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3.マルハナバチと回転草

「ここが噂のパン屋かね? クリームパンを一人売って欲しいのだが」


「クロワッサンを売っとくれるかのう。わしの最近の唯一の楽しみなんじゃ」


「あら、今日もジャムパンは売り切れなの? 困るわ、主人に頼まれてるのに。ちょっと、今からでも追加で焼いてくれないかしら。もう何度も店に来てるのに一回も買えないって客を何だと思ってるのかしら。大体この店はいつも……」


 普通のパンが焼けなくなってから、つまり、焼いたパンが全て美少女になるという珍現象が起きてから、何日か経った。最初は地元の住民がまばらに来店する程度だったのだが、日を追うごとに客足が伸びていき、最近では遠方からはるばる訪ねてくる者も現れた。

 わけのわからないまま店の売り上げが増えていくことに戸惑いを感じることもあったが、都合のいい現実をわざわざ否定するほどの余裕があるわけでもなかった。親父から受け継いだこの工房を守るためには、多少の不条理には目を瞑るのが得策だろう。

 目下の問題は、工房の生産力が客の需要にさっぱり追いつかないことだ。

 一人の美少女パンを焼くためには通常のパン複数個の原料が必要で、当然、作れる商品数は少なくなる。バイトとして雇った二人のパンもいまいち頼りにしきれず僕は気を揉んでいた。


「こっちの生地、二次発酵終わりました。って、わ、わわわ!」


 アンパンのアン子がホイロからパン型を取り出すと、何も無い所でバランスを崩して転ぶ。


「生地の捏ね具合はこのくらいでいいか? 少し混ざってしまったのだが」


 レーズンパンのズンはパン生地を捏ねている。ステンレス製のボウルごと。


「どうしたもんかなあ」


 僕は誰に言うでもなく呟いた。

 生産量を上げるにはどうしても労働力を増やす必要があるが、この二人を見ていると新たにパンを雇うのは躊躇してしまう。いっそ人間のバイトを雇ってもいいのだが、いまどきパン屋の工房で本格的に働こうという者は少なく、一から教えなくてはならないという点は変わらない。

 あれこれ悩んでいるうちに、別にこのままでもいいんじゃないかと僕は思い始めていた。

 作った分だけ売れる。利益も充分に出ている。

 そもそも、商店街の個人経営という殿様商売的ビジネスモデルを未だに踏襲している時代遅れの工房だ。本気で客の声に配慮するなら、もっと根本から直さなくてはいけないのだ。

 ある種の開き直りと共に、僕は問題を棚上げした。


###


 棚が壊された。

 ある時、僕の工房に商店街連合会の連中が訪れた。彼らは、商店街の復興と活性化のためにこの工房を大々的に宣伝し、観光地として売り込みたいのだと言う。つまり、地域ぐるみで広報活動を行い集客するので、もっと少女を焼いて売ってくれということだった。

 一方的な物言いが癪に障るが、彼らには日ごろから世話になっているのも事実だ。特に会長には親父が経営していた頃にさんざ融通して貰っていたので断るわけにもいかない。

 僕は本格的に、工房の生産力向上を考え始めた。

 やはり、働き手を増やすしかない。急を要し人間のバイトには期待できないのだから、即戦力となるパンを焼く必要がある。

 これまでの経験から、焼きあがる少女の出来はパンとしての出来と相関があるのではないかと僕はにらんでいた。

 質の良いパンを焼くほど、質の良い美少女になる。

 この単純愚直な理論を実行するために僕は可能な限りの手を尽くした。小麦粉や酵母はもちろん、砂糖や塩、水に至るまで、高級と呼ばれる各種素材を産地から直接取り寄せる。発酵は低温でたっぷり時間をかけて行い、成形には細心の注意を払った。

 僕は出来の良い生地を厳選して、かまどに入れて焼き始めた。

 待つこと十分弱。

 僕の人生でこれほどまで心血を注いだことはないであろう、至高のパンが焼けた。

 かまどから出てきた少女は、もはや当然のように美しい顔立ちをしていた。白磁の肌。紺碧の瞳。背丈は僕より頭一つ小さいくらいだろうか。透き通るような金の縦ロールがゆるやかに小さな顔を包んでおり、淡い桜色のドレスと栗色のコルセットを身に着け佇む姿はまさに英華発外の骨頂であった。


「わあ! なんて可愛らしい!」


「随分と気合の入ったパンだな。自分用か?」


 事情を知らないアン子とズンがそれぞれ感想を漏らす。

 今回僕が作ったのはチョココルネ。焼いてからチョコを入れて完成するので、当然、彼女にはまだチョコが入っていない。

 最後の仕上げ。

 僕はこの夢幻のような美少女に、絞り袋に詰めていた自作のチョコクリームを注入する。

 鼻から。ぶぴぶぴ。


「私、見てられません! こんな可愛い子が鼻から犯され辱めを受けるなんて!」


「こんなことして大丈夫か? 心に深い傷が残ったりしないか?」


 三人目のバイトが誕生した。


###


「名をコルネと賜りました。よろしくお願いしますね、お父様」


 そう言いながらチョココルネの少女は両手でスカートの裾を持ち上げ軽く頭を下げた。


「僕の名前は志木聡。お父様じゃないよ。で、君の名前はそれでいいの?」


「もちろんですわ。素敵な名前を頂き光栄です」


 例によってアン子が安易な名前を付けたのだが、この少女は笑顔でこう答えた。この言動や見た目からしてかなり上質な少女が焼けたのではないかと僕は予感した。加えて仕事も出来れば完璧だ。


「この工房の手伝いをして欲しいんだけど、どうだろう」


「一通りのことは人並みに出来ますので、なんでも何なりとお申し付けください」


 素晴らしい。鼻にチョコをぶち込んだ影響も無さそうだ。

 早速働いてもらおうと思ったとき、アン子とズンが横から口を挟んできた。


「コル姉さんの頭には! 頭には何が詰まってますか!」


「チョコクリームが詰まってますわ」


「重すぎたりしませんか!」


「ふんわりムースチョコなので問題ありませんわ」


「何かに沈みたくなったりしないか?」


「しません」


 女三人寄ればなんとやら。収拾がつかなくなる前に僕はパン達を仕事に駆り立てた。


 結論から言うと、新入りのコルネは優秀だった。もちろん最初は僕が教えながらの作業だったが、彼女は要領がよく、器用で、賢かった。他の二人のように大きな粗相をすることも無かったし、勤労意欲も充分にあるようだった。

 全く良くできた娘だったが、コルネは初日の夜に一つだけ僕に要求してきた。

 この工房は元々祖父の実家を改造して建てたものであり、昔は家族全員が二階の居住区に住んでいた。今は使われていない部屋がいくつかあるので、そのうち一つをアン子とズンに提供し、住み込みで働いてもらっている。

 そこでコルネは、一人部屋に住みたいと言ってきた。特に断る理由も無かったし優秀なコルネの頼みだったので、僕は小さな洋室を使わせることにした。


 三人目のバイトが働き始めてから数日、工房はかつての生産力を取り戻してきていた。コルネが優秀なこともあったが、アン子とズンが仕事に慣れてきたことも大きく、今まで捌ききれなかった客足の伸びにも対応できるようになってきた。

 さらに数日後、観光協会の職員がやってきて話をした。彼が言うには、近いうちに新聞や旅行雑誌に広告が載るので集客率アップは間違いなしということだった。工房の経営が軌道に乗っていることを僕が話すと、彼は自分のことのように満足げな表情で頷いて、ホームページに載せるという写真を何枚かパシャパシャ撮って帰っていった。

 順調だなあと呑気に自室で帳簿をつけていたとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「サトルさん大変です! 緊急事態です! えまーじぇんしい!」


 ドアの向こうで叫んでいるのはアン子の声だった。


「どうした」


「コル姉さんの部屋で、大量の『白い粉』が押収されました!」


 僕は慌てて部屋を出た。


###


 コルネの部屋はドアが外れていた。中に入ると、隅に敷かれた布団の上でズンがコルネを取り押さえている。部屋の真ん中に置かれた背の低い木製の四脚机の上には、スプーンや注射器型計量器やアルコールランプが転がっていた。さらに周辺にはいくつものチャック付きポリ袋が散らばっており、そのほとんどには白い粉が入っている。


「これはどういう状況なんだ」


 僕が尋ねると、コルネを組み伏せているズンが答えた。


「コルネの部屋から変な声が聞こえるとアン子が言ったんだ。それで気になってドアに耳をつけて聞いてみると、確かにコルネが何やらぶつぶつ喋っている。ノックしても声をかけても反応がないし、ドアは内側から鍵がかかっていた。仕方なくドアをぶち破って中に入ると、そこの机でコルネがキマッていた。慌ててとっ捕まえてアン子にサトル殿を呼んでもらったんだ」


 すると、うつぶせに押さえられているコルネが顔だけ僕に向けて言ってきた。


「サトル様どうか信じてください。確かに私は薄氷を踏み抜くこともありますが、聖書に唾を吐くことは決してありませんわ。その白い粉は一見すると狂暴ですが、実は、砂漠の雪女のように無害なただの小麦粉なのです」


 僕は落ちている袋の一つを拾い上げ、中身の白い粉を観察した。普段から粉物を扱っているので見分けるのは慣れている。ただ、僕は本当にやばい方の粉を見たことがない。


「確かに、見た目は小麦粉っぽいけど」


 本当にこれが安全かどうか確信が持てないでいると、それを察したのかズンが口を開いた。


「サトル殿が来る前に一つまみ舐めてみたが、それは小麦粉だったぞ」


「そうですわ、これは小麦粉ですわ。ふふ、サトル様の早合点も板についてきましたね」


「ちょっと待ってくれ。これを舐めたのか? なんでそんな危ないことを」


「うむ、アッパー系なら私も分けてもらおうと思ってな」


 か、勘弁してくれ。

 僕が絶句していると、横にいたアン子が首をかしげながらズンに聞いた。


「でもでも、これが小麦粉だとしたら、コル姉さんはどうしてトリップ気味なのですか? やっぱり鼻チョコの影響?」


「鼻チョコの後遺症か、あるいは小麦粉で覚醒する特殊な体質かだな。おそらく心理依存だろうから身体には影響ない筈だが」


「まあ、私はトリップなんてしてませんのよ。ちゃんと地面に足つけて、炭酸ガスにかこつけて、噛んで含んで笑ってますわ」


 ……鼻チョコは駄目だったかなあ。


「私、コル姉さんの言語野が心配です」


「だが下手に取り上げても逆効果だぞ。小麦粉に毒性があるわけでもないし、黙認するのが一番穏やかだと思うが、どうするんだ? サトル殿」


 どうしようか。

 突如として発覚したバイトの薬物(小麦粉)乱用。しかし彼女は店の貴重な戦力でもある。

 工房の利益。社会的信用。連合会からの期待。自分の工房だけでなく商店街の今後をも左右しかねない一大事。

 経営者たる僕が下すべき決断。それは、


「……従業員の自主性を重んじるため、プライベートの問題に経営者が介入することは避けるべきである。彼女の健康に直ちに影響はないが、可及的速やかに解決案を提示できるよう前向きに検討する」


「んんっ! 清々しいほどの政治的判断! 流石ですサトルさん!」


 アン子が謎の敬礼をした。

 ズンの拘束から解放されたコルネは、軽く伸びをしてから笑顔で喋り始めた。


「私信じておりましたわ。サトル様ならきっとわかってくださるって。だって私はガチョウの卵の一歩手前なんですものね。ふふ、ストロボ気取りのストロベリーにも三時のおやつは微笑むように、それはもう中途半端の猛獣とハンターの煮えくり返ったはらわたですわ。小さな可愛いバンブルビーとかタンブルウィードが押したり引いたり切ったり貼ったり似たり寄ったりうふふふふふふ…………」

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