正反対
瑣末なことから始まった喧嘩だった。
何が理由で苛ついたのかさえ覚えていないし、そもそも特に理由なんて無いのかもしれない。
カズの言葉に含まれた小さな棘や含みを持たせた言い方なんかが勘に障ってしまって、わたし自身も似たような温度の棘や言葉を返してしまった。
少しずつ雰囲気が悪くなっているのを実感していたけど、言葉はどんどん熱を帯びていくし、どうしようもなかった。
お互いに言葉数が減っていって、気付けば最後に言葉を発したのは三十分も前だった。
といっても相手の問いに『あっそう』とぞんざいに返しただけで、会話とも言えないのかもしれない。
それからカズとは口を訊いていなかった。
微かに漏れ出しているのはわたしとカズの呼吸音。それと、ときおり彼が身じろぎをする度に聞こえる、衣服が擦れる音だ。
喋り声なんて一切ない。無音がこんなに辛いだなんて思わなかった。重い空気は嫌だけど、それを作ってしまったのは他でもないわたしだから何も言えない。言ってはいけない。
カズの些細な言動など気にするほどじゃなかったのに、なんでわたしは相手を攻撃してしまったのだろう。
自分に問いかけてみるけど、問答をするまでもなかった。頭の中にするりと答えが浮かび上がってくる。
イライラが積み重なっていただけだった。ただの八つ当たりだった。
もう三ヶ月も前のことになろうとしているけど、とあるアーティスト――Meetingのライブがあった。
種類としてはよくあるロックバンドなのだけど、ゴリゴリと掻き鳴らすギターに似合わずな歌詞が厭世的で何処か儚げな印象を受けた。二~三年前のインディーズ時代のときから好きで、最近やっとメジャーデビューを果たして売れ始めたのだ。そしてわたしの念願が叶ったのか、ここから少し離れた場所にある大きな箱でライブが開催されることになった。CD音源で聴くのと実際の生音で聴くのは感じる情報量が違っていた。
地響きのような演奏。透明な歌声。何もかもを透過するような極彩色のライト。
周りの溢れんばかりの熱気も想像していたのと桁が違った。
きっと……きっとだけど、皆一様にわたしに似た思いを抱えてきたのだろう。
そう考えると、彼らが鳴らす音で自分の身体も何もかもが浮いてしまう気さえした。
ライブが終わってからも生ライブで感じた熱はいつでも思い出せた。
ベッドに倒れ込んで、iPhoneのジャックにイヤホンを差し込み、曲を再生する。
ルーティンのように重ねてきていることだけど、そうして目を閉じてその音に浸れば、塾で行っているテストの点数も学校の定期考査もわたしには関係のないことのように思えた。
今朝のことだった。日々の疲れを癒やすべく今日もMeetingの曲を流していると誰かによってイヤホンを引っ張られたのだ。
突然のことに驚いたのと微かに耳が痛んだことが合わさって、憮然とした表情で相手――母を見つめた。
母も似たような表情でこちらを見つめていたけど、怒っているときの顔に近かった。
嫌な予想は当たってしまうもので、視線を鋭くした母はクシャクシャに丸められた紙をわたしに突きつけてきた。
「どういうこと?」
何を言いたいんだろうかと思いながらも渡された紙を開いてみる。
目に飛び込んできた178という数字に既視感を覚えた。コレは数日前にわたしにも渡された用紙だった。
わたしが通っている塾は律儀というか丁寧なことで有名な塾で、行ったテストの順位表を本人だけではなく、親にも確認してもらう為にわざわざ自宅に郵送しているのだ。
そんなわけで178というのは二週間ほど前に塾で行ったテストのわたしの順位だ。前回のテストから大幅に順位が下がっていて……具体的には五十位ほど下がっていたのだった。
合計で三百人ほど通っていたから、そこに通っている塾組の中では平均以下になってしまったということだ。。
これはわたしが悪い。色々と理由はあるけれど、結局のところわたしの努力が足りなかったのだ。だから最近は徐々に勉強量を増やしていて、昨日だって眠気でどうしようもなくなるまでは塾で使用しているテキストを利用して予習をしていたのだ。
ごめん。もうちょっと勉強する。
そう言おうとして口を開く手前で、母は続けて口を開いた。
「勉強もしないで朝から何してるの。そんな下らない音楽聴いてて何になるの。この前だってなんかのライブに行ったでしょ。そういう無駄なことをしてるから成績が下がるのよ。
それと併せて関係のないことまで言われた。
家事の手伝いをしなさい。せめて自室くらい綺麗にしなさい。
日々の鬱憤を晴らすみたいに様々な言葉で中傷されたような気がするけど、頭の中で木霊していたのはわたしの好きなバンドを馬鹿にした言葉の羅列だった。
まだわたし自身が馬鹿にされたのなら納得できる。勘には障るけれど理解はできる。
でもわたしが好きなもの、大切に思っているものを否定されるのは辛い。というか、個々人の好きなものに対して誰が否定できるんだ。っていうか、どうして誰かに否定されなきゃならないんだろう。
もう既にあのアーティストの作り出す音楽は音楽という言葉では括れない存在なんだ。
ただの曲。たかが曲。そういう言葉の概念を超えてしまっていた。
言うなればわたしの心に根付いた清涼剤だ。
叙情的な歌詞に込められた、世界や社会に対する怒りや嘆き。
厭世観を纏っているけど最後にはそれでもこの世界を愛していこう。生きていこうという希望を僅かに残すような余韻。
清涼剤と言うには陰鬱さがすぎるかもしれない。意味としては正反対かもしれない。だけどその正反対さが好きで好きで、たまらないくらい好きで。
眩いてはいないし、輝いてもいないけど、彼らの音楽があるから益体無い現実が起こす不満も不条理も抱え込めるんだ。
そのくらい大切なモノなのに、その趣味(というには傾倒しすぎているけど)を否定されると自分自身を否定されるように感じてしまう。
「出てって」
声量は抑えたけど、それでも怒鳴り声に近くなってしまった声で母を部屋の外に追い出した。
もう一度iPhoneで彼らの曲を聴いてみたけど、彼らの世界に入り込めなかった。
当たり前だ。こんなにも胸が苦しいし、むしゃくしゃする。無性に腹が立つ。
このまま自室に引き籠もっていても気が滅入るだけでどうにもならないのは目に見えていた。
そうだ。カズに連絡してみようかな。
カズこと本木和哉。わたしの彼氏だ。
出逢いのきっかけはMeetingだった。衝撃を受けた生ライブから帰宅するために乗った電車の中で彼を見かけたのだ。その電車は終電に近くて乗車人数が少なかった。ポツリポツリと座る人々の中で、彼だけが呆けたような表情を浮かべていた。その瞳は向かいにある窓を見ていたけど、景観なんて望めない。田舎町に向かっているこの電車の周りには何も存在しないのだ。何も見えないはずなのに、彼の目は何かを宿していた。素敵なモノを眺めている目だ。
私と同じだ。きっとこの人もMeetingのライブに行ったんだ。そう思って小さく微笑んで、それから首を傾げた。
この人、どっかで見かけた気がする。
気になって気になって、何故かわたしは彼に声を掛けてしまった。
『Meetingのライブに行ったんですか?』って。
声を掛けた理由は特になかった。気になるって言っても些細な好奇心程度のモノだったし。
だから言葉を捏ねくり回して理屈を付けるとしたら――生ライブの熱に浮かされて、ぼうっとしていたせいかもしれない。
ともかく、話しかけてみた彼はなんと同学の一つ上の先輩だったのだ。ゴトンゴトンと揺れる電車の中、わたし達は連絡先を交換した。そのあとは早かった。趣味が重なれば、自ずと距離だって縮まっていった。
暇だったらいいな。そう思いながらカズに『遊ぼう?』とラインを送ると数分もしないうちに返信が来た。
『いいけど今日三連休だからどこもかしこも混んでるんじゃねえのかなあ』
『あーそうだった!!どうしよー暇だよー』
『家来る?』
ポン、という音と共に浮かび上がったその文字に、一瞬だけ動揺した。
カズの家に行ったことはなかった。かといって、わたしの家にも呼んだことはない。要するに、お泊まりなんてしたことがないのだ。
手を繋いで歩いて、デートの終わりに触れるくらいのキスをして、それだけ。
女友達がよく言ってる『初めてする前まで怖かった』なんてことは思わない。もちろん見たことはないし、突然目の前に出てきたら悲鳴をあげることは間違いないんだけど。
とにかく、事致すのが怖いわけじゃなかった。
単純に、そういう機会がなかった。そういう雰囲気を感じなかったんだ。……ううん。わたしが見逃していただけで、実はあったのかもしれない。カズはあんまり、そういうことを言わないから分からない。
誘われてるのかな。そういうことなのかな。
ちょっと考え込んでいると、また音が鳴った。ポンと弾むような音が鳴った。
『ごめん変な意味じゃない』
かえってそう言われると余計に怪しいような気もした。けれどそれ以上に、その文面にカズの焦りを感じ取ってしまった。
『分かってるよ』
そう送るや否やすぐに既読が付いて、わたしは自然と笑みがこぼれた。
そんなふうに思ってカズの家に来たのに、わたしは何をしているんだろう。
喧嘩なんてしたくなかった。喋りたくてここまで来たのに。少しでも楽しくなりたいからここに来たのに。
わたしは何をしているんだろう。
なんだか無性に悲しくて、ただただ悲しくて。
涙が出てきた。涙腺が壊れてしまったのかどうしようもないくらいに涙がこぼれ落ちていく。
ごめんね、と心の中で謝った。
わざわざ彼氏の家に来てまで喧嘩するような彼女、要らないよね。
でも、どうしてカズは自室に留まっているのだろう。怒りを露わにして部屋から出て行けば、わたしだってカズの家から出るのに。そういえばカズは一度も怒ってはいない。
わたし、本当に馬鹿みたいだ。
気付いたら音を立てて泣いていた。物寂しいからか、恥ずかしいからか、理由は分からないけどわたしはカズの方をチラリと一瞥した。ただ単に顔が見たかっただけかもしれない。
そうして見た顔は、カズの表情は悲しげだった。わたしの方を見て辛そうな顔を浮かべていた。
謝らなきゃと思った。
「ごめんね」
そう言うと、ばつの悪そうな表情を隠そうともせずにわたしの方を見て、それからわたしの元まで近付いてきた。
「俺も、ごめんな」
言葉と共に、指先に熱を感じた。手で握られたのだ。
始まりは趣味が重なったことだった。だけどそれだけじゃない。それだけでは関係は続いていかない。
カズは、わたしにはもったいないほどに優しいし、気を遣える。
他人の機微を悟れないわたしは、きっと沢山間違えるし、傷付けるし、仲違いしてしまう。
正反対だ。まったく、何もかもが正反対だ。
小さな声でごめんねと謝ると、カズはもういいよ、穏やかな声音で告げてきた。
触れられた指先が、じんじんと熱を帯びている。優しく触られているのに、熱くなってくる。
気恥ずかしくて、そんな気持ちを隠そうとして僅かに笑みを浮かべてみると、心の中まで温かくなってくる気がした。