#16.5 浸食の大地
賑やかな駅前の通りに脚を踏み入れると、食欲を擽る香りが鼻腔を掠めた。
信号待ちの自動車が列を作る道路の両脇の、こちらはこちらで忙しなく脚を動かす人々の行き交う赤レンガの歩道。
部活帰りの学生が群れをなすファストフードの一角を抜け、ゲリラライブの騒音が遠くで聞こえる辺りまで来たところで、渚紗は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「こういう所、苦手?」
「……自分から来たいとは思わないですけど」
左手側を歩く渚紗にそう声を投げかけると、一瞬の間を空けて渚紗が口を開いた。
その表情はやはりどこか疲れを滲ませている所を見るに、普段ならきっとこの時間帯にここにはいないのだろう。
隣を歩く渚紗は、風にふわりと靡く一房の茶色の髪を耳へと掛けながら、その細い身体を僅かにこちらの方へと傾ける。
身長の関係でどうしても見上げるような形になってしまうが、それでも渚紗はその茶色の瞳でこちらをどこか不思議そうに見上げるだけで、言葉を発する事はなかった。
──どうしたの?
俺が口にしようとしたその問いかけは喉元を過ぎて口の中で反響し、けれども確かな言葉となる事は無かった。
代わりに衝いて出てきたのは、微かな舌打ち。
「えっ、先輩?」
渚紗が驚きを滲ませる声を上げたが、けれど渚紗もその後に言葉は続かなかった。
「あっ……」
渚紗も気付いたのだろう。
自分達が今まさに立っているこの大地の、そしてその中を流れるラグナの流れの変化に。
日本では地脈と呼ばれているそれは、簡単に言ってしまえば地球に眠る莫大なラグナの大きな流れだ。勿論それはただ超自然的なものであり、外界には基本的に何の影響も及ぼす事もない。
逆に人間がそれを利用する事もしばしば見られる。尤も、その例外的な事柄を挙げるとすれば、この辺り一帯の地脈が集まるあの春日部の地であったりするわけだが。
「あの、先輩。これ、大丈夫なんですか?」
その流れの型は普遍的であり、そうそう変わるものでもない。
ただそれでも、何らかの大きな力──そう、例えばあの春日部の地を変貌させる程のナニカがあったとすれば、それはほんの一瞬だけ世界のチカラとでも呼ぶべきそれ変えてしまう事だってあるかもしれない。
──その時何が起こるか。それはもう分かりきっている事だ。
「この感じ、結構危ないかも──」
そう言葉を紡ごうとした直後、それは起こった。
「先輩!」
悲鳴にも似た渚紗の叫びと共に大地を流れるその莫大なラグナが爆発し、俺が今見ている世界を激しく掻き混ぜた。
夕闇の押し寄せる空に立ち昇る黄金の光──ラグナ。
高速で放射状に拡散する余波が旋風を巻き起こす。
前方に横たわる駅の、その更に奥の位置からそれは天高く突き抜け、そしてそこを震源として今までに経験した事の無い程の地震がその猛威を振るう。
「きゃぁぁああ!」
その瞬間、この地に脚を付けるあらゆる生き物の絶叫が破壊的な音を創りだした。
窓ガラスは粉砕され、信号機が倒れる。脇を駆け抜けていた車の群れは次々と衝突し、黒煙を巻き上げながら群衆に更なる恐怖を与える。
ビルに取り付けられた電光掲示板が落ち、火花を散らせながら幾人もの人間を下敷きにする。空からはガラスの雨が降り注ぎ、その鋭利な刃は容易く常人の生肌に喰らい付いた。
ふとした拍子に地面から自分の足も離れそうになるが、俺をそこに縫い止めるかのように隣に立っていた渚紗が俺の身体に縋り付いて離さなかった。
けれどもそれは、やがて終わりを迎える。
ほんの十数秒程度であったはずなのに、けれども俺には果てしなく長い時間が経過したかのように思えてならなかった。
久方ぶりに味わった、普段感じている恐怖とは別の種類のそれ。
どれだけ一個人がチカラを付けようとも、世界のチカラの前にはちっぽけなモノでしかないと実感した時間でもあったのだが、それと同時に、そのそもそもの元凶の一端を担っているのが自分であるという認識を叩き付けられた瞬間でもあったのだ。
「……大丈夫、渚紗ちゃん?」
「は、はい。すみません、先輩」
その細く柔らかい身体を押し付けていた渚紗は、頬をほんのりと朱に染めながら身体を離す。
そうして俺と渚紗の二人は、ようやく眼前に広がる惨事に目を向けた。
「酷い……」
夕闇の迫りつつあった繁華街は、恐怖と絶望に満ち足ていた。
飛び交う絶叫に紛れ、幾つもの啜り泣きが聞こえてくる。見渡しただけでも既に事切れた幾つかの死体があり、道路には大きな亀裂が奔っていた。
「先輩、行きましょう」
「え?」
そんな中、渚紗はそう呟くと同時に駆けだす。
──どこに?
そう問いかける間すら無い。
地獄絵図と化した通りをするりするりと駆け抜けていく。茶色の髪が靡く渚紗のその後ろ姿は、まるでその光景から逃げ出すかのような必死さが滲み出ているかのようでもあった。
駅とビルとの隙間を駆け抜け、じめじめとする薄暗い路地を抜ける。そうして辿り着いたのは、過去に何度か脚を運んだ事のある場所。
そこは──。
あの時確かに目に映った黄金の柱の根本。
そして、度々扉が発生するあの場所。
行き止まりの路地のコンクリート壁には、無駄な才能の費やされた見慣れたあのスプレーアート。
周りを亀裂の奔るオフィスビルで囲まれ、地面は隆起したマンホールが。
「渚紗ちゃん、本当に大丈夫?」
「……はい。すみません」
「いいよ、それよりも取り敢えず、ここから離れないと」
「あっ……」
少し前で顔を俯かせる渚紗の声は、明らかにいつもよりも暗かった。
けれど、俺はそんな渚紗の手を取り引っ張る様にして自分の方へと抱き寄せると、驚きの声を上げる渚紗を気にせず、すぐ傍まで来た少女の小さな瞳を覗き込む。
「せ、先輩!」
「ここが危険なのは、分かってるよね?」
「はい。でも──」
再び顔に影を落とす渚紗は、そう言いながら俺の視線から目を逸らす。
俺には全く分からない。渚紗が何にそんなに拘っているのかが。
それでもとにかく、ここか早く抜け出さないと。
そうでないと、ここにいつ開くかも知れない扉に飲み込まれてしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなければ──。
けれど──。
視線を戻した渚紗が、今度は強い意志を以て俺の瞳を見詰める。
互いの息がかかる程の距離で渚紗に無言の圧力をかけるが、それでも渚紗は静かに口を開いた。
「もしもこれが、誰かが起こしたものだとしたら──」
──私達はどうするべきでしょうか?
そうして渚紗の口から発せられたその言葉が俺の頭の中で反芻され、そして──。
確かにその可能性は否定出来ない。けれども、今はそんなバカげた事で言い争っている時間なんてないのだ。
「有り得ない。絶対に」
「でも──」
「行くよ、渚紗」
その言葉に内包される【命令】に、渚紗の身体が一瞬硬直し、そして動き出す。
けれど、もう遅かった。
俺達の足元に広がるのは、何処までも続く深淵。
あちら側へともしかしたら繋がっているかもしれない時空の狭間。
「あぁ……」
自分の決断の遅さにただただ呆れる俺は、それに身を任せるように脱力すると天を仰いだ。
狭苦しそうに覗かせる小さな空。
それは、ほんの数時間前には想像も出来なかった、紅と藍がごちゃ混ぜになった不気味な色を滲ませていた。
次話:詳細は活動報告にて。




