今の答えで兄がアズレトが一体誰なのか、充分に分かっているではないか。
既に対面しているなら、ここまで別行動である理由は、……早くも喧嘩別れしてきた可能性はなきにしもあらず。
仕方がない、兄は一人で対応することにしよう。
城内へと兄を案内しようと、扉を示して踵を返した時に、強烈な眩暈に襲われて立ち止まった。視界が搾られて暗くなっていく。
最近は夫に触れているから減ってはいたけれど、元々丈夫な造りではない私の身体は直ぐに揺らぐ。
久々に遭う兄の対応をしなければと、多少なりと緊張していたせいなのか。なかなか持ち直す気配がない。
恐ろしく遠いところから、心配そうに私の名を呼ぶ声が聞こえた。それが兄のものだと分かるのは、地面に崩れ落ちた瞬間に、兄に抱き止められてからだった。




