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パン焼き器がほしかった

作者: 宇井

パン焼き器がほしかった.


わたし、きのう彼と別れました。彼は自分の持ち物をまとめて出て行きました。持ち物といっても、いつも部屋の半分を占領していた衣服と漫画本を段ボール数箱に詰めると、車の後ろにのせて去りました。じゃあねと言って彼は去り、じゃあねと言って見送りました。


わたしのアパートの部屋は、入り口から、台所、寝室、ベランダと一直線に並ぶ間取りのせいで、入り口から入ってくる、さわやかで気持ちのよい風が、ベランダに抜け洗濯物を揺らしてます。しかし、春の嵐に、そして夏の台風の時期ともなれば、部屋全体が振動するほどの風が入り口からベランダへ向かって唸りながら吹き抜けていき、それとともに、わたしと彼の会話も台風時のテレビのレポートが暴風の中で叫ぶような具合に悲壮感を増してまいりました。


わたしは以前から、パン焼き器がほしかったのですが、「どこに置くの。」と彼はいつも、嫌な顔をして反対しました。わたしのアパートは1Kです。入り口に直結する台所に二人用の小さなテーブルを置き、流し台の横の狭いスペースに低い冷蔵庫、そのうえにレンジがあり、背中側はバストイレの扉を開けるたびに座っていた椅子から立ち上がらねばならないという具合でしたので、家電品をこれ以上置くスペースはなかったといえます。入り口をあければ、食事する姿を直撃できるほどの狭さですから彼のいうことももっともでした。でも、わたしは焼き立てのパンを食べたかった。


そこで、去って行く彼の車が見えなくなると、すぐに駅前の量販店にいき、パン焼き器を買いました。表面に「多機能パン焼きパンちゃん」と書かれた段ボール箱は、ほぼ立方体で重く大変持ちにくい。いまどきネット通販ではないのかと皆が見つめる中で、物品の持つ物理的な重さと満足感でいっぱいになりながら、持ち帰りました。今、パン焼き器は台所テーブルの中央に据えられています。彼の言ったとおり、結構な存在感で、テーブルを一人で占拠しているような具合です。それを、ほれぼれとした気持ちで眺めています。


パン焼き器に、朝出勤する前に、材料を仕掛けておくと、夜の帰宅時に、焼き立てパンが食べられます。そこで、朝、材料をセットしてタイマーを仕掛け、蓋を閉めて「よし」といって出勤します。初日は、パンがうまく焼けているか心配で、私は定時になると、すぐに会社を出て、急いでアパートに帰りました。

ベランダ直結の入り口ドアを開けると、部屋の中は真っ暗でしたが、1つの緑のランプがついています。正常焼き上がりの印です。私はほっとして、靴を脱ぎ床に足を下しました。すると、パン焼き器の側面についていて、冷蔵庫の方に向かって点灯していた緑のランプが、というよりパン焼きの胴体部がぐるっと回転して私の方を向き、「おかえりなさい。」と声を発しました。


私は、たいして驚きもしません。なぜなら、「AI機能装備会話も可能」というパン焼き器を買ったのですから。私は、「ただいま。」と返事をしました。ちょっと気恥ずかしかったです。こんな会話は、小学生のころに母親として以来のことですが、それを今パン焼き器に向かって言っているのです。


その後も、パン焼き器は会話能力を高めていき、緑のランプの下にある小さいカメラ目線で観察し、私が靴を脱ぐときの様子や声の調子によって、「疲れているみたいですね。どうしました。」と、気遣ってくれます。そのうち、「疲れてるね、足ぱんぱんだよ。」と、だんだんとタメ口調も覚えました。それは、私が、「ええ、大変疲れていますが、腎機能に問題ありません。」などと、パン焼き器に話すわけではないので、次第に私の口調を学習したものと思えます。また、緑のランプの瞬きは目の瞬きのように表情ゆたかになり、驚いたり笑ったりといった表情を感じ取れるほどになりました。


こんなわけで、わたしは帰宅するとパン焼き器との会話と焼き立てパンで癒されるのでした。そしてパン焼き器に名前がなかったことを思い出しました。そこで、いろいろ考え、「パンゾウ」か、「パンサク」のどちらにしようか迷いました。両方で呼びかけると、パン作の方に緑のランプの瞬き反応がよかった、「これからは、パン作ってよぶからね。」と宣言しました。どうして、ありきたりの男子の名前しか思い付かなかったのかと、後で考えると、やはり、去った彼のイメージをパン焼き器に重ねていたんだと思います。


ある朝、目覚ましをかけ忘れて会社に遅刻しそうになりました。目覚ましは携帯のアラーム機能を使っています。パン焼き器にも目覚まし機能はあるのですが、「分かった。」と返事をしながら寝床からでないと、律儀に、しつこく警告してくるパン作との関係がこじれてしまうのが怖くてオフにしています。そんなわけで枕元に置いておいた携帯をセットし忘れたのか、今日は鳴らなかったのです。あわてていたため、パンの材料をいれずにパン作のタイマーをセットしてしまいました。


仕事中も、気が気ではありませんでした。空焚き防止機能くらいあるだろうと思いつつも、パン作に何かあったらどうしようと、仕事が手につきません。定時に、会社を走り出て、道々走り、アパートの入り口を開けると、パン作は床に落ちて倒れておりました。


私が、「パン作、パン作」と呼びかけても、ランプを点灯しません。そのころには、パン作は自分の名前を認識しておりましたので、「パン作」と呼べば返事を返してくれました。返事がないことに、私は動揺し、震える指でリセットボタンを押しました。すると、パン作は息を吹き返し、けなげに「おかえり」と声を発しました。

ほっとして、パン作を抱きしめたのですが、何と、空焚き防止という基本機能は付いておらず、何も入っていなかった内釜の回転の振動により、狭いテーブルの端まで動き、落下したようです。


この事件のあとに、パン作は人が変わったような気がします。疑問も生じました。パン作のAIからしたら、内釜が空であることぐらい検知でき、みずからタイマーをオフにすることぐらい朝飯前です。なぜ、そうしなかったのかということです。


パン作ができない事が一つありました。移動することです。しかし、あの事件がきっかけとなり、パン作は「移動する」という動作の存在を知りました。物理的に移動すれば、まったく違った景色が見えるという、その快楽も知ることになりました。私が中身を入れて準備万端設定していっても、中身を吹き飛ばして、テーブルから落ちて転がっているパン作を見かけるようになりました。


蓋をしっかり閉めていなかったのかと、はじめは思っていたのですが、どうも不審に思い、出かける振りをして、外からカメラで見張りました。するとパン作は蓋の電磁ロックをはずして、中身を吹き飛ばしながら、重心をうまくずらして、テーブルの上を移動するのです。そして落下します。何度も試行錯誤した結果でしょうか、中身の飛ばし方を微妙にコントロールして姿勢制御し、、床の任意の位置に着地できるまでになっているのです。


時には失敗して、自らリセットをしていたこともありますし、偽装のためか、私の帰宅時間に合わせて、自ら停止状態に落としていることもありました。そんなことは知りもしなかった私は、パン作に、蓋のロックを忘れた私がわるかったっと泣きながら、謝っていたのです。


このような変化について、思い当たることがあります。帰宅時にパン作落ちて、中身が床に散乱していたとき、それは確かに私が蓋の電磁ロックを忘れたときでありましたが、困り果てた私は、自動掃除機を購入いたしました。わたしが出社中に、くるくると回転して、部屋の隅々まで掃除してくれるタイプです。その回転を見て、パン作は移動ついての方法を気づいたに違いありません。


自動掃除機にとって回転は清掃のためであり、移動とは直接結びつかないにも関わらず、自動掃除機を見て、パン作は、はっと気づき、内釜の回転を自らの移動手段と結びつけたのです。これは、単純ではありません。何段階も思考の過程や、発想が必要です。驚くべき進化です。そして、さらに驚くべきことは、パン作は掃除機と双方がもっているIoT機能を使って、会話を成立させるまでに至っていました。もちろん、わたしが見ている前では、掃除機もパン作もそんな様子は見せません。


最近、パン作は私が少し不審に思い始めたことに気づいています。そこで、ご機嫌を伺うかのように新しいレシピを提案してきます。世界各地のあらゆるパンのレシピを出してきて、私の好きそうなものを選び作り上げます。これは、パン作のネットワーク通信が外部へ広がったことを意味します。世界各国の家庭のパン焼き器と密かにIoTによる情報交換しているらしいのです。もちろん材料は私がセットしたものです。少し移動ができたからといって、まだ、スーパまでは行けません。


よく、立場が人を作ると申しますが、わたしが、あまりにも精神的にパン焼き器に依存していたために、必要以上にパン焼き器を増長させ進化させてしまったと思っています。これから、何を始めるかと思うと心配であります。しかし、すでに、わたしはパン作を失うことは考えられません。


唯一の救いは、掃除機や、パン作、そしてと他のパン焼き器が作り上げた通信網において、人のソーシャルネットワークとの接続点がなかったことです。もし、あったとしたらと、今頃、パンの代わりに何が燃え上がり焦げていたかと思うと、冷や汗がでます。それでなくても、世界のパン焼き器ネットワークには、私がおろおろとパン作を介抱している動画が拡散されているに違いありません。今後のパン焼き器の設計者がなんらかの防御策をとっていただくことを希望します。


こんなことを書いている間にも、わたしの背後で、掃除機とパン作が何やらランプを点滅させて、会話しているのがわかります。私から見えるレンジのガラスに映っていることに彼らは気づいていないのです。まだ、私の方が賢いでしょうか。しかし、彼らは次に何をたくらんでいるのでしょうか。



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