#7 氷の少女
六月も終盤に差し掛かり、この名古屋は例年通りの猛暑に見舞われていた。
外ではセミが五月蝿いほど鳴いている中、学校では教室に備え付けれられたクーラーが今まさにうんうんと唸りながらフル稼働している。
そんな教室の前の方では、保健・体育という授業の名目で黛がクラスメート達に基本となるラグナについてレクチャーしていた。
ラグナの制御は感覚的に覚えていくのが手っ取り早いが、それでも確かに、最低限の知識とそのメカニズムを理解しているだけでも差が出るはずだ。
大半の生徒は黛のそれに真剣に耳を傾けている。
だが、一部の生徒たちは早くラグナを使いたくてウズウズしているようで、どこか落ち着きがなかった。
全身にラグナが漲っているのは感覚的に分かっているのに、それをどうすればいいのか分からないのだ。
──空腹で死にそうな状態で目の前に最高の料理が並んでいるのに、ただ指を加えて見ている事しか出来ないような状況に似ているか。
そんなずっとお預けされた状態が続いてクラスメートの興奮がいい感じで高まって来た所で、タイミング良く終業のチャイムが鳴った。
はいそれでは、と言った黛の方を、クラスメート全員が見る。
「さて、皆さん。このあとは予定通り春日部さんの道場に行ってもらいますが、くれぐれも粗相の無いようにお願いします。でないと──」
──生きて帰って来れませんよ?
妖艶な笑みを浮かべた黛は生徒達を脅すような一言を残して、さっさと教室を出て行ってしまった。
取り残されたクラスメート達は数秒の間ぽけっとしていたが、勢いよく前の席に座る菫に説明を求める。
「そ、そんな心配しなくても大丈夫よ。ちょっと怖い感じの人はいるけど、そんな事するような人達じゃないから安心してっ!」
慌てた菫を横目で見ながら俺は鞄に教科書類を詰め込むと、静かに席を立った。気配を殺しているので、俺が悠々と黒板の前を通っても誰も気づことは無い。
そもそも、この程度の奴らに気付かれるようなら俺は今ここにいないだろうし。
まあそんな事は置いておくとして……
あの事件から一週間ほど経った今日から、クラスメート達は春日部道場に赴いてラグナの基礎を学ぶことになっていた。
勿論俺は行かない。
けれど、絶対にというわけではなった。
俺を捨てた人間達の現在の姿を見て、今の自分がどれだけ成長したのかを確かめたいという気持ちも少しはある。
でも……
【人体干渉】という反則的な力を使えば一族皆殺しだって本当に一瞬で出来てしまうのだ。やる前から結果が分かりきっているのに、何故そんな無駄な事をする必要がある……?
だから復讐なんてするつもりはない。
まあ、今の所は、だけど。
それでも俺は、もう一度行かなければ行けない。
あの場所へ。
夏那を助けるために。
◇
昇降口から出た俺は、ポプラ並木に足を踏み入れる。
土気色のグラウンドから吹く生暖かい風が、青々と茂ったポプラの葉をかさかさと揺らし、枝の上で羽を休めていた鶯達を大空へと羽ばたかせた。
今日は授業が四限までしかないので少し嬉しいのだけれど、夏の太陽が中天に高々と居座っており、この並木を抜けると一気に暑くなってしまう。
いつもなら涼しいんだけどなあ……
校舎に隣接する大きな体育館と六面もあるテニスコートの端を通り過ぎた所で、少し遠回りになるが日陰が多い小道へと進路を変更した。
今日も夏那の所に行きたいけど……
どうせ寝てるだろうし……
どうしようかと考えていた時、俺の知覚領域にラグナスの存在が引っかかった。
反応は俺の真上。咄嗟に空を仰ぐと……
「きゃぁぁぁあああ!」
空から、女子生徒が降ってきていた。
……えっ! と思った時にはもう体が勝手に動いており、頭から真っ逆さまに落ちてくる女の子を上手い具合に抱きとめる。
腕に伝わって来た衝撃を地面へと流して、出来るだけ優しく受け止めた。
お姫様抱っこみたいになっちゃったけど、それは仕方ないよね……
「……大丈夫?」
尋ねると、腕の中の女の子はゆっくりと目を開けた。最初は焦点が合ってなかった綺麗な茶色の目が、俺の視線と重なって……
「きゃっ……!」
俺の腕を振り払うように跳ね起きて一足飛びで俺から離れると、威圧するように睨みながら、じりじりと後退して行き……
「い、今触りましたよね!」
「へっ……?」
突然のそれになんの事か分からず、俺はただぽけっと女の子を見ていた。
癖の入った茶色の髪を腰のあたりまで伸ばしていて、太陽の光りを受けてきらきらと輝く髪飾りが茶色の毛に隠れるようにしてちょこんと載っていた。
身長はあんまり高くない。
多分、俺の一つ下ぐらい──つまり高校一年生ぐらいだと思う。
そして何というか……可愛い。
線の細い手足に大きな黒い目。まだ少し幼い感が残っているせいか、夏那みたいに綺麗というよりも可愛いという感じが強いけれど、それでも美少女と言ってもいいと思う。
だからだろうか。
この修羅場? っぽい状況にも関わらず、俺は次に発する一言の選択を完全に間違えた。
「触ったって……。えっと……何を……?」
──あ、やばい……
しまった! と思ったときにはもう遅い。その一言で目の前の少女は顔を真っ赤にすると肩をブルブルと震わせ……
「へ、変態!」
その細い人差し指をびしっと俺に突き付けそう叫ぶと、もの凄い勢いで走り去っていった。
その場に取り残された俺は茫然としたままもう一度考える。
俺、変な所触ってなかったよな……? と。
◇
あの女の子と出会った翌日の昼休み、俺は環境委員の集まりで被服室に来ていた。被服室はクーラー完備の教室棟にある数少ない実習室の一つで、主に委員会などの集まりなどで使われる事が多い。
全員来たのを確認した委員長がプリントを配り始め、俺の所にもA4の用紙が回ってきた。前期の花の水やり当番表らしい。
俺は……毎週火曜日の放課後だった。
あれ……?
これって、今日じゃん……
そんな感じでプリントに目を通している間に委員長がなにやら話を始め、その後に先生が話しだす。
「あの、東先輩!」
「ん?」
先生の話がようやく終わって解散になった所で、一人の女子生徒に声をかけられた。
黒髪をポニーテールで纏めた、すごく明るそうな女の子で、先輩、と言われたので多分一年生だ。
胸ポケットにピンで止められたネームプレートには、「秋山 」と書かれているのが見える。それからも分かる通り、この学校は苗字の入った名札を着用しなければいけないのだ。
かくいう俺も、東 なんていうたった一文字だけの寂しい奴を着けてるし。
「どうしたの?」
「今日の当番なんですけど、部活の大会前でどうしても練習に出ないといけなくて……」
「ああ、ペアの子か……。俺一人でも多分大丈夫だから君は練習行っていいよ」
「本当ですか……!? ありがとうございます!」
そう言って勢いよく頭を下げると、一応友達に代わりを頼んでみます、と言って教室に戻って行った。
そろそろ昼休みも終わる頃なので、俺も教室へと戻る。
五時間目は地理だった。
初老の男教師の授業で、滑舌が悪く何を言ってるのかまず聞き取れない。
それに、授業は基本的に、配られたプリントの空白部分を黒板を見て写していくだけの作業なので──俺がそう感じているだけで本当はもっとちょっとだけ授業らしい事をしているけれど──クラスの大半はほぼ全滅に近い。
俺は眠気くらいコントロール出来るから平気だけども。
そんな睡眠授業の最中に、またもや実に肩をつつかれる。
「シュウ、起きてる?」
「……当たり前だよ。で、どうしたの?」
「昨日の事なんだけど……」
「そういば昨日だったな……。で、どうだった?」
先生は耳も遠いので小さい声で話せば大丈夫らしい。少し前に、クラスの馬鹿がどの程度までなら大丈夫なのか? 的な無駄だけど意外と役に立つ検証をしていたので間違いない……と思う。
さて……
実の顔色を見るに、昨日はそこまできつい鍛錬はしてないように思える。ただ、朝から後ろでため息ばかりしているのでちょっと気になってはいたんだけど。
それで、実によれば、昨日は座禅と簡単なラグナ制御の練習しかしていないそうだ。座禅は大地のラグナを感じる鍛錬だ。
まあ最初はそんなものだろう。
ただ、クラスメート達が帰った後、実だけは残って菫と剣術の稽古をしたらしいのだが……
「なんというか凄かったよ……。僕もちょっとは強くなったつもりだったんだけどなあ……。菫が強いのは分かっていたけどちょっとショックでさ……」
「それはそうさ。だってあいつは……」
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。その先を言いたくなかったから。
確かにあいつは天才だ。春日部に捨てられて十年経った今でもどこかでそう思っている自分がいるし、その評価はきっと間違っていない。
十年二十年に一人の逸材と言ってもいいだろう。
でも、天賦の才を持っているとしても、それだけで必ずしも天才と呼んでいいのだろうか……?
正直、今のあいつは……弱い。
自分の持つ才能の上で胡座をかいている限り。
だから俺は認めたくなかった。才能があるから、それだけで強いなんていう事を。
俺は……
この世界にはあいつ以上の天才が数多いる事を知っているから。
そして、平凡な才能でもただひたすらに磨くことで、天才達と互角に渡り合う事が出来ると知っているから。
「……実」
だから俺は言う。
「能力者同士による究極的な戦闘に、才能は関係ないんだよ」
「えっ……?」
「才能なんて必要ない」
もう一度。
「そんなものを羨むぐらいなら、それを埋める事を考えろ。お前はお前であって誰でもないし、誰にもなれない。
大切なのは、今まで積み重ねてきた経験と研ぎ澄まされた勘。そして──
──最強の意志力」
それが、地獄で生きてきた俺の十年間の答え。才能なんて糞喰らえだ。
それじゃなきゃ、俺が、そして何よりも、夏那が報われないから──。
◇
チャイムが鳴り、クラスメート達が一斉に目を覚ます。クラス委員の号令で挨拶をして教師が出て行った途端、教室中が喧騒に包まれた。
今日の授業はこれで終わり。鞄の中に教科書を丁寧にしまっている実が、俺に話しかけた。
「シュウは昨日来なかったけど、もしかして今日行くの?」
「ん? 今から水やりあるし、面倒くさいし行かないよ。実は?」
「僕は大会が近いから今日は行けないんだけど……。でも本当は行きたいんだよね……」
実はちょっと残念そうに顔をしかめた。まあ確かに、春日部の道場に行った方が実にとっては練習になるんだろう。
でも……
実はまだ大丈夫だが、ラグナをもっと意図的に扱えるようになると部活の大会のような公式試合には基本出られなくなるので、それはそれで難しい所ではあるのだけれど。
「おーい、実。行こうぜ!」
「あ、翔也、今行くからちょっと待って!」
そう実に声をかけたのは、クラスメートの青原 翔也。
絶対に染めてるだろって感じの茶髪、そして文句なしのイケメン。さらに身長一八〇センチという高身長で、正直かなりモテる。
この前なんて三股がバレて幼馴染の彼女──他の男子は面白がって正妻とか呼んでいる──にお仕置きされていたにも関わらず、それでも何故かモテる正真正銘のタラシ野郎だ。
人当たりが良くさばさばした性格のためか、女子だけでなく男子からも以外と干されていない珍しいタイプの人間。
因みに部活は実と同じ剣道部。実と仲がいいため俺も普通に会話はする。
「じゃあシュウ、また明日!」
「じゃあね……」
荷物を纏めた実は俺に一言残すと、翔也と一緒に教室を出て行った。
さて、俺も行こうかな……
人が大分少なくなり静かになった教室を後にした俺は、昇降口へと向かう。
外から「いちっ、にっ! いちっ、にっ!」と叫ぶ野球部の掛け声と、この蒸し暑い中せっせと求婚するセミ達の鳴き声が長い廊下に反響していた。
昇降口で外靴に履き替え花壇まで移動すると、重たい鞄を水のかからない場所に立てかけ、熱さで萎れているアサガオやアジサイに水をやる。
早く終わらせてさっさと帰ろうかな。
ああでも、そういば誰かに代わりを頼むって言ってたような……?
その時、背後から足音が聞こえてきた。
どうやら来た……よう……だ?
ってあれ……?
「先輩、遅れてすみませ……」
声をかけられたのと、俺が振り向いたのは同時だった。
「あ……」
その呟きは、果たしてどちらの物だっただろうか。俺か、それとも目の前にいるこの少女か。
そこには、昨日屋上から落ちてきたあの女の子がいた。
手には通学用の鞄を提げ、今日は綺麗な茶色の髪をサイドテールにして白色のシュシュで纏めたその子は、びっくりした様に固まっている。
頭の上では、昨日と同じ綺麗な細工が施された髪飾りが日の光を浴びて輝いていた。
「昨日の子……。もしかして君が代わりの……?」
「あ、はいそうです……じゃなくて、どうしてあなたがここにいるんですか!」
「……何でって言われてもな……」
うーん、どうしようか……と思いながら、小さくふくらんだ胸に付けられた、白色のネームプレートをチラリと見て……
「冬鏡……。東京の名家がどうしてここに……?」
冬鏡家。
名古屋の春日部と並ぶ東京の名家であり、日本屈指の氷の一族。
「私のこと知ってるんですか?」
「いや……。知ってるのは君の家で、君の事は全くしらないよ」
という俺に、その子はぼそっと呟く。
「……昨日、私の体触ったくせに」
「それは関係ないじゃん……。それに君が屋上から落ちてきたんだからそのまま通り過ぎる訳には行かないでしょ……」
そう言うと、可愛らしく睨んで来た。
「まあいいや、取り敢えず水やりしようか」
「……分かりました」
ふんっとそっぽ向いたその子に、水道から新しく伸ばしてきたホースを手渡すと、中断した水やりを再開する。
暫く俺たちは、ただ無言で作業をしていた。ホースから飛び出るシャワーと、それを浴びて次第に元気を取り戻していく花々。葉に乗った水晶のような小さな水滴が、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
右隣には、俺と一定距離を置いて水やりとしている女の子がいた。俺が少し近づくだけでもとことこと逃げてしまい、完全に警戒されている。
何というか、凄い気まずい。
「ねえ……」
「何ですか……」
話しかけないで下さい! って感じ全開の顔で可愛く睨んできた。
「名前教えてくれない? ずっと君って言う訳にもいかないし……」
「……渚紗。冬鏡 渚紗です」
「渚紗ちゃんね、よろしく」
すると、何か気に入らないのかったのか、渚紗というらしい少女は綺麗に整った顔をしかめた。
「どうしたの?」
「どうして名前何です? 苗字で呼べばいいじゃないですか」
「うーん……。俺、苗字で呼ぶの嫌いなんだよね……。特に春日部とか冬鏡とか絶対に嫌だし」
ここでさり気なく春日部の名前を出すと、渚紗は微かに肩を震わせた。どうやらあの名家、冬鏡の人間で間違いないらしい。
渚紗の周りにはラグナの白い輝きが漂っているので、一般人ではない事は確かだったのだが。
能力者は無意識の内にラグナを纏っているため、基本的にそれで判断がつく。
つまり、その無意識を意識的に制御することが気配を殺すという技術であり、俺の十八番と言ってもいい。
無意識を意識的になんてどこのバトルマンガだよっと突っ込まれるかもしれないけど、それが出来なきゃ生きてこれなかった所にいたんだから仕方がないじゃないか。
俺は普段、何となく昔の癖で、ラグナを抑えて生活している。
菫や黛に怪しまれないように若干のラグナは纏っているのだが、それでも並のラグナスでは俺がそうだとは気づかないくらいの量だ。
なのに……
「先輩って、何でそんなにラグナを抑えてるんですか? それともどこか悪いんですか……?」
「…………。昔ちょっとね……」
まさかこんな簡単に気づかれるなんて……と一瞬警戒した俺だったが、どうやら渚紗は純粋に疑問に思っただけのようで、なんか簡単に納得してしまっていた。
ただそれでも、意図的にラグナを抑えてる事を見抜けるあたり、ひょっとしたらこの子は今の菫よりも強いかもしれない。その足取りも注意して見てみると、高校にあがったばかりとは思えないくらい武術者然としている。
そうこうしている内に全ての花壇に水をやり終えた。話をしていてちょっと多めに水をあげてしまった所もあるけれど、まあそれは大丈夫だと思う。
夏だからね……うん。
「よし、終わったね……。手伝ってくれてありがと、渚紗ちゃん」
「友達に頼まれただけですから」
そう言ってまた、ふんっ……とそっぽを向くと、校舎の方へと走って行ってしまった。
「それじゃ、俺も帰ろうかな……」
校舎に立てかけておいた黒の鞄を掴んで、さあ帰ろうかと思った時、視界の端の地面がきらりと光った。
思わず目を細めながらもそれに近づいて行くと……
「スマホ……」
渚紗の、だよな……?
◇
「はあ……」
再び校舎へと戻った俺は、小さなクマのぬいぐるみのストラップの付いた渚紗のスマホを片手に、屋上へと続く中央階段を登っていた。
渚紗がそこで何をやっているのか分からないが、屋上付近で大きなラグナが渦巻いているのだ。
ただこの学校、六階建てにも関わらずエレベーターを使えるのは先生と生徒会役員だけという理不尽な規則に縛られており、七面倒臭い事にこうして階段を登っているのだが、これなら身体強化して外から登っていった方が断然早かったという事に今更ながら気づき、少々後悔していた。
ようやく六階まで辿り着く。屋上へ続く階段へと足をかけた所で、誰でも分かるほど気温が急激に下がった。夏に入ったばかりだからと言っても、ここまで寒いのは絶対におかしい。
それに、クーラーってわけでもないだろう。
それはつまり、この先に渦巻くラグナの影響によるものだということだ。
昨日屋上から落ちたばっかだというのに、あの子は何やっているのだろうか……?
「人払い……」
屋上の入口。鈍色の金属扉の前には、赤い宝石のような核晶が一つ置かれていた。
核晶は無加工であっても高値で取引される代物だ。人払い効果の付いたポピュラーな核晶であっても、その価値は一気に二倍から三倍へと膨れ上がる。
つまり、俺の足元には札束がポンと置かれているということ。
はあ……
「まったく、何考えてるんだか……」
冷え切った扉のノブを回しゆっくりと扉を開いた。
外から白い冷気が一気に押し寄せ、階段を下っていく。気付けば、自分の吐き出した息も真っ白。
静かに、けれど急いで扉を閉めた。
渚紗ちゃん……
その極寒と化した屋上には、一人の少女がいた。俺に背を向け、胸の前で両の手を組んで天に祈るようにじっとしている。
渚紗の周りには、その冷気の源──高密度に圧縮された、スカイブルーのラグナが漂っていた。それは次第に小さな無数の欠片となり、雪のような綺麗な結晶へと変化していく。
ラグナを氷に変化させるのは意外と簡単だ。
けれどそれと同じ仕組みでありながらも、一つ一つがとても小さな雪の結晶を創り出すには、繊細なラグナ制御の技術と集中力、確固たるイメージが求められる。
だが、それだけでは不十分。
これら同じ条件を揃えた上で、そこから更に結晶を小さくし、広範囲に影響を及ぼせるか。
その要となるのが、【適性】という不確定な魔の要素。そして、冬鏡家の血はその適性が普通では考えられないくらい高い事で知られている。
それが氷の一族と呼ばれる所以だ。
俺の目の前に静かに佇む、青い冷気を纏った少女。この年でこれだけの氷の結晶を生み出せるのは、高い適性と類い稀なる才能があってこそ。
この子の才能も技術も菫より上かもしれないし、これなら天才と言われても不思議じゃない。
けれど──。
無駄が多かった。
大量のラグナを大地より汲み上げてもその半分程しか使えていない。それに、ラグナを氷へと変換する流れがどこかぎこちなく感じた。
何か焦っているような……
屋上に渦巻く雪の結晶が、傾き始めた太陽の緋色の光を浴びて虹色の輝きを宿す。吹き抜ける風が冷気をかき混ぜ、オーロラのような雪が軽やかに舞い踊る。
綺麗だった。
息をするのも忘れるくらい。
けれど、その光の舞踏はやがて終わりを迎える。次第に屋上から冷気が去っていき、そこには氷の少女だけが取り残された。
少女は小さなため息と一緒に肩の力を抜くと、茶色の髪を靡かせながら振り向いた。
「──何してるんですか、シュウ先輩……?」
「ちょっと見学。……告白って訳じゃないから安心してね」
そう茶化して言うと、夕焼けの空を背負った少女は、透き通った茶色い瞳で俺を見つめる。
「当たり前じゃないですか。それに私、先輩の事なんて嫌いですから」
「……そうみたいだね。そんな事を堂々と言われるとちょっと傷つくけど……」
「それで、なんの用です……か……あっ……」
俺の右手に握られたスマホに気付いたのか、渚紗は小さく驚く。そんな少女にゆっくりと歩み寄っていくと、その冷え切った小さな手の平に静かに置いた。
「はい。今度は落とさにようにね」
「…………」
そっぽを向いて渚紗は何も言わずにそれを受け取る。渚紗らしいといえば渚紗らしいけど。
素直じゃないなあ、ほんと……。そう思ってしまう。
それでも、何故かこの寂しそうな女の子が心配だった。
「何をそんなに焦っているか分からないけどさ……。もっと丁寧にやってみたらどう……?」
だからだろうか。無意識の内に、そんな言葉が溢れ出ていた。
色々と足りていなかった言葉だったのに、渚紗は肩を震わせる。俺に視線を戻すと、親の仇を見るような目で睨んできた。
「先輩に……何が分かるって言うんですか」
静かに睨んだまま、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
その言葉に込められた想いが俺の肩にのし掛かり、空気が再び冷たくなる。
俺の気のせいか、それとも渚紗か──
分からない。
けど、関係ない。
「俺は渚紗の事、全然知らないけどさ……。もっとゆっくりやらないと、多分だめだよ。
だって渚紗は──」
──本当の天才じゃないんだから。