冥界にて
冥界の入り口で、男がもめていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
真っ白な死装束にベタな三角頭巾を付けた男は、机の上に置かれた書類のある部分を指差して声を荒げた。
「俺、殺人なんて! してませんよ!」
机を挟んで向かい側に座る男――真っ黒スーツにネクタイという、これまたありきたりな喪服に身を包んでいる――が、ハァと一つ、溜め息をついた。
「でもねぇ。この資料によると……君が学校の校舎から飛び降りた時。その下を偶然通りかかった生徒、鹿島恵さんに落ちた君がぶつかって、頭を強打した彼女は君と一緒に即死。よって君は『殺人』で『地獄』行き……」
「そこ! そこですよ!」
白男(死装束を着た男を以下『白男』、喪服を着た男を以下『黒男』とする)は身を乗り出して、いった。
「『殺人』だなんて! 確かに俺のせいでその鹿島さん、って人が死んじゃっただなんて聞いたら悪いことしちゃったなぁ、って思いますけども……」
白男は言葉尻をもごもご曇らせて、目を伏せながらも、「名誉に関わります」と締めた。
「『名誉』、ったってねぇ」
黒男は呆れた様子でいうと、「じゃあ……わかったよ」といって、書類の『殺人』と書かれた部分を二重線で消して、代わりに黒い万年筆で『自殺』と書き込み――
タン、タン。――ドンッ。
大きな丸形ハンコを朱肉に付けて、書類に強く押した。
『地獄』
「ちょ! ちょっと待って!」
白男はまたもや、叫んだ。
「結局……『地獄』ですか」
「そりゃそうだよ!」
黒男は口調をヒートアップさせながら、いった。
「『自殺』にしたって『他殺』にしたって! 故意に人間の命を消しちまう奴なんざロクなヤツじゃないんだよ! 大体君なぁ! 君があんなとこで自殺なんかしなかったら、彼女だって死ななかったわけだぁ! 自殺するのはまぁ確かに個人の自由だが、他人に迷惑をかけるような死に方するんじゃあないよ! ほら、こう……部屋にビニールシートを敷いてだなぁ! 二重に! 四隅を高い位置に留めるんだよ! そんでもって真ん中に寝っ転がって、もう、薬いっぱい飲んで! そうやって死ぬんだよ! したら死体がグズグズに腐ったって、床を汚さないだろうが!」
口角泡を飛ばしながら熱弁する黒男をよそに、冷静な白男は、「イヤ、でもそんなことするんだったら、深い森とか山に行っちゃえばいいんじゃ……」と、口を挟んだ。
「ん。……そういわれてみればそうだな」
黒男は急に冷静になって、七三に分けた髪を正した。
「しかしまぁ、どっちにしろな。五体満足健康なことの幸せや、青い空……無邪気に咲く花の美しさなんかがわからずに死ぬようなヤツはな。『地獄』がお似合いなんだよ」
黒男は書類を白男に差し出して、「ホラ、後がつかえてるんだよ」と、自らの後ろを顔で示して、白男を促した。
そこには、ひたすらに深い黒があった。
深い、深い。底無しの闇。
「……最後に一つ、聞かせてください」
「なんだ?」
「その……鹿島さん、って女の子は……」
黒男は最後にジロリと白男を見て、
「『天国』に行ったよ」
と、ボソリいった。
「そうですか」
白男は少しだけ笑みを浮かべて、暗闇に向かって独り、歩き始めた。
*
「……オイ」
白男がその場から去って、少しして。黒男の後ろに佇んでいた、人の目には見えない冥界の住人――それは『悪魔』や『鬼』、『死神』といった名称でも呼ばれる存在――が、黒男に語りかけた。
「ジブンノコトヲタナニアゲテ、エラソウニイエタコトカ?」
黒男は、下唇を噛んだ。
彼は二年前、過労から心を病み、先に彼自身が述べたやり方で、自殺をした。
そして今は、終わることのない『労働地獄』の真っ最中である。
「……うるせぇ」
黒男は目の前に延々と並び、手続きの順番待ちをしている死者達を見た。
「次!」
*
白男は、真っ直ぐ歩いた。
どこまで行っても光明は見えず、自らの纏う白い死装束ですら、見えなかった。
彼は少し立ち止まって、天を仰ぎ見た。夜空よりも、黒かった。
かつて田舎で見た満天の星空を思い出して、人知れず涙ぐんだ。そして、ハァと一つ、溜め息をついた。