姫様は転け方を知っている。
侍従を迎えてから一年が経とうとしていた。
見掛け通りあまり話そうとしない侍従は、必要以上に私にも近付いてこないし、謀ろうともしない。私にとって害にならない男だから気が楽と言えば楽だった。
新しい靴はいつもと同じ高さで作らせていて、足型も取らせた物だから履き心地も良い。
隙間がない証拠に、足を入れた瞬間に空気が抜ける音が心地好い、最高の気分になれる。
淑女たるもの夫でもない男性に足を見せるのは褒められた行為ではないけれど、こんな化け物を娶りたい馬鹿はこの国にはいないだろうから遠慮なく侍従に靴を履かせている。とは言っても、見えているのは精々足首までだ。
どれだけの造形美を誇る靴であろうと、勿体無いことに立ち上がってしまえばドレスの裾に紛れてしまう。せっかくなら「ねえ、可愛い? 似合うかしら?」と見せびらかして褒められたいものだ。
あの日の私のうっかりも良い仕事をした。
他の者なら私に靴を履かせるなんて恐ろしい真似は出来なかっただろうし、この男だから無理矢理にでも「よくお似合いですよ」という言葉を聞き出せる。
この際、やや棒読みでも構わない。
靴音を聞こうと立ち上がって、すぐ側にいる侍従を見上げて違和感に気が付く。
毎日見ているはずなのに、何かが違う。
「……アズレト、貴方、また背が伸びたかしら?」
男性という生き物は、成長期であるとここまで成長が早いものなのか。
私にも血の繋がりの上で兄はいるけれど、ほとんど顔を合わせない兄の成長の軌跡など知る由もない。
疑問符を浮かべたまま見上げている私に、侍従――アズレトはその高貴な深みのある紫水晶の瞳を一つ瞬かせてからふわりと美しく笑んだ。
「姫様が小さくなられたのでは?」
そんなわけあるはずがない。
この男は顔立ちこそ一級の芸術品の如く美麗で、笑顔にはまだ少年の面影が残っていて恐ろしく可愛らしいものの、たまに開くその口は可愛いからかけ離れた言葉を繰り出してくる。
年下の小僧の癖に生意気な。ギリギリと歯軋りしてしまいそうになったところ、二つ年上の余裕をもって深呼吸をして耐え忍ぶ。
何とか突っかかってしまいたくなる衝動を抑えたところで、頭上から小さな笑い声が届いた。
「俺はすぐ大人になってみせますよ。姫様よりも早く」
私を子ども扱いしているということか。やっぱり可愛げがない。睨め付けてやるとまた可愛い顔をして笑い出す。
一発お見舞いしてやれたらどんなに胸がスッとするだろうか。手を振り上げる形だけ取って、避ける真似をする男を見てから手を下した。
多少ムカついたところで触れるはずがない。私はこの男が人を馬鹿にして笑う姿より、こうして私を憐れむような目で見てくるのが一番嫌いだった。
名前で呼ばせるのも微妙で、かと言って王女殿下なんて虫唾が走る呼び方は勘弁してほしかった。
ではどう呼ばせればいいのかと試行錯誤を重ねた結果、『姫様』で落ち着いた。男に姫様と呼ばせるようになった時にはそれなりに良い主従関係が結べていたと思う。
この男はあの時生贄に選んだ私を恨んでいるかもしれないけれど、私にとっては唯一の話し相手だ。十八歳の誕生日に命丸ごと貰えたことを未だに感謝している。
それを口にする日が来るかどうかは別で。
新しい靴も足に馴染んだようだし、小腹を満たしに城の方へ現れてやろうか。ついでに暇も潰せるし、靴の音も聞けて一石二鳥どころか三鳥だ。
侍従は何か言いたげだけど、どうせ『俺が取ってきます』とかその辺だろう。それでは私が運動不足になる。
体力を落として完全なる寝たきりになるのは御免だ。
天使が現れないことを諦められてからはもう森へは行っていないし、動物に近づくと悲しい事故が起こるから馬にも乗れない。
私自身は恐れられるのなんてもう慣れ切ったことだから、今更本気で可哀想だと思われたくない。侍従が口の割に優しいことをこの一年で知ったからこそ、それが痛く感じる。
颯爽と廊下を闊歩していたところで、斜め後ろに控えていた侍従が「姫様!」と切羽詰まった声で呼んでくるけれどもう遅かった。
足の置き所を間違った私はすっ転んでも尚、見事な受け身を取ってみせた。音としては、びたーん、だったから派手ではある。
私に触らないようにきつく言い付けてある侍従は、心配そうに手を右往左往させながら見下ろしてくるけれど、靴を愛する女を嘗めないでほしい。
足首も胴体も靴も無事なはず。この場合、悪足掻きをせずに足を投げ出し、地面への衝撃を和らげる為に身体の広範囲が接するようにすっ転べば、問題はないとこれまでの経験で知っている。
「安心なさい、私に掛かれば転け方も完璧よ。靴も身体も守ってみせるわ」
残念ながら恥ずかしさだけは回避しようがないから、羞恥を誤魔化すように髪を掻き上げて耐え忍ぶ。
今日も私のストロベリーブロンドは病弱面に似つかわしくない見事な紅色をしていると、明後日の方向に思考を巡らせて復活だ。
衝撃で潰してしまったドレスを適当に直して、私は何事もなかったかのように城へと出向いた。今日もこの世の終わりのような悲鳴が飛び交って気持ちいい。時々黄色い声が混ざるのは静かに控えている侍従のせい。
魔物が出ないくらい平和なのはとても良いことだけど、仕事がなくなって毎日が退屈で仕方がない。
それもこれも、一度大群で出向いてくれたところを一瞬で殲滅してから音沙汰がないのが悪い。
まさか魔物に限ってあれだけで滅んだなんてことはないと思うのだけど。
夜も更けてきたというのに、私の身体を巡る魔力は一向に落ち着こうとしてくれず、熱を持っているようでとても寝付けそうにない。
こんなことなら駄々を捏ねてでも侍従を部屋に置いておけばよかった。
年下の侍従だろうと私は甘えたい時に甘えたい。今まで、どれだけ苦しくて寂しくても誰も側にいてくれなかったから、時々寝かせないくらいの我が儘は許してもらいたい。
幼い頃に花や小さな木を持ち帰り、聖の森を模して作った美しい庭を窓からぼんやりと眺めていた。
花や木の種類は分からないけれど、やっぱり魔が浄化される気がする。月明かりに照らされて一層美しく咲き誇る花々を見ていると、その中で何かが蠢き、輝いた。
見間違いかと思って立ち上がって窓を開ける。また、何かが動いて月明かりを反射した。
何か、ころんとした見たこともない生き物がいる。好奇心を刺激された私はこっそりと離宮の外に出て庭に回り、謎の生き物を捜した。
足音を立てないようにして花壇に近付き、その何かが現れるまで身を屈めて息を殺しながら待っていると、それはまたころりと現れた。
白銀に輝く固そうな表皮に短い手足が生えている何か。手足と同じくらい短い尻尾も生えていて、形としては蜥蜴だと思う。でも、これは蜥蜴ではない、絶対に違う。
まるっとした形状ながら、どこか神秘的なその生き物を記憶にある情報に照らし合わせると、まさかという生き物に行き当たった。
「……ドラゴン、かしら」
思わず声に出して呟いてしまった私に気が付いたドラゴン? は、びくりと丸い身体を揺らして左右を見回す。おそるおそる振り返ってきて、私を見ては驚愕にぴょこんと大きく跳びはね、「きゅう!」と高い鳴き声を上げると、背中の小さな羽をばたつかせながら走り去ってしまった。
思っていたよりもずっと心臓がうるさく音を立てている。
小さな頃には天使に会ったけれど、この歳になって空想上の生き物と言われているものを見ることになるとは思わなかった。
あんなに、丸っこい可愛いものだとは思わなかった。
「アズレト……!」
早くこの珍事を伝えなければ! そう考えてから間髪入れずに侍従の顔が浮かんだ私は、真夜中に侍従の部屋に押しかけてそれはもうめちゃくちゃに怒られた。