侍従は初恋を胸に秘めている。
聖の森と呼ばれている場所がある。
そこは竜人の棲む地にしか咲かない花々や草木のみで構成されているはずなのに、魔法の力が疎まれている隣国にも存在するとの報告を受けた。
八歳と幼く、遅れて得た人型は年齢に追い付いてはいないが、次期国王としての教育を受けていたアズレトは、隣国の聖の森を視察したいと申し出た。
隣国はその国柄から此方を畏怖している。子どもである自分が単身潜り込むのが、今後の国交に波風を立てずに済むのでは、と考えた結果だ。
王城の近く、離宮に隣接していた森を見て、その規模にアズレトは絶句する。
聖の森の草木は、魔を浄化して成長していく。竜人が大多数な自国ならばいざ知らず、何故この国にこれだけの規模の森が存在するのか。……この国は、何を隠蔽しているのか。
アズレトは徹底的に調べるつもりで足を踏み入れ、深奥を目指した。
この森で一番であろう大木の根元で、一人の少女が読書をしていた。
金糸の上に紅を掛けたような美しいストロベリーブロンドに、翠玉を嵌め込んだ大きな瞳、愛らしいのに凛とした容姿はアズレトより少し年上に見受けられる。
気になるのは、何故こんな場所に一人でいるのかということと、顔色があまり良くないことだった。
「あら、貴方、もしかして迷子?」
少女に近付けば、開口一番にそれを疑われたが、このような深い森で迷子など不自然だ。もう少し不審がられてもいいのでは。
安易に名乗るわけにはいかない自分に、声帯が完全ではないせいで首を振るばかりの自分に、少女は「なら私も名乗らないわ。どう? 名無し同士、遊んで行かない?」と鷹揚に返してきた。
不思議、もっと言えば変な少女は、初対面の名無しに対して、「木登りは出来るかしら? ここに足を掛けるのよ」「飛び石に乗れば泉の上だって歩けるわ。ほら」と全く警戒せずにお転婆な姿を披露する。
それでも節々に育ちの良さを残している少女は、この国の貴族の令嬢だろうか。
生まれてこの方勉強ばかりで、子どもらしく遊んだ記憶はほぼ無いに等しいアズレトにとって、少女と遊んでいる時間は至極新鮮で、思わず視察だということを忘れてしまう程だった。
少女に近付き過ぎた時だった。
先程まで楽しそうに遊んでいた少女が、ハッと青ざめて距離を取る。「ごめんなさい。けれど、絶対に私には触れないでちょうだい」と申し訳無さそうに口にする。
アズレトは深追いはせずに頷く。理由を聞かずとも今の瞬間に察した。
少女は、ただの人間とは思えない程の膨大な魔力をその身に閉じ込めていたのだから。
視察とは何だったのか。少女に会う為に時間を割き、国と国を往き来する生活が始まった。
毎日会っているうちに、少女は色んな話をしてくれるようになった。正体不明の自分に何でも話してしまうその純真さには参ったが、無条件に信用されるのは嬉しい。
王族に生まれた為に常に周囲に疑いの目を向けるばかりで、『友達』と呼べるような間柄の者は作れなかった。
だから、こうして『ただの子ども同士』でいられる少女は特別な存在だ。
少女の話は自分の体質のことや日々の愚痴が大半だが、愚痴に関しては時には男前にも程がある、爽快な武勇伝までも含まれていたので、何度か笑ってしまった部分もある。
本来ならば笑える話ではないのに、少女は全くと言っていい程逆境には屈していなかった。
そんな強い少女にも、気持ちだけではどうにもならないのだろう時期があった。
少女の具合が悪そうな日々が続き、心配でたまらなくなっていた時、少女が目の前で気を失った。
器の許容量を超えた魔力が体内に渦巻き、今まさに食い破ろうとしているのを目視した時、アズレトの頭の中には『吸い取ってやればいいのではないか』という妙案が浮かんでいた。
蒼白い顔をした少女の額に触れ、急速にその魔力を吸い上げていく。
毒にならない程度まで引き受けられれば、暫くは元気に明るい笑顔を見せてくれるのではないかと、微かな希望を胸に作業を続ける。
少女の頬に再び赤みが差した頃、アズレトは酷い眩暈に襲われて地に崩れ落ちた。
竜人でありながら、呆気なく少女の魔力に負けた。
幼いながら魔力は王族の血を引いているこの身でも、処理し切れない魔力をこの少女は人の身体で抱えていたのか。
生きていることすら嫌になるような、とてつもない苦痛が付き纏っていたはずなのに、毎日あんなに無邪気に過ごしていたのか。
この場に少女を残していくのは心苦しいが、このままでは暴発した此方の魔力が少女に悪影響を与えてしまう。
息しか吐き出せない喉で短く詠唱し、自国の城へと転移すると、着地もまともに出来ずに倒れ込む自分に気付いた使用人達が騒ぎだす。
「殿下! これは、一体……!」
朦朧とする意識の中、慌ただしく自分の元に駆け寄り、抱き上げてくる紫紺の髪の侍従を見上げる。この状態では、自分の侍従の顔もはっきりとは判別出来ないらしい。
詳細に事情を話せる程出来上がっていないこの喉では、この身に起こっている事実をありのままに伝えるのは厳しいが、このまま無言を貫けばあの国を相手に戦争が始まってしまう。それはなんとしても避けたい。
アズレトは気力で言葉を紡いでいく。
少女のような存在があの国にいること、危険な状態の少女を助けようとして失敗し、この様だということ。
話し終える頃には、竜人の血さえも毒する魔力が他国にあるという脅威に、使用人達は震撼していた。
そうではない。伝えたかったのは、少女の恐ろしさではない。
弁明をしようにも、視界が暗くなる。「殿下!」と一際大きな声が鼓膜を揺さぶれど、もう侍従に「声を落とせ」と返事をしてやることも出来なかった。
三日間死線を彷徨い、目を覚ました時には傍らに父の姿があった。
老竜である父を、一日も早く即位して激務から解放してあげなければ、と日々奮闘していたというのに、何という有り様か。
「愚か者が。力を過信しおったな。少しは子どもらしくせぬか。可愛げのない」
目を合わせた時には明らかに安堵して表情を緩めていた癖に、口を開けば説教だ。
言い返す言葉もない。早々に謝ろうとしたところで、「だが、異国の地で人助けとは、それでこそ次代を継ぐ器よ」と乱雑に頭を撫でられて、急に恥ずかしくなって布団に潜り込む。
子どもらしい行動が嬉しかったのか、笑い出す父のせいでなかなか顔を出す気になれない。
父を放っておいて瞼を閉じると、塗り潰された黒の中に少女の顔が浮かんだ。
あの後、少女はどうなっただろうか。身体は楽になっただろうか。笑えているだろうか。
森の深奥で、今日も自分を待っているだろうか。
あらぬ期待をしては、臥せっている自分に落胆する。これでは、こんな姿では会いに行けそうにない。
「……前回限り、視察は止めにせよ。二度目はないかもしれぬ」
まるで考えを見抜いたかのように、父が再び話し始める。
次期国王をみすみす死なせてたまるか、老いた身で出来た我が子が可愛い。どっちなのか問い質したくなることを交互に言われるが、アズレトの心は決まっていた。
「父上、俺にはどうしても勝たねばならない者が出来ました」
必ずやあの魔力に打ち勝って、今度こそ無事少女に触れてみせる。そして、少女を元気な身体にしてみせる。
こればかりは、一度負けたからと言って引けるものではない。一度燃やした炎は簡単に消せたりはしない。
ほとんど息しか出ていない声で、父に少女の詳細を語る。父にまで少女を誤解していてほしくなかった。
少女は恐ろしい存在ではなく、とても強く、可愛らしい人だ。
それだけは分かってほしいと熱心に語れば、自分と同じ紫水晶の目を丸くしていた父は、何やら「そうか」「なるほど」と一人で納得しながら頷いていた。
「その者が大事ならば証明せよ。……いつか、儂に会わせるといい」
ふ、と微笑んだ父は、もう一度頭を撫で回してから部屋を出ていった。
最低限の許しはもらえた。後は頑張るだけだ。
この身が強くなるまでは少女には会えない。けれど、忘れられていたら思い出させてやろう。好きな男が出来ていたら奪ってやろう。
自分無しでは生きられない状態にするのはどうだろう?
考えるだけで未来が待ち遠しくなってきた。