幕間 アリとキリギリス
「しばらく一人にしてくれ。誰もこの家に入れるな」
「しかし、ボス。今日はとても晴れています」
「外に出ろ。何度も言わすな」
「失礼しました」
今の俺はどうかしている。何の理由もなく、部下に当たってしまう。雨の日は毎回の事だが、晴れている日に俺の気分が動揺する事ははじめてだ。
理由は分かっている。黒髪の少女に会ったから。もう二度と黒髪の少女に会う事はないと思っていた。少女は二十歳と言っていたが、本当は十年前のあの生まれてすぐに死んだ赤子ではないか?
体の震えが止まらない。ディランド神、この俺の目の代わりにあの娘を私にお与えになったのか。もう一生見えない目の痛みが、今日はない。
医者には十年の月日が過ぎてまだ痛みがあるのは、俺の精神的な物と言うがきっとそうなんだろう。事実、雨の日が一番痛みがひどい。あの黒髪の少女を私にお与えになったと言う事は、もう一度俺に生きて良いと言う許しなのか。ああ、また感情と言う物を感じる日が来るとは思わなかった。
(ディランド神、俺をお許しになったのか……。)
「リュウーヒ。聞いて。今日は、赤ちゃんが良くお腹で動き回るの。本当にお転婆な子。でも、早く生まれないかな」
俺は薪を割る手を休め、首に掛けている布で汗を拭きながら彼女の方を見た。彼女は昨年までこの娼館の一番だった。彼女は十六歳の時に、自分の意思でこの娼館で働き始めた。彼女の平均よりかなり小さい体で、よく客の相手が出来たと思う。それほど小さい体。
今は、その小さく細い体に似合わないお腹は弾けそうだ。 彼女はスイ国の農家の長女で、下にたくさんの兄弟がいる。稼ぎのほとんどをスイ国の家族に送っている。彼女は明るくいつも笑顔で、すぐに人気が出た。もちろん、俺のような下男にも優しい。俺の事をスイ国の弟と重ねて見ているのかもしれない。
どんなに俺の体の方が大きいとしても、二十歳の彼女にとって俺は十五歳の弟。どんなに俺が彼女に恋心を抱いても、それが酬われる事が無いと知っていた。でも彼女が子供を産んで他の人と結ばれても、俺のこの初恋は忘れる事はないだろう。
「ねえ。いつになったら準男爵、私を迎えに来てくれるのかな」
「子供が生まれる前に来るよ。貴族と言うのは、結婚の準備に忙しいと言うしな」
「うん。そうだね。準男爵は私の事を愛しているって言ったし、結婚の約束をしてくれたし支度金をたくさん館に持って来てくれたもんね。ちょっと、不安になっただけだから。親になる女性ってみんなそうだって言うしね」
昨年から彼女を贔屓にしてくれた準男爵が、彼女に告白して彼女はすぐに男爵との子供を身ごもった。彼女がここを離れるのは寂しいけれど、彼女がまともな生活が出来るのはうれしい。
「赤ちゃんは、きっと女の子だよ。それでね、私と同じ黒髪なの。だって兄弟の中で私だけが黒髪なんだよ。両親や親戚の中にも黒髪の人が誰もいなかったからこの子は、絶対黒髪よ。じゃないと、私が寂しくなるでしょ」
確かに黒色を持つ物は、珍しい。彼女の黒髪がこの館で一番になった一つの理由だ。
「そうだね。おれも、黒髪が好きだから赤ちゃんも黒髪だったら良い」
「うん、そうでしょ。あ、私、これから女将さんの手伝いがあるから行くね。ごめんね。お仕事邪魔しちゃって。じゃあね」
彼女が笑って去る時に、結っていない真っ直ぐな黒髪が光に反射して綺麗だった。
俺はこの館で生を受けた。母はこの娼婦でお客の一人との間で私を身ごもったらしい。母は、美しい人。いつもは避妊薬を飲んでいるのに、どうして俺を身ごもったのか聞いたら、俺の父がとても好きだったらしい。でも一生結ばれる事は無いと知っていたと小さい俺に言った。
唯その人の形見が欲しく、母の我侭で俺を生んだと言ってよく俺を抱き謝る。この娼館で生まれ育った俺を、いつも気に掛ける。俺は一度も不幸に思った事はない。
娼館の娼婦達は、俺の事をとても可愛がってくれる。女将さんは俺の第二の母。俺が七歳の時に風邪をこじらせこの世を去った。母は何度も、俺が母の元に生まれて来てくれて幸せだったと掠れた声で言って死んだ。
「愛している。私の所に生まれて来てくれてありがとう」と、最後の言葉を言って息を吐いた。母は俺のために、多額な資金を残した。母の遺体は共同墓地に行く予定だったけど、女将さんに頼んでその遺産で母に墓地を買った。
俺はその娼館に下男として働いた。読み書きや数は、娼婦の中で出来る人に教えてもらった。なぜか俺は覚える事や計算が早い。十二歳の時には、女将さんの帳簿付けを下男の仕事の傍らで手伝い始める。その頃になると娼婦の中では俺に相手を求める者が出始めた。
はじめは断っていたが、彼女達も寂しいと知り体を合わせることにした。でも黒髪の彼女の事を意識し始めてからは、女性との体の関係を止めた。
「キャー。誰か。医者を呼んで。赤ちゃんが、赤ちゃんが」
女将さんの叫び声が聞こえる。俺は手に持っていた斧を投げ捨てて、女将さんの所に行く。そこには、黒髪の彼女が床にお腹を抑えながら倒れていた。急いで娼館を出て医者の所に走る。何度も行き交う人にぶつかったけど、謝る事もなく娼館通りの唯一の医者の所に行く。幸いな事に、医者は丁度往診から帰って来た所だった。
「じいじ。子供が生まれる。早く。赤ちゃんが……」
この医者とは俺が生まれた時からの知り合いだ。俺もこのじいじに取り上げられた。
「ちょっと待て。落ち着け」
俺はじいじの言葉も聞かずに、じいじを引っ張って娼館に戻る。彼女を診察したじいじが「どちらも危ない」と言う。彼女の出産予定日は、まだ一ヶ月も残っていた。
こうして何も出来ずに、ただ廊下に立っている自分が許せない。ただ、彼女と赤ちゃんの死が刻々と迫っている。そして、俺にはどうする事も出来ない。
「ディランド神、俺の変わりに二人を助けてくれ。この命を、彼女と赤ちゃんの命と交換してくれ。お願いだ」