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姫様はやり逃げを相談している。





 やり逃げされた。

 いや、これでは言葉選びが悪すぎる。正しくは初心者に対して物凄い口付けをしておいて、あの男は無言で立ち去った。

 ただ触れるだけならば、この私でも余裕で事故として処理するつもりになれただろうに。

 あの男は色んな角度から私の唇を食んで噛み付いて舌を舐めて吸って……。思い出すだに羞恥で顔を覆いたくなるような数々を施してくるものだから、いつの間にか私はあの男の胸に両手をついて肩で息をしていた。

 酸欠で涙目になりながら睨み付けてやると、あの男は自分の唇に手を添えて真っ赤になったかと思えば、そのまま逃げやがった。


 残された私はきょとんとする他ない。それにしても何なのか、どうせなら私がやりたかったぐらい可愛らしい顔をして、戸惑いながら逃げられた。まるで私が襲ったみたいになっていた。

 どう考えてもあれは私がやるべき役だったと思う。


 納得が行かないので、絶好調に元気になった身体で城中を駆けずり回って――残念ながら速度は遅いけれど――捜しても見つからない。職務怠慢もいいところだ。

 あの男が見つからない代わりに、紫紺の髪の従者を見つけた。珍しく、特に忙しそうには見えない彼を引き留めると、「これは姫様、何かご用でしょうか?」なんて形式的な言葉が降ってきた。


「ええ、王妃命令よ。私の為に時間を割きなさい」


 とびっきり高圧的な物言いになったところで、困った笑みを浮かべている従者をお茶の場へと連行した。



 暖かな陽光の下で茶菓子を添えて、優雅にお茶を始める。

 従者はその涼しげな顔に、用件は何なのか、と記しているけれど、私にも心の準備というものが必要だった。

 何しろ、私はあんなことをされるのは初めてだった。此方がポカンとしている内に置き去りにされて、怒りながら捜索してはいたけれど、落ち着いて考えてみれば怒りよりも先立つ感情があったはずだった。

 それが今やってきている。


 口を開こうとしては恥ずかしくなって視線を逸らし、ひたすらにもじもじしている私。

 従者からすれば早くしてほしいだろう。ちょうど手が空いていただけで本来多忙な身なのだから。


 一度お茶を口に含んで、深呼吸をしたところで私は覚悟を決めた。


「例えば、そうね……例えばの話よ? 貴方なら、淑女に口づけをして逃げる男をどう思うかしら」


 この切り出しならば、事実であるとは思われないだろう。不自然に声が裏返ってしまったのは流してもらいたい。

 私の言葉を聞いて、先程まで美しい所作でお茶を口にしていた従者は、派手に音を立ててカップをソーサーにぶつけた。「失礼致しました」と一言、侍従は困惑した様子で私に視線を戻す。


「僭越ながら汚い言葉で申し上げますと、最低のクズ野郎ですね」


 簡潔で分かりやすくていい。

 やはりそうか。あの男はクズ野郎で間違いなさそうだ。

 問題は、私にとっては逃げられたことが怒りの原因で、口付け自体は嫌ではなかったこと。


「そうよね最低のクズ野郎よね。そのクズ野郎が別に嫌いな男ではなかった時、女はどうすべきだと思うかしら?」

「そのクズ野郎は正面から張られても仕方はないかと思いますが、代わりに味方側の男を使うのは如何でしょう」


 なるほど、自ら制裁を与えなくとも良い方法が存在するのか。

 従者にその先の解を促すと、とても良い笑顔で「姫様、例えば従者に成敗させるのです」と返された。まるで自分のことを指しているようで恐ろしい男だ。

 おかしい。私は例え話として振ったはずなのに、従者にはもう『クズ野郎』が誰なのか知られてしまっているみたいに聞こえる。


「如何致しますか?」

「ええ、もし私なら、自分で殴るが最善だと判断するわ。貴重な意見をありがとう」

「さすがは姫様、そちらが最適解かと思われます。お役に立てて光栄です」


 気を紛らわせる為の軽い相談だったのに、思っていたよりも空気が黒く染まってしまったので話題を変える。

 気になっていることは山程あるのだから。


 あの日、どうして従者は侍従に私のことを報告したのか。そのこと自体は何等おかしなことではないけれど、侍従が口を滑らせたのか、従者とあまりにも近しい関係に感じられる言い回しをしたのが気になっていた。

 そして、更に疑問は重なる。騎士団を率いているのは騎士団長である従者のはずが、あれでは軍師が従者とは別の人物で、それが侍従のように聞こえた。

 引っ掛かっていることはまだまだあるけれど、先日の侍従の言葉はどれもこれも変だった。


 私から延々と疑問を投げ掛けられた従者は、何とも言えない複雑な顔で口を引き結んでいた。これは口を割りそうにない。

 一存では答えられないというようなそれが、積み重なる疑問を色濃くする。


 意味が分からないことはたくさんある。でも、そのどれも私一人が思い悩んだところで解決するものじゃない。

 もやもやと不快感が溜まっていく。


「とある人が、特殊な能力を隠し持っていたの。過多になっている魔力を無毒化する力よ」


 ここで一度不快感を飲み下した私は、従者が答えられそうなことに話題をすり替えた。

 従者の口許が緩むのを見て、この話ならば大丈夫そうだと確信する。


 私が知らなかっただけで、個々の魔力量が多いこの国ならそんなこともその実当然に有り得ることなのかもしれない。

 それでも、まだ少し納得出来ていない部分がある。無毒化なんてあまりにも都合が良すぎるからだろうか。私自身が感じている感覚ではそう感じないからだろうか。


「……姫様は、局所的に鋭い時がありますね。陛下からは『お前が思っているよりも姫様は頭がゆるい』と事前に聞いておりましたが」


 えげつない領域の失礼さに顔に血管が浮かぶのが分かった。

 何だか知らないけれど、陛下には会った時に是非挨拶として締め上げてやりたいものだ。


「確信なさっているのでしょう? ですから断言致しますが、『無毒化』なんてものがあるわけがありません。『魔力』は本来『毒』ではありませんからね」


 ドレスを掴んでいる手に力が入る。

 顔色が悪くなっていく私を他所に、従者は「もっとマシな言葉選びをしていただきたいものです」と、親しい誰かに対するような不満を溢している。


 分かっていたはずなのに、ならば『あれ』はなんだったのかと嫌な予感ばかりが焦燥感を掻き立てる。

 じゃあ、侍従が私にしたことは……ドラゴンが私にしていたことは……やっぱり……。

 確実に顔を青くしているだろう私に気がついた従者は、止めを刺すとばかりに畳み掛けた。


「無毒化、それがただの吸収だったとしたら、姫様はどうされますか?」




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