#8 春日部と冬鏡
「ええっと……それじゃこれは──」
教室の前の方で、学級委員の人と実行員の人達が何やら話し込んでいた。
もうすぐ文化祭ということで、最近学校中が騒がしい。
この学校の文化祭は二日かけて行われ、露店販売とかクラス展とかをやることになっているんだけど……正直なところ気が乗らない。そもそもこのクラスが何をやるのかすら良く分かってないし。
クラスに先生がいないためかほとんどの生徒は友達と話していて、真面目に文化祭の打ち合わせをしているのは本当に数人の生徒だけだった。
実は前の方で菫といちゃいちゃしながらも、一応クラス展の話し合いには参加している。
実とあと数人のクラスメートとしかあんまり話をしたことがない俺は、もう見飽きてつまらない窓から見えるグラウンドを、残りの時間を使って眺めていた。
時々、菫と実のそれに、クラス委員の……木下さんだっけか? が呆れながら注意する声が耳に届く。
木下 穂波──頭は良くて運動神経も抜群で、ザ委員長って感じの女の子。
くせっ毛の髪をセミショートくらいの長さで切っていて、普通に可愛い部類に入ると思う。どっちかっていうと、可愛いというよりも綺麗系だけど。
実の話を聞く限り、ラグナの扱いも結構上手くて飲み込みも早いのだとか。
どうでも良いことに頭を巡らせているとようやくチャイムが鳴り、木下さんの号令でそのまま解散となる。
これで今日の学校も終わり。部活組が急いで部室へと向かっていき、クラスが一気に静かになる。残りは二〇人くらいか。
「……失礼します」
すると、それらと入れ替わるようにして、女子生徒が入ってきた。
声どころかその特有の気配で、教室に入ってくる前から気付いていたんだけど。
「あ、冬鏡さん。何しに来たの?」
そう、渚紗だ。だが、驚くべき早さでさっそうと現れた実が渚紗に話しかける。
そんな実の行動に違和感を覚える。
教室の前の方で楽しそうに話をする二人を鞄に教科書を詰め込みながら見ていると、何やら薄ら寒い視線が実に突き刺さっているのを感じた。
それも、自分のことじゃないのにだ。案の定、その正体は嫉妬の塊である菫。
けれど、その中にどこか嫉妬とは違う感情が含まれているような……?
あっ……。やばい……
前のドアは渚紗達が占拠しているので、後ろからこっそり出ようと思っていたのだが……
一瞬、視線を後ろに向けた渚紗と目があってしまった。
そのまま何も見なかったようにやり過ごして欲しかったのだけど……渚紗はビクンと飛び跳ねるように固まり、その視線を俺に固定してしまった。
「二人とも知り合い?」
その渚紗の反応に気づいた実が、まあ当たり前の様に尋ねてくる。
だけど……渚紗は俺が返事をするよりも早く……
「神谷先輩、私まだ用事があるので行きますね……!」
そう言って実の返事を待たず、あっという間に教室から出て行ってしまい、一人ぽつんと残された実が不思議そうな顔をする。
……。
俺、本格的に嫌われたのかな……?
「ええと……実って、渚紗と知り合いなんだな」
「……うん。冬鏡さんも僕と同じ道場生っていうか、菫の家に居候? してるみたいなんだ。なんか親戚なんだってね……」
「へぇ……」
居候って……
確かに、春日部家と冬鏡家は友好的な間柄ではあるけど……
【二天流】とはラグナと武器術を織り交ぜた流派の総称で、現代日本では最もポピュラーなものだ。
ラグナを織り交ぜる……というの非常に曖昧な言い回しだけど、春日部家はその中でも特に、氷と剣術を組み合わせた【二天氷撃流】という奴の名門。
ちょっと聞いていて痛い名前だけど、古くからある受け継がれてきたものなのだからどうしようもないよね……
それで、その氷の扱う術は、開祖の代から交流のあった冬鏡家から取り入れていることもあって、冬鏡である渚紗が春日部家に泊まっていても確かに不思議ではない。
でも……
それでも、あそこまで才能のある娘を居候させるだろうか……?
もしかしなくても、何か理由があるのかもしれない……
「それとさ、シュウ……」
「……なんだよ」
実が珍しく真剣な顔をしたかと思うと、身を乗り出すように顔を近付けて声を潜めるので、俺も思わず声のトーンを下げてしまう。
「冬鏡さんってさ、凄い強いんだよ」
「まあそうだろうな……」
「多分、菫よりも……。それも剣で……」
実の付け足しに、俺は内心驚く。
確かにこれは声高に言えないなぁ……
剣術は出来るだろうなとは思っていたけれど、まさか菫以上とは……
でもそれなら、さっきの菫の睨み様に納得がいく。そして、最近の菫の頑張り様にも。
剣術に重きを置いている春日部と、氷術に特化した冬鏡。
負けられないのだろう。
冬鏡側であり、そしてなにより、自分より年下の渚紗に。
◇
駅のプラットホームの片隅で、胸ポケットからスマホを取り出し、九桁のパスワードを一気に打ち込んでロックを解除する。そして、メールの受信トレイを漁る。
今はメールに代わる新しいソーシャルメディアが数多存在しているけれど、俺はあんまりそういうのに手を出していないし、あんまり興味もなかった。
まあそれでも、一応アカウントとかは揃えてあるけど……
めぼしいメールを確認したところで、甲高い金属音と共にホームに真っ赤なボディーの電車が入ってくる。
行き先は夏那の入院している病院。
俺の住むマンションは学校から近いのでわざわざ電車に乗る必要はないけど、家から病院までは結構遠かった。
引越して来るときにもう少し調べておけば良かったなと後悔したのは、俺がマンションを買い終えた後だったのだ。
人が出るのを待って中に入る。クリーム色の床に立っている人はまばらで、この車両の座席はほとんど埋まっていた。
車両の奥の方に座って携帯をいじっているよれた黒スーツを着たサラリーマンの横に、空いた席を見つけるとさっさと腰を落ち着ける。
車掌のアナウンスと共に、閉扉を告げる軽やかな電子音がホームに鳴り響く。
……と同時に、閉まりかけていたドアの隙間をすり抜けるようにうちの高校の制服を着た一人の少女が、息を切らしながら駆け込んできた。
正直な話、また……?
という感じで、空いた席を探すその女の子──渚紗を俺は見ていたが、渚紗の方はまだ俺に気付いていないようだった。
かたん、という振動と共に電車が走りだし、渚紗がよろける。
少し走ったところで、次の駅で降りるのか俺の隣のサラリーマンが席を立った。そしてそれと入れ替わるように渚紗がこちらに歩いて来て……
「先輩……」
可愛く睨む小さな女の子の目を見れば、何でここにいるんですか! と言いたいのだろうな、と簡単に想像出来た。
暫く考え込んでいた渚紗は、やがてゆっくりと俺の方に近づいてきて、隣に座った。
結局座るんだ……
細い肩を更に小さくして鞄を膝の上に置く渚紗の頭は、丁度俺の肩くらいの位置で、こうして見ると意外と小さかった。
身長は一五五センチあるかないかくらいかな……?
横目で渚紗を見ていると、電車は次第にその速度を落としていきやがて次の駅へと入った。
半分くらいの乗客が一気に降りていき、そしてその倍以上の人が一斉に流れ込んでくる。急激に人口密度が増え、窮屈な感じがする。
幸い俺達の前には誰も立たなかったが、釣り革に捕まったその周りの乗客達が下卑た目で渚紗を見ていることに気が付いた。
確かにこんな美少女はそうそういるわけがないので、このブタ男どもの気持ちが分からない訳でもないけれど……
渚紗もその視線を感じ取ったのか、ますます小さくなってしまっている。
渚紗は、毎日こんな中を一人で登下校しているのだろうか……?
そう思うと、何故か無性に腹がたった。
仕方ないなぁ……
ラグナを出来るだけ抑えて、俺は周りの奴らの意識に干渉する。
【人体干渉】は、ただ人体を破壊することだけの能力じゃない。その真骨頂は、深層意識にまで影響を及ぼせる所にあり、認識の妨害・誘導から記憶の改竄までもやろうと思えば出来る所にある。
でも、俺自身でさえこの力の限界を把握できていないし、もしそういう新しい事に挑戦しようとすればある禁忌を侵さなければいけない。
つまり──人体実験を。
それと、忘れてはいけないのは、俺が普段扱う【人体干渉】の能力はあの施設で生き抜いていく過程の中で、確実に効率よく、そして安全に同胞を殺すために身に付けたものだという事。
まあそれでも、この車両にいる全ての人間が俺たちを認識出来ないようにすることぐらいは容易いけど。
何しろ、禁忌の力という奴なのだから。
「え……?」
俺の隣で、渚紗が驚きの声をあげる。
まあ無理もない。今まで感じていた気持ち悪い視線が突然消え去ったのだから。
きょろきょろと周りを見回すと、俺を見た。身長の関係でどうしたって渚紗が下から見上げる形になる。
俺は一瞬しかラグナを使わなかったけれど、それでも渚紗はその僅かな機微を感じ取ったはずだ。能力の発動兆候をもっと小さくすることも出来たけれど、今回は渚紗が気づく程度に留めてある。
不可思議な事が起こったのに何も分からないままだと、それを引き起こせる人物の疑いが一層深くなる。
それなら、わざとヒントを出してあげて相手を少しでも納得させてあげれば、自分に対する疑いが少しは軽くなるどころか、相手がこちら側を大した事のないやつだと勝手に思ってくれることさえある。
詐欺師の常套手段だ。
「先輩、ですか……?」
「……秘密だよ」
微かに笑いかけると、渚紗は小さく頷いた。
ちょろい……
俺は目を閉じると、かたんことん、という規則的な心地いい振動に身を任せる。
眠っているわけでもなく、かといって起きているわけでもなく……といった感じの状態。
安らかな眠りとは無縁だったあの施設ではとにかくこれが普通であり、気を抜いて寝首を掻かれた同胞達を何人も俺は知っている。
そんなまどろみの中、あの施設で経験した事がぼんやりと思い出される。
初めて満足に食事が出来た時の事。そのあと後ろから殺されそうなった事。その逆を何度もやった事。
浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返し、かつての記憶が波のように押し寄せていた。
やがて、次の駅を告げるアナウンスによって俺の思考は記憶の渦から引き上げられる。
ここで降りないと……
ゆっくりと目を開ける。
前の座席にはすっかり人がいなくなり、夕焼けに染まる綺麗な空が車窓から見えた。
そして俺の隣には──
夕日を浴びて一層茶色っぽく見える髪を俺の肩に押し付けて、気持ちよさそうに眠る渚紗がいた。
寝言で小さく、「お父さん……」と呟いていた。
リスのように丸まって、本当に可愛い後輩。
ほっぺたをつんつんとかしてみたいけど、それはちょっと怒られそうなのでやめておこうかな……
電車の中で気持ち悪い視線を感じないなんて久しぶり……もしかしたら初めてなのかもしれない。
こうして安心しきった寝顔を見せられると俺もちょっと嬉しくなる。
出来ればこのまま寝かせてあげたいけど……
あれ、でも……?
「渚紗ちゃん、起きて……」
「せん……ぱい……?」
肩を軽く揺らして渚紗を起こす。
夏服だからか、渚紗のその細くて柔らかい肌の感触が手に伝わってきた。
「渚紗ちゃん、次の駅で降りるよね……?」
「ん……。いま、どこ……ですか……?」
さっき通り過ぎた駅名を、渚紗に告げる。
始めは眠そうに目を擦る渚紗だったが、俺の言葉ではっと目を覚ますと、今の自分の状況を理解したのか顔を真っ赤にして俺からばっと離れる。
そして車両の前の方に流れるテロップを見た。
渚紗がもし春日部家に泊まっているのなら、次の駅で降りないといけないはず。ついでに、俺もそこで降りる予定。夏那の病院はその駅から徒歩五分なのだ。
そうこうしている内に電車が減速し始め、やがてホームへと入る。
降りる人も乗る人も、もう少ない。この車両から出て行くのは俺たち二人だけのようだった。
電車から降りた俺たちは改札口を抜け、そして駅を出るまで無言だった。
俯きながら隣を歩く少女は、俺に少し気を許してくれたのだろうか?
花の水やりをした時よりも俺と彼女との間の距離が、心なしか縮まっているような感じがする。
駅の外は薄暗かった。
昼間とは違う涼しい風が付近の林を吹き抜け、静かな空にセミに変わって鈴虫の鳴き声を響かせる。
隣を歩いていた渚紗は、分かれ道で立ち止まった。
「先輩……その……」
最初は俯き顔を隠していた渚紗だったが俺の前に向き直ると、真剣な表情をして俺の目を下から見上げる。
何かを躊躇うようにほんの少し見つめ合った後、いきなり渚紗がちょこんと頭を下げた。
「渚紗ちゃん……?」
そして渚紗は、何も言わずにそのまま駆けていってしまった。
◇
渚紗と別れた後、気を取り直して俺は病院へと向かった。
最上階の、全てが白で統一された真っ直ぐな廊下を抜けた先にある、白亜の扉を静かにスライドさせる。
広々とした病室に脚を踏み入れると、俺はベッドへと近づいた。
「夏那……」
そこに眠るのは、真っ白なワンピースとは対照的な、真っ黒な髪をシーツに泳がせた少女が、微かな寝息すら立てずに静かに眠っていた。
病室はやはり、この前来た時と同じように何も変わっていない。
けれど、それは当たり前の事。
この病室の主である夏那は、眠り続けているのだから。
あの日から、ずっと。
◇
あれは二年前の冬だった。
未来人が放った槍を、夏那は俺を庇うようにその身で受け止め、そして──。
──死んだ。
それに……夏那が死んだのは未来側の地球だった。
あちら側での死とは即ち、未来人達と同じ末路をたどる事と同義だ。
一度心臓が停止した身体が、狂気のラグナをその身に宿し、意思の無い骸人形として再び蘇るのだから。
そして、それら未来人を不死たらしめる所以は、ある程度の負傷なら半永久的に完全再生するという事。
死体という既に限界を迎えた身体には、俺たち生者が受け入れる事の出来ない馬鹿げた量のラグナを無尽蔵に大地から引き出せるのだから、現代では絶対禁忌とされる【超再生】の能力が初期状態で備え付けられているということなる。
あの時、水無 夏那という少女は胸に大きな風穴を空けて確かに死んで、俺の腕の中でエインヘルとなっていった。
優秀なラグナスほど、死んからエインヘルとなる間のラグは短い。
そう、夏那の時はたった三十秒だった……
俺の腕の中で、骸となった夏那に注がれる狂気のラグナ。
ぐちゅぐちゅという生々しい音を立てながら再生されていく、夏那の胸に空いた風穴。
到底安らかに死ぬことなんて叶うはずのない夏那はその後、ただ生者を無差別に攻撃する不死の兵となり、まず最初に俺を襲う筈……だった。
そう、だったのだ。
その時起こった事を、俺は今でも正確に説明することは出来ない。
あの時、死と共に消えたはずの夏那の意識がほんの一瞬だけ現れて、自分の時間を凍結させた。
夏那が使えるはずのない絶対禁忌【時空制御】の力で、狂気のラグナを押さえ込んだのだ。
だからこそ、今俺の目の前には夏那がいる。常識の枠外の存在となっても、夏那は今確かにここにいる。
エインヘルとして蘇った死者の、永遠に失われたはずの自我が戻るという絶対に起こりえない現象。
それがどうして、どうやって起こったのか、俺は今でも分からない。そんな事、俺はその時まで見たことも聞いたことも無かったから。
それでもこれだけは断言出来る。
運命という冷徹で無慈悲な呪縛に負けない、絶対的な意志の力。
それが奇跡を起こさせたんだと。
◇
柔くも、堅くもない。温かくも、冷たくもない。
時間が止まった夏那の身体。
綺麗に整った女神のような顔に、細い手足。ワンピースの上からでも分かる、大きな双丘。
俺の恋焦がれた少女は、あの日から何も変わっていない。
年齢さえも。
「もうすぐ二年だね、夏那……」
もう、夏那と同じ一七歳なんだよ……
細くて真っ白な夏那の右手を握りながら、夏那に語りかける。返事はなくても、それだけで俺はまた頑張れる。
この前来たときの様に夏那の意識が戻る事は、以前に何度かあった。
これは推測だけれど、夏那が【時空制御】で凍結させたのは恐らく、夏那の肉体に宿ったラグナ自体。
そして、その副作用的なものが夏那の身体を半凍結状態にさせているのだろうと俺は考えている。
本当の時間凍結なら身体が氷の様に固くなり、最悪の場合その場から動かせなくなっていてもおかしくはない。
そして、夏那の意識がこの前のように戻ることはありえないのだから。
「夏那、あと少しだよ。あと少しで──」
──君を助けてあげられる。
俺の目的はただそれだけ。そのためには手段は選ばない。
夏那は宿ったラグナを凍結させる事で完全なエインヘル化を防いだが、それでは今の様にずっと眠ったまま。
そんなの、死んでいると一緒じゃないか……
だからこそ俺は、そもそもの元凶である狂気のラグナを封じ込める創造物を作ろうとしている。
必要なものは、膨大なラグナを蓄える事の出来る核晶。
だがそれを有する未来人は本当に稀で、そして例外なく強い。
俺の【人体干渉】をもってしても一度で確実に殺すことが出来ないくらいに。
数ヶ月前にそのレベルの核晶がオークションにかけられたが、その時は日本円にして約一〇億の値がついた。
因みにそれを落札したのは俺だったけど、前にはもっと高額で落札した事もある。
確か二七億だったかな……
俺は二年かけて、そんなレベルの核晶を八個ほど集めた。文字通り死に物狂いで。
最低でももう二個は必要だけど……うまくいけば、あと数ヶ月で素材は揃う。
だから夏那、もう少しだけ待っててね……
椅子から立ち上がると、夏那にシーツをかけてあげる。
絶対的な時間の流れが凍結した、白黒の空間。
けれど、棚に飾られた鮮やかな黄色を宿すひまわりだけが、その時の流れを、俺に感じさせてくれていた。