#16 浸食の台地
予定通り零時前に帰還することが出来た俺はそのままベッドに倒れ込むと、泥のように眠った。
起きたのは翌日の午後。
寝ている間にスマホはベッドから落ちてしまっていたようで、着信やらメールやらが次々と送られてくる度に、半ば眠りながらもぞっとしていた。
けれど、よく考えてみるとこのタイミングで連絡してくる者はごく少数。
だから重要な物だけを適当に確認し終えると、残りは放置して二度寝を決め込んだ。
因みに、剛毅からのメールや着信には何の返しもしていない。
一晩寝ても相変わらず疼く左腕はかなり重症のようで、二週間程使い物になりそうにない。
けれどそれと引き換えに響希の命を得たのだから、あの時の判断を後悔するような、たらればの話をしても無意味でしかないのもまた事実だ。
一先ずテープで固定してラグナの体内循環で自己治癒を早めると、シーツに付いた真っ赤な血に諭されて、身体を洗うべく風呂へと駆け込んだ。
午後五時を過ぎた頃。
部屋の窓から見える八月の空は、雲一つ無い茜色に塗り潰されていた。
ソファに身体を投げ出してぼうっと考え事をしながら、ヘッドフォンから流れるジャズのリズムに指を遊ばせていると、不意に着信が入る。
ガラス張りのテーブルの上のスマホが振動し、コップの麦茶を微かに揺らす。
せっかくの余暇を邪魔されたことに小さな苛立ちを覚えながらも、手を伸ばして何とか指先に引っ掻けると画面を操作する。
すると相手は意外にも、二時間程前に一度電話で話した人物であった。
ヘッドフォンを外して首に提げる。
何かあったのだろうか。
僅かな不安を胸に抱きながらソファから身体を起こして深々と腰を沈めるように座り直すと、人差し指で画面をスワイプさせ電話に出る。
「もしもし、シュウ君。何度もすまないね」
心地いいバリトンが鼓膜を震わせた。
慶秋寺 泰水。昨日渚紗と訪れたバーのマスターだ。
──渚紗の事かな。
「やあ、泰水さん。何かあったの?」
「ああいや、大した事ではないんだけどね。昨日君が私の店に置いてった女の子がやっと起きたものだから、迎えに来て欲しくてさ」
やっぱりそうだ。完全に忘れてた。
「……分かった。少ししたら迎えにいくよ」
とは言ったものの、それが果たして正解か。
今の自分がいつも以上に思考力が落ちていると自覚出来るくらい、疲弊しているのだ。
秘宝を宿した肉体へ半ば強引に干渉しのだから当然といえば当然なのかもしれないが、まだまだだと思わずにはいられない。
検証をしようとは思わないので正確な事は言えないが……
秘宝を宿した春日部当主の人体に干渉するならば、体感的にだが恐らく、ヒトで埋めつくされた東京ドーム全体に対して範囲指定型の【人体干渉】が可能だっただろう。
いや、それでもまだ扱うラグナ量はおつりがくるだろうし、精神的な面では天と地ほどの差があるはずだ。
今振り返ってみても、あの時成功したのが嘘みたいに思える程の偉業だと自分でも思う。
ただそれでもあの時だけは──。
──そう。あの時だけは、どうしてか出来るという確信めいた何かが俺の中にあったし、失敗するという運命だったのならば俺はそれに抗っていただけの話だ。
響希は死に、俺がここにいる。
結果が全て。
それだけだ。
「それじゃあ待ってるからね」
「あ、ちょっとまっ……」
正直、家から出たくない。が、流石に放置というのもどうかと思う。
迷っている間に電話を切られた。
「はぁ……」
溜息を一つ。もう一度掛け直すのも面倒くさいけど、迎えに行くのも面倒くさい。
というか、考えるのもメンドクサイ。
もうやばいな、これ。
「仕方ないか……」
身体を動かすだけでも気が紛れる気がして、俺はソファから腰を浮かせた。
窓から差し込む茜色の光は、まだ活気のある名古屋市街を明るく照らしていた。
◇
木枠の扉を押し開けると、綺麗な鈴の音がジャズの流れる店内に響く。
センスの良い調度品が何とも言えないような居心地の良さを醸し出している空間に脚を踏み入れると、奥の方から泰水が顔を覗かせた。
けれども挨拶の代わりか右手を挙げる泰水は、付いて来いと言うかのように直ぐ様背を向けると、再び奥の方へと引っ込んでしまう。
要するに、奥まで来いということなのだろう。
そう察して、改めて店内を見渡しながら歩いていった。
店先にcloseの札が提げてあったので、今日はやはり休業のようだ。
いつもはちらほらと女性客が見える店内はがらんどうで、そんな見慣れない景色に漂う寂寥は、ぽっかり空いた心の隙間に染み渡り追憶の念を掻きたてる。
奥に続く扉を抜けると泰水とその少女の気配がする部屋は直ぐ近くだったようで、俺は苦も無く部屋へと辿り着く。
「先輩」
部屋に響くその綺麗に澄んだ声は酷く懐かしく感じてしまうのは、何故だろうか……
最後に会ってからそう大した時間も経っていないのに。
いや、命を懸けたあの壮絶な夜を超えたからだ。きっと。
そうやって自分を納得させる言葉を勝手に胸の内で反芻させながら、ソファに座る渚紗の姿を確認する。
天井から釣り下がる橙赤の明かりが、茶色の髪を更に深い色合いに引き伸ばしていたが、それでも渚紗の雰囲気にはとても良く合っていた。
温かそうに両手で持つカップからは微かに湯気が漂っていている所を見ると、丁度淹れたばかりなのだろう。
カプチーノかカフェオレか。
どちらにせよ、きっと甘いやつだ。
「コーヒーです。
──ブラックですから」
砂糖かミルクが沢山……なんて思った俺の思考を読んだわけでもあるまいに、渚紗はそんな言葉と共にジト目を向けてくる。
「意外で悪かったですね」
「……なんでそんな怒ってのさ」
「別に」
ツン、とした声音で端的にそう告げる様子が出会った当初の渚紗のような感じて、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「はいはい。それじゃ何か言いたい事は?」
そう尋ねると渚紗は、不機嫌そうな顔を再びこちらに向ける。
「その服、どうしたの? 昨日は制服だったよね?」
「店長さんの娘さんのを貸して貰ったんです。
そんな事よりも、昨日、私の身体に何をしたんですか?」
俺の話題の転換にも惑わされる事無く、渚紗はいきなり確信を衝いてきた。
まあ流石に、あの状況では俺を疑うしかないから仕方がないのだけど。
「取り敢えず、端から聞けば誤解を招きそうな言葉は使わないで欲しいんだけど?」
「事実ですから」
「いやまあ、否定は出来ないけどさ……」
再びジト目を向けて来る渚紗に言葉を濁す。
泰水がいつの間にか部屋からいなくなっていたのが、せめてもの救いか。
あの人に聞かれると色々面倒くさそうだし。
「それで、どうなんですか?」
「……したけど、眠って貰っただけだよ。渚紗ちゃんの身体に何か仕込んだり弄ったりはしてないから、そんな警戒しなくたって……
それにこっちだってあんな簡単に眠っちゃうなんて思って無かったし」
「……そういう問題じゃないと思うんですけど。勿論、説明も何も無いなんて事はないですよね?」
「それはまあ……」
とは言ったものの理由なんて単純だ。
でも、そんな真実を告げる事なんて出来ない。
だからこそ俺は──。
「昨日話したこと、覚えてる?」
「……紅美先輩のお話しですか?」
「いや、そっちじゃないって」
そう言えば紅美の事についても話をしたなと苦笑する。
でも残念ながらそっちじゃない。
「ほら、ガーディアンの仕事に協力してるっていったでしょ?
だからその関係で、ちょっとね……」
「それが私とどう関係が?」
「あれ、知らないの?」
さも驚いたとばかりの声音で渚紗を見返すと、正面に座る少女は可愛らしく首を傾げた。
どうやら本当にここ数日の異変には気が付いてはいないようなので、俺はポケットからスマホを取り出すと、あるページを表示して渚紗の方へと差し出した。
「これは?」
「いいから見て」
いつまでも立っているのも嫌なので、俺はそう言いながら渚紗の正面へと腰を落ち着ける。
渚紗はテーブルに置かれたスマホを手に取ると、白く細い人差し指で画面をスクロールしていく。
画面を見つめる渚紗の表情は次第に険しくなっていき、そしてようやく手に持ったスマホをテーブルへと戻した。
「これは……本当の事ですか?」
「本当だって。それにまあ、こういう記事は最近に始まった事じゃないけど、ここまで大事になってるよって言いたいだけ」
スマホに手を伸ばしながら、渚紗には聞こえる程度に声を潜めて言うと、渚紗は複雑そうな表情でその真偽を見極めるかのように俺の瞳を覗き込んできた。
渚紗に見せたのは、こちら側に出現したゲートの被害状況。誰でも見られるネット記事の一つ。
一週間ほど前から弱い地震は断続的に続いており、今朝方には行方不明者も出始めている──。
そんな単純な情報から始まって、更に詳細様々な事が纏められている。
けれどもここで重要なのは、それらの情報がガーディアンの統制を離れて世間に出回ってしまっているという事実の方なのだ。
勿論この件に関しては俺が春日部に仕掛けたアレが原因であるだろうし、行方不明の方は恐らく突発的に表れてしまったゲートに飲み込まれだけだろう。
別に俺にとっては、ここ周辺に集中的にゲートが出現しているからまあそういう事もあるだろう、程度の認識でしかないが、ガーディアンの人間にっとは最悪の状況の一歩か二歩手前と言った所だろう。
下手したら、五年前と同様に大量の犠牲者が出てしまう恐れがあるのだから。
そんな情報を態々と渚紗に見せたのはつまり──。
「昨日も言ったと思うけど諜報関係の仕事をしてるからさ、色々調べてたらちょっと春日部本宅の方が怪しくてね。何もないならそれに越した事はないんだけど、それでもやっぱり心配だから」
何が、とは言わない。そこに補う言葉は渚紗に任せるだけだ。
「あの、先輩……」
「うん?」
「その、無事……なんですか?」
「……それがね、こっちも昨日は忙しかったからまだ良く分からないんだ。繋がらないの、電話?」
「……はい」
手に持ったカップの中身に視線を落とした渚紗は、不安そうな声音で小さく呟く。
それから暫くの間、どちらも言葉を発しようとはしなかった。
テーブルに頬杖をつくと直ぐ傍の窓から覗える中庭に目を向ける。
昨日の雨はもう既に上がっていて、緑の芝生に点々と見える小さな水溜りが空と同じ綺麗な茜色に染まっていた。
考える時間が必要だった。
渚紗にも。そして俺にも。
これから、どうすればいいだろうか。
いや、しなければならない事はまだ沢山残っている。
でも、それでももう、一番重たかった物は終わったのだ。
これで、後一か月もしない内に夏那は甦る。
そうしてそれからは──。
けれど、そこまで考えた所で渚紗が顔を上げてしまった。
紡いでいた思考の糸は瞬く間に解け、煙のように霞んでいく。
自分の中の時間は動き出し、再び渚紗の時計と時間を共有する。
「私、帰ります。それで、自分の目で確かめます。皆が無事なのか」
「……うん。それが一番じゃないかな」
そう言って席を立つ俺に、渚紗は小さく頷いて見せる。
中庭から響く心地良い虫の音に懐かしさを覚えながら、ドアの方へと足を向けた所で渚紗の方へと一度振り返り、もう一言付け加える。
「駅まで送ってくよ」




