姫様は喜びに満たされている。
タックルしたと同時に開いた扉の向こうに、ずべーっと音を立てて私はすっ転んだ。
ちなみにこのずべーっは日常稀に起こるびたーんより大分痛かった。当然のことながら受け身が取れているわけもないし、足首も捻っている可能性がある。
だって、誰が叫んだ直後に間も無く招かれると思うのか。あれだけ逃げられていたのだから、タックルの二、三発確実に必要な場面ではなかっただろうか。
「今のはすぐに開ける場面じゃないでしょう!?」
ちょっと自分が何に対して怒っているのか分からなくなってきた。
見事にぶつけた鼻を擦りながら顔を上げると、目の前で気まずそうにドラゴンが短い腕を差し出していた。
今思えば、アズレトは信じたかったのかもしれない。私が触れられないと知っていながら、いつか間違いでもその手を掴むのではないかと。
小さな手を摘まんで上体を起こした私は、ドレスが皺になるのも構わずにその場で座り込んだままドラゴンを見つめた。
おろおろとしているドラゴンは、一度その短い両手に力を込めて、周囲に幾つかの花を咲かせながら全身を輝かせる。
そして、その光が収まった後にガックリと可動域不明の頭を垂れて、あるのかないのかも分からない肩を落としていた。
何となく、何がしたいのかは想像がついた。それに、怒っているのにもそろそろ飽きてきた。
「私は可愛いものが好きなのよ。貴方は可愛いんだから、そのままでいるなり人型を取るなり、好きにすればいいわ」
今までに何度も、可愛い顔をしていると思いながら口にしたことはなかった。
男性の自尊心とやらと打ち砕くかもしれない言葉は一応控えていたから、こんな場面でもなければ言う時は来なかっただろう。
不服そうにしている丸い姿。こうして見ると白銀の肌に紫の瞳なんて、アズレトでしかないのにどうして気が付かなかったのか。私は相当あほなんじゃないのか。
「……私、ずっと貴方のことを待っていたの。それこそ数ヶ月は森に通い詰めたわ。もう会えないなんて信じたくなかった」
あの頃の記憶を思い返すと胸が苦しくなる。あんなに居心地が良かったはずの森を見るだけで寂寥感に満たされて、切なさが厭悪に転じた時には見るのも嫌になった。
それでも庭に花を植えたのは、自分の体調に関係なく、忘れたくなかったのだと思う。
「どうして会いにきてくれなかったの? 貴方だって、私のことが好きな癖に……」
柄にもなく泣き出しそうになった時、眼前が淡い白の光に包まれた。
ドラゴンがちょこんと佇んでいた場所には、アズレトが片膝をついて私を見下ろしていて、何か言いたげに喉を押さえている。
どうやら、何とか人型を取れたらしいアズレトは苛立ちを隠さずに喉元に爪を立てた。もどかしい気持ちは伝わってくるけれど、自分を傷付けるような真似はしてほしくない。
その手を掴んで引き離した私は、アズレトの喉元を撫でる。こんなことをしてもアズレトにとっては何も良いことはないと分かっているけれど、そうせずにはいられなかった。
「……れが……誰が、可愛い、ですか」
まずそこからか。
やっと声が出せたかと思えば、可愛いと呼ばれたことに対する怒りから入るとは。それを言いたいが為に苛立っていたのかと思うと呆れた。やっぱりこの男は可愛くない。
「可愛いわよ。私、昔は貴方のことをずっと天使だと思っていたし、今でも顔だけはムカつく程可愛いと思っているわ。不満かしら?」
「当たり前、です。可愛いと、言われて、嬉しいわけないじゃないですか」
少しずつ調子が戻ってきたようだ。
「俺はずっと、貴方を追い抜く為に頑張ってきたんです。それが、可愛い……?」
思っていたよりも本気で怒っているらしい。顔に『屈辱』と書かれている。
「俺だって会いたかったですよ。でも、貴方の魔力は強すぎた。子どもの俺には、毒でしかなかった。二度目はなかった」
やっぱりそうか。それだけで過去の疑問は全て解決された。
私は天使を殺してしまったのではないかと、夢の中で魘されたこともあった。私の思っていた通り、あの時もアズレトは私の魔力を吸い取っていたらしい。私が気絶する程の量を、その後数年間持たせてしまうくらい。
それで一度持ち堪えられて今に至るのだとしても、何の対策もせずに二度私に触れれば死んでいた可能性が高い。
「貴方を殺していなくてよかったわ。だけど、……今も大丈夫とは言えないんじゃないかしら」
あれからたったの八年だ。何をどうすれば、私に触れても平然としていられるようになるのかは分からない。
竜人という種族なら、成長すればいつかは私の魔力量を超えるのかもしれない。でも、アズレトのドラゴンの姿を見る限り、竜人にとっての八年は大した年数ではないに違いない。
予想通り、悔しそうにしながらもアズレトは頷く。それなのに、アズレトは私の頬に手を伸ばして包み込んできた。
「それでも触れたいと思うのは、いけませんか……?」
急に真剣な声色になられると困る。心臓がうるさくなるし、目を見ているだけで恥ずかしい。
情けないことに、「し、死なない程度にしなさいよね」としか返せない私に、もはや年上の威厳など存在しなかった。
「ひ、一人四役なんて多すぎるわよ。もっと早くに教えてくれても良かったのに」
何とも言えない恥ずかしい空気に耐えられなかった私は、換気をするつもりで話題を変えたのに、アズレトときたら私の髪を撫で始めた。
もう片方の手で抱き寄せようとしてくるのは踏ん張って阻止だ。その展開はまだ早い。
「子どもの頃遊んだ程度の相手に身元を調べ上げられ、侍従として潜り込んできたかと思えば正妃に迎え入れているなんて、気持ち悪くないですか?」
「……自覚はあったようね」
確かに気持ち悪い。私がアズレトを好きじゃなかったら完全にダメなやつだった。
私の言葉に傷付いた顔をするアズレト。そういう顔もかなり可愛らしいから、時々わざとしているのではないかと勘繰ってしまう。多分、今のはわざとではなく本気だろう。
だからと言って撫でるのをやめるわけではないし、腰に回された腕には更に力が込められる辺り、図太い神経をしている。
「それに、ひどいわ。もっと、易しいのから始めてくれてもいいじゃない。私、初めてだったのに」
もう抵抗するのは疲れた。アズレトの胸元に額を預けて、先日の件の文句を言ってやる。
「あんなことを言われて、我慢出来る程成長出来ていません」
開き直りやがった。
「そうね。あんなに小さい幼竜だものね」
「……ドラゴンの姿が小さかったら悪いんですか」
拗ねてしまったようだ。大人びていて可愛いげのない侍従は、真実を知ってみればただの背伸びをした子どもだったらしい。これは完全勝利だ。
アズレトが苦しくなるかもしれないと思いつつ、背中に腕を回すと頭上で息を詰めるのが分かった。
あの小さな天使がこんなに大きくなるまでに、親孝行で大国を治められるようになるまでに、どれだけの努力が必要になっただろう。
本当に、とんでもない男に好かれてしまったものだ。
「いいえ、私は貴方がいいわ。貴方なしの未来なんて考えられないもの。アズレトの隣にいていいなんて、私は最高に幸せよ」
胸元に擦り寄るとあからさまに動揺しているのを感じる。
私のことは色々と知っている癖に、私がアズレトを好きだったことだけは知らなかったらしい。
数秒何も言わずに固まっていたアズレトが、私の耳許で名前を呼んでくれる。敬称なしのそれがどうにもくすぐったいけれど、それだけで声に嬉しさを滲ませてくるから私も嬉しくなる。
あれやこれやに怒っていた気持ちは何処へ行ってしまったのか。「何かしら?」と返事をして顔を見れば、いきなり唇を塞がれて驚くこととなった。
相変わらず全く我慢出来ていないけれど、ちゃんと優しくしてくれているからそのまま受け入れる。
「……俺も、貴方が欲しいです」
口付けよりもその言葉が後になる辺り、この男は思っていた以上に子どもで我が儘だ。
触れ合った唇が、抱き締めあった身体が温かくて嬉しい。
アズレトには悪いけれど、体調も気分も絶好調な私は今、胸いっぱいに幸せに満たされている。
本編完結致しました。最後までお読みいただきありがとうございます!
アズレト視点の補足を上げる予定ですので、宜しければそちらもお付き合いいただけたら嬉しいです!