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#14 春日部の秘宝 《前編》

 

 見上げると、八月の空は鋼の色の雲に覆われていた。

 空からは大粒の雨が降り注ぎ、長くて鬱陶しい俺の髪を濡らしている。

  愛用の灰色のパーカーはもうずぶ濡れで、全身にかかるその重さはいつもの二倍にも感じられた。


 髪から溢れる水滴は頬、そして顎をへと伝っていき、排水口から溢れた水に覆われたアスファルトの上に、静かに落ちていく。

 前髪が目に入らないようにと、濡れた指で横へと掻き分けてから、視線を空から山へと落とした。


 春日部家の根城であり、そして春日部がここに根を下ろす以前より霊山として崇められてきた山。

 幾つもの地脈が流れつき、そしてぶつかり合う場所。


「なんだ、これ……」


 それは、俺が壊したはずの結界。

 この地を守護する──否、その荒れ狂うラグナから、()の土地を守るための物。

 俺は、その境界線に手をかざしてみる。

 あの時と同じように。


 ちょうど十年前。

 あれはまだ、俺が小学二年生の夏休みだった。

 土砂降りの雨の中、俺はこの春日部の地から追放され、捨てられた。

 目の前には、それまでずっと帰るべき場所であった家。

 手を伸ばせば届く場所。

 でもそこには、当時の俺ではどうすることも出来なかった、無慈悲なまでの壁があった。

 そう、俺の全てを拒む、絶対の壁が。


 触れた瞬間、目も眩むような閃光と共に稲妻が迸り、まだ綺麗だった俺の手を焼いたのを覚えている。

 それから俺は、何度も繰り返した。

 何度も、何度も。


 どのくらいの時間が経ったのかは分からなかった。

 覚えているのは、まだ小さかった両の手は真っ赤に焼けただれ、もう痛みも感じなくなっていた事。

 そして、俺のその背後には、黒色の一台の車が止まっていた事だけ。


 そうして俺は、地獄に堕ちた。


「大丈夫……」


 思い出したくもない嫌な記憶を心の片隅に押しやると、自分に言い聞かせるように呟く。

 今ここに立つ俺は、あの時とは違う。

 俺を阻む結界は、俺が壊した。

 だというのに……


「ッ──!」


 なのにそれは、俺を阻んだ。伸ばした指先が触れた瞬間、あの時と同じように、眩い閃光と共に俺を焼いた。

 どうして……


「なんで──!」


 二週間前のあの時、俺が仕掛けた紋章陣。

 確かにあれは、俺自身が編み出したものではなかった。けれど、それに刻まれた理を理解し、発動させたのは俺。あの段階において、あれが正常に起動したのは自分自身が一番分かっていた筈だ。


 だったらなら何故──?


 考えられる理由は幾つかある。

 一つは、春日部側がその存在に気付き、あれを完全に目覚めるよりも先に解呪したという可能性。

 つまり俺の目の前に立ちはだかるこの壁は、あの時と同じ絶対の壁。


 でもそれは、まずありえない。


 あれがあんな奴らに見つけられる筈がないし、それに、そもそもそうだとすれば、複数箇所に(ゲート)の同時発生なんていう不可解な状況が生まれないだろう。

 尤も、地球の状態が一変して世界各地で同じような現象が起きているとなれば話は別だが。

 その可能性は極めて小さいし、そんな情報は俺の所に入ってきていない。


 他には、俺自身が、紋章陣の起動者だからという可能性。

 俺の知る限り、そういう事例は過去に幾つか確認されているし、それらの共通点と照らし合わせてみても、やはりこっちの可能性の方が高いだろう。

 ただしその場合、術者が結界に阻まれるというよりも、反発する、という見解が一般的なものだったりする。


 その理屈は未だに解明されてないため、俺には何とも言えない……


 でもよく見ると、目の前に張られたそれは、結界のようでいて、俺の知るそれではなかった。

 あの紋章陣の影響だと考えるのが自然。

 その性質は、確かに変質しているように見える。

 だったら……


「──関係ないよな……」


 瞼を閉じ、ゆっくりと深呼吸。懐かしい空気が俺の中に入り込み、循環する。

 大丈夫だ。身体の痛みは無い。

 これなら行ける。

 だから俺は──。


「奪って、殺す」


 それだけだ。


 俺は、身体に纏わり付く熱に耐えながら、結界の中に足を踏み入れる。

 強烈な熱が肌を焼いて、一瞬、息が詰まる。それでも俺は、歩みを止めない。これぐらい、痛い内に入らない。

 俺はただ、その目的のために、歩を進めた。


 長い階段を登りながら、俺は考える。

 夏那を救うという言葉で塗り固めても、俺の心の奥底は、復讐を望んでいるのかもしれないという事を。


 けれど、そんな汚れ切った欲望は、きっと俺の動きを鈍らせる筈だ。今までに、何度も見てきた。復讐に取り憑かれた、弱者を。

 自分と似た境遇の人間との出会いは、俺にとっては多分必然だったから。


 だからこそ俺は……

 その時が来たら、その時の俺自身が望む形で復讐をすればいい。それまでは、心を偽らなければいけない。


 そんな覚悟を胸の内に刻んだ俺は、骨の芯まで冷え切った身体を動かして一段ずつ階段を登っていく。

 どうやら結界の中に入っていしまえば、もうあれに邪魔される事は無いようだ。


 ただ、この中のラグナの流れは酷く歪で、どこか、未来側の地球のそれに似ている。

 それでも俺の生まれ育った土地のラグナはやはり自身の身体には良く馴染み、全身の感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。

 上の方に降り注いだ雨は階段を勢いよく流れ落ち、まるで川の中を歩いているかのように思える程、その流れは速かった。

 上へと登っていくと、山肌に、光りの粒が浮かんでいるのが目に映る。

 無数の蛍が輝くように見えるそれは……

 この地にたどり着き、行き場を失ったラグナが漏れ出たものなのだろう。

 そのおかげで、電灯も月の光りもない山の中は昼間のように明るかった。

 でも、球の形に成れない中途半端なラグナは、霧のように木々の間を漂って、視界を悪くしていた。


「おーいそこの君。ここまで来てくれて悪いんだけど、ごめんね。今日はもう遅いし、明日にでもまた来てくれないかな?」


 山の中腹。この前俺と菫が戦った屋外稽古場や、門下生の大半が寝泊りする宿舎がある境内。

 階段を登り切ると、寺の境内にも似たそこには十数人の門下生達……


 纏う雰囲気が、下っ端でないと告げている。

 ここの門下生の中でも、それなりに腕の立つ連中なのだろう。

 こんな異常事態だ。まあそれも当然か。


「おいお前、聞こえてんだろ? さっさと帰れや!」


 俺は黙ったまま彼らの姿を観察していると、最初に声を掛けてきたのとは違う者が、遠巻きに声を荒らげた。

 ちゃらちゃらした私服を着た二十代の男が、腰に帯びた真剣に手をかけながら近づいてくる。


「まあまあ、落ち着いて。ほら君も、早く」


 最初の人が手を上下にひらひらさせて青年を宥めようとしながら、俺に優しくそう声をかけてくる。


「……ってあれ? そういえば君、どっかで見たことある気がするんだけど……」


 俺はそんな青年の言葉を無視すると、大地に意識を向ける。

 幾つものラグナの川がぶつかり、嵐のように荒れ狂うラグナの泉。

 そこから、必要な分だけラグナを汲み上げ、特殊なラグナへと精錬する。


【人体干渉】が絶対禁忌とされる理由は、誰でもわかる通り、非人道的な能力だからという点にある。

 でもそれは、使い方次第。

 それに秘められたポテンシャルは他のどんな能力よりも高いと言っても過言ではないのだから、人類はまず、これを自らの制御下に置こうと考えるのは当然と言えよう。

 そして実際、その力を求める理由は何にせよ、過去何万人ものラグナスが【人体干渉】の研究していたのは記録に残っていた。


 これはれっきとした事実。

 けれど果たして、【人体干渉】を己の物とした人間が何人いた事だろう?


【人体干渉】に迫る為の道を見いだせた研究者の数は、それなりのものになる筈だ。

 でもそれを最終的な実用段階までこぎつける事が出来たのは、せいぜい片手で足りるほどだろう。

 つまり、過去には俺と同じように【人体干渉】を極めた者はいるという事。

 少なくとも俺は、そう考えている。


 西洋の魔術などにおける継承によって、【人体干渉】が受け継がれないのは何故か?

 それは、その能力の性質上、恐ろしい回数の人体実験を前提にしているためだ。


 そもそも現代における【人体干渉】という能力は、【精神干渉】という能力の上位互換だと認識されている。

 精神干渉。

 これは相手の精神に干渉する能力全般を指しているのが、厳密にいえばその本質は少し違う。

 干渉する対象は精神という垣根の曖昧なものではなく、もっと人間の意識と直接リンクしていて、尚且つそれを知覚しやすいもの──即ち、ラグナ。


 つまり精神干渉とは、対象となる人間のラグナに干渉し、相手の認識を改変するもの。

 だから、干渉するの対象が本質的には同じであるラグナであるため、技術は必要だがそれほど無理な能力という訳ではない。


 だがその理屈は、【人体干渉】には通用しない。


 これは文字通り、人体へと干渉する能力。

 人類の創造主たる神への冒涜と言ってもいいのかもしれない。

 故に、【精神干渉】におけるラグナへの干渉、という話とは次元が違うのだ。


 一般人であれ、ラグナスであれ、結局人間の身体にはラグナに満たされているのだから、人体に干渉するための最低条件として、その肉体に内包されたラグナの壁を突破する事が必要になってくる。

 この段階において重要なのは、【精神干渉】のようにラグナを支配するのではなく、生命エネルギーと言ってもいいラグナそのものを、破壊しなければならないという事。


 それを正攻法で攻略するなら莫大な量のラグナによるゴリ押しが必要になってくるし、勿論そんなのは人間の許容量を遥かに超えている。

 だから、それ以外の方法を探さなくてはならない。

 そう例えば──。


「別に恨みは無いけど……ごめんね」


 俺は大地からラグナを汲み上げると、それを、()()()()()()()()()()()へと性質を変質させる。

 輝きの失せた灰色。

細かな粒子状の形を取り、それは流砂の如く渦巻いている。けれど、俺以外の人間には見ることの出来ない不可視のラグナ。

 あの施設で生き抜くために、俺達がただ無自覚の内に追い求めてしまったチカラの、一つの形。


 誰にも気づかれず、静かに、そして確実に人を殺す。

 ただそれだけを目的とした、悪魔の力。


 そしてそれこそが、【人体干渉】という絶対禁忌へと至った、俺だけが歩んだ道。

 侵食ラグナは俺の脚元から立ち上り、目の前の青年へと蛇のように巻きついていく。

 まず人間内部を循環するラグナを侵食。

 その盾さえ突破できれば、後は普通の物質・精神干渉とプロセスは同じだ。

 そのメカニズムを理解し、どのような事象を引き起こすかを想像、規定して実行する。

 勿論そこに至るためには、何千回という試行──つまり、人体実験が必須。

 その被検体となったのは、俺と同じ地獄をみた同胞達。


「────ッ!」


 雨に濡れた指を弾く。

 直後、青年の目が見開かれ、何か声を発しようと口を動かそうとして……

 次の瞬間、青年の身体が内側から弾け飛んだ。血飛沫が勢いよく舞い上がり、バラバラになった肉片が辺りに飛び散る。

 境内の地面には、まるでトマトを潰したかのような跡だけが残る。


「お、お前──ッ!」


 果たして、それは誰の叫びだったか……?


 俺は一瞬の猶予も与えずに、境内にいた門下生全員を、殺す。

 人間は脆い。相手が人間という枠組みで存在している以上、俺には抗うことは出来ない。


 血液に干渉し、その流れを全て外へと向ける。

 俺がした事は、ただそれだけった……


「一人逃がした……?」


 静まり返った境内。

 そこには散り散りに吹き飛んだ大量の肉片と、十一の血だまり。

 元々いたのは一二人。

 ラグナ温存のために座標干渉にしたのが裏目に出た……


「まあいいか」


 どうせ、上に逃げたのだろう。例え死んでいなくても脚や腕は潰せたはずだ。そう長く持つようなものでもない。

 ここより更に上に続く階段へと、俺は視線を向ける。

 そこには、滴り落ちた血が、一本の導を示していた。



 ◆



 門下生が寝泊りする宿舎。

 大分古い、けれどしっかりとそこに根付く木造の建物の丁度目の前。

 朝から降り続いていた雨のせいで水溜まりがそこかしこに出来上がった境内に、その少女は、一人で佇んでいた。


 セミロングの綺麗な黒髪を持つ綺麗な少女──木下 穂波は、静かに暗く澱んだ空を見上げている。

 その視線の先には、今も尚降り続く雨を阻む不思議な壁。青みががった透明なそれに無数の雨粒が降り注ぐと、そのひと粒ひと粒が無数の小さな波紋を作り出す。

 その更に奥でこちらを伺うような曇天は既に日が落ちきった空に気味悪く渦巻き、この真っ暗な世界を照らす月を隠してしまっていた。


 ──結界……なのかな?


 心の中でそんな疑問を抱きながらもようやく視線を下ろした穂波が辺りを見渡すと、月のない雨の日だというのに、視界一杯に広がるそこは驚くほど明るかった。

 でもそれはきっと、ここからでも見える、山肌に浮かぶ不思議な光りの玉のせいだ。


 穂波は建物の方に視線を転じる。

 すると、落ち着きなく辺りを走り回る門下生達の姿が映った。


 夏休みに入る少し前から時々ここに足を運んではラグナの特訓をするようになった穂波は、自分が新参者以外の何者でもないという自覚があったし、

 けれどそれでも、ここに寝泊りして己の技術の研鑽に努める彼ら門下生の事くらいなら、穂波だって少しは分かっているつもりだった。

 だからこそ、普段はどこか物々しい雰囲気を持っていても、話して見ると意外と気さくな彼らがここまで慌てた様子は、穂波に少なからぬ不安を感じさせいたのだ。


 ──きっと何かあったんだ……


 不安を押し殺すように胸の前で拳を強く握り締めた穂波の頭の中に、これからどうすればいいのか、という事がよぎる。

 けれどそんな思考は、知り合ってもう四年になる天然の友達によって遮られてしまった。


「ほなみん見っけー」


 そんな声が穂波のすぐ後ろから聞こえたかと思うと、脇の間からにゅっと現れ出た腕が彼女の細い肢体に絡みつく。

 穂波がその拘束から逃れようともがいている間も、後ろから抱きつく莉緒は穂波の雪の様に真っ白な首筋に顔を埋めながら、彼女の慎ましやかな胸をこねくり回していた。


「ちょ、ちょっと莉緒(りお)! こんな所で止めて!」

「えぇー」

「ああ、もう! いい加減に……しなさい!」

「ひゃあ!」


 言う事の聞かない莉緒の腕をようやく振りほどいた穂波は、くるりと振り返りながら、莉緒の頭に乗る髪飾りを避けて手刀を叩き込む。

 莉緒は可愛らしい声を上げると頭を抑えて(うずくま)る。


「ああ、もう。それで、莉緒。どうしたの?」


 自業自得と言わんばかりにそんな莉緒を無視してそう声をかけると、莉緒からは不満の声が上がった。


「うぅーいつもいつも、酷いよ、ほなみん。ほなみんはやっぱり私の事嫌いになっちゃったんだ……

 翔也君といちゃいちゃしだしてから、ほなみんは私に構ってくれないもんね……!」

「ちょっ、何言ってるのよ! 私とあいつは別にそんな事してないから!」

「そんな事って……どんな事?」

「うっ……それは……」

「ふふーん、やっぱりそうなんだ。ほなみんはもう大人の階段を……」

「ねぇ莉緒、いい加減にしないと……」


 穂波はそう言いながら、右手に透明なラグナを集めると、綺麗な指を揃えて持ち上げた。

 今度は本気、という事だ。まだ加減が難しいが、運がよければ……


「ふぇ? ほ、ほなみん、それはダメだってばー! 私死んじゃうよー!」

「大丈夫。莉緒ならきっと……」

「うぅ……ほなみん。私が悪かったから……」


 莉緒は、潤んだ瞳で穂波を見上げる。

 穂波よりも小柄な彼女がそうやってくると、何だか穂波がいじめているように思えてしまう。

 栗色のくせっ毛の下から覗く莉緒の懇願に言葉を詰まらせた穂波は、手に込めたラグナを霧散させると手刀を解いた。

 と、そのまま莉緒の額にデコピン。


「はぅっ……」

「それで、莉緒。どうしたの?」


 今度はおでこを抑え、手の隙間から自分を伺う莉緒に向かって、穂波はもう一度同じ質問をする。


「ほら、早く言いなさい。それとも……」

「分かったから、もうそれ止めてよー」

「はいはい。それじゃ、どうしたの? まさか、ただ抱きついただけって訳じゃないわよね?」

「……そんな事ないよ。その、えっとね……」


 そういう莉緒は、珍しく歯切れが悪かった。


 飯田(いいだ) 莉緒(りお)

 中学校の時からずっと同じクラスの、ちょっと天然が混じっているおっとりした友達。

 やる事はちゃんとやるし、誰とでも仲良くなっていけるその明るさは凄いと思うけれど、なんていうか、とにかく見ていて危なかっしいのが莉緒だった。

 だから何となく放っておけないような気がして、ついついこの無邪気な猫のような莉緒の世話を焼いてしまう。


 そんな付き合い方をしながら四年。

 誰だってそれだけ長く一緒に居れば、相手の考えてる事ぐらい何となく察しはつくようになる。

 今だってそう。

 いつも笑顔を絶やさない莉緒が深刻そうな顔するのは、決まって何か不安がっている時だけ。


「莉緒、大丈夫……?」

「うん、平気。その、あのね……怒らないで聞いて欲しいんだけど。私、さっき……」


 からかっている訳じゃないのは分かってる。莉緒は何か言おうとしている。

 だから穂波は、何も言わずに静かに待った。


「ほなみんが居なくなっちゃう夢、見たの。そこには高橋君に笹岡君もいたし、勿論私もいて……」


 そんな莉緒の言葉は、前に彼女から聞いたことのある話しを思い起こさせた。

 莉緒の両親は二人共医者だと、莉緒自身から聞かされたことがある。

 保育園、小学校とずっと家には莉緒一人。祖父母は莉緒が生まれる前にはもう亡くなっていて、たまの休みに遊びに来てくれた従兄弟は成人してしまって、仕事に追われる毎日だという。

 そしてそれに追い打ちを掛けるかのように、両親の仕事の都合で元々東京にいた莉緒は、名古屋に中学校から引越すことになった。

 まだ慣れない土地で、誰だって緊張する中学生という新しい生活。

 それも、中学受験をする子供はあんまりいないローカルな中学校で。


 そんな莉緒の孤独に誰よりも早く気づいて、話しかけたのが穂波だった。

 そうして四年。

 一緒に遊んで、勉強して……


 だから、普段の明るい莉緒の性格が孤独を恐れた莉緒の裏返しのものだと知っている。

 でも今の莉緒は、そっちの莉緒じゃない。

 寂しがり屋で怖がりな莉緒。

 自分よりも年上なのに、妹のように思えてしまう莉緒の方だ。

 だから……


「……莉緒。私はちゃんとここにいるよ。どこにも行かないから……」

「ほなみん……」


 莉緒の頭にぽんと手を載せると、優しく撫でる。

 寂しそうな声音で穂波の胸に顔を押し付けてくる莉緒は、どこか安心したように身体の力を抜いた。


「ほなみん、そういえばさっきね、ここは危ないから上の方に行きなさいって言われたの」

「……誰に?」

「えっと……ほら。いつも私達に教えてくれる人」

「清水さんね。やっぱり何かあったのかな?」

「……分かんない。でも、行こ?」

「うん、そうね……」


 顔を離した莉緒は下から穂波を覗く。

 微かな笑みを浮かべながら頷くと、二人は歩き出した。



 ◆



 宿舎が建つ山の中層から、来るように言われた山頂まで続く階段を登り切ると、そこには、漆黒の台座によって形作られた儀式殿が、重々しく鎮座していた。

 それなりに広いその空間には、春日部の門下生達が(たむろ)し、その中央には当主である春日部 響希の姿もある。


 穂波と莉緒の二人は周りを見渡すように視線をぐるりと一周させる。

 けれどそこから見えるのは、立ち並ぶ民家から漏れる灯りと、その上に覆い被さるように広がる曇天。

 彼女達の視界を遮る木々達はどこにもない。

 山の先端が切り取られたかのようなこの場所はもう、山の頂と言えるのかすら分からないような開けた空間だった。


 普段外側から見えていた景色も、ただの幻影だったのだろうか……?


 そんな考えが頭をよぎるが、当然答えは出てこない。

 穂波達二人がその場で呆然としていると、二人の方に近づいてくる人影があった。


「清水さん。こんばんは」

「こんばんはー」

「やあ二人とも、こんばんは」


 そう声をかけたのは、ここ春日部道場の師範代、清水 玄。

 身長が高く、おまけにガタイのいい玄。筋骨隆々、とまでは行かなくても漂わせる雰囲気はそんな感じ。

 そんな玄と顔を会わせた当初は二人ともおっかなびっくりだったが、それは仕方がなかったのかも知れない。

 けれどそれから既に数ヵ月。

 その堅苦しい口調に似合わない、でも何故か安心出来るその優しげな笑みのせいか、二人の中では、何でも相談出来る頼れる兄弟子、という位置に落ち着いていた。


 今日は深い藍色の袴のような格好。

 腰には携えるのは、漆黒の鞘に納められた刀。

 いつもの木刀ではない。真刀だ。


 それを見た穂波が、一瞬固まる。

 心の奥底で、言葉では上手く言い表せない何かこうもやもやしたものが生まれる。

 けれど、それを感じ取っていながら、穂波は口には出さない。

 いや、ただ単純に……口に出来なかった。


 法で厳重に縛られ守られてきた現代日本の中で、今まで平和に暮らしてきた二人。

 この数か月の間でやっとこちら側の感覚に慣れ、いくらかは割り切れたつもりでいたとしても……

 やはり穂波の目には、どうしてもそれが異物のようにしか映らなかったのだ。


「あの、これって、どういう状況なんですか?」


 その刀から無理やり意識を引き剥がすように、先ほどまで一番気になっていた疑問を口にする。


「色々複雑なんだが。私が教えられる範囲で君たちにも伝えようとは思っている。だが取り敢えず、付いて来なさい」


 玄のそれに思わず顔を見合わせる穂波と莉緒。けれど既に歩き出した玄の後ろ姿を見ると、無言でその後に続いた。

 連れて来られたのは、階段のある正面側から少し離れた場所。

 そこには、勿論椅子などは無かったが、何故か濡れていない地面に直接腰を下ろす、二人のクラスメートがいた。


 穂波と莉緒と同じく、昨日今日でここに寝泊りしながらラグナの訓練に励んでいた男子二人。

 部活をサボりたいからというどうしようもない理由でこっちに来ている人達だけれど、ラグナの扱いは中々上手いらしい。

 今日の昼頃には身体強化の術も成功させていたようだし。


「飯田に木下か。遅かったな」

「こんばんは、橋本君、笹岡君」


 穂波に声をかけて来たのは、髪を茶色に染めた橋本(はしもと) 一樹(かずき)

 顔が良くてそこそこ運動出来るためか、それなりにモテるような人なのだが、どうも穂波は苦手だった。

 翔也と同じようでいて、こっちはどうにも薄すぎる気がするのだ。

 その隣に座る笹岡(ささおか) 健人(けんと)は、黒いイヤホンを両耳に掛けたままスマホ弄っていた。

 一瞬視線を上げて頭だけの小さな会釈をしただけで、特に何も言ってこない。


 いつも通り無口な健人にも一応挨拶をした穂波は、玄に向き直って先程と同じ質問を口にしようとし……

 直前で、固まった。

 その穂波の視線は、玄の更に向こう側にいる、一人の女性に縫い止められている。


「ね、ねぇほなみん、あの人……」

「う、うん……」


 隣の莉緒も気が付いたのか、若干の震えを含んだ声で呟きながら、穂波の白のカーディガン袖をぎゅっと握り締める。

 そんな穂波と莉緒がその人物へと視線が固定されているのを見かねたのか、二人の方へと体ごと振り返った玄は、口元に苦笑いを浮かべながらその女性の名前を告げた。


「あの方は、春日部 美穂子様。分かるとは思うが、菫様の母君だ」

「やっぱり……」


 思わず穂波の口からそんな言葉がこぼれ出る。

 けれど、それほどまでに似ているのだ。菫と、美穂子と呼ばれるあの女性が。


 はっとするほど混じりけのない純白と、鮮血に染まったかのような真っ赤なコントラストが目に焼きつく、ゆったりとした巫女装束。

 その上からでも分かる艶やかな肢体が、周りに立つ門下生達の視線を集めている。

 細い背中は艶のある流麗な長い黒髪に覆い隠され、腰の辺りで綺麗な装飾の施された紅の帯で纏められていた。


「美穂子様が持っておられるあの御刀は、日本最古の降霊刀。

 銘は【霜憑(しもつき)】と言ってね。

 門下の者から話ぐらいは聞いたことはあるとは思うが、あれこそが春日部の家宝とされる刀だ」


 菫の母──美穂子の、雪のように白く細い手に握られる、降霊刀【霜憑(しもつき)】。

 銀世界を背景に雪を模したかのような点と曲線が描かれる鞘と、雪結晶のような鍔。

 アクアマリンのような透明な蒼の宝石が柄の部分には幾つも散りばめられ、それは刀全体を纏め上げ、そして持ち手の美しさを更に引立たせているかの様だった。


霜憑(しもつき)……」

「そう。銘の由来は諸説あって、師範代とは言っても一門下生でしか私にはどうにも分からない事だが……

 ただこれだけは言えるだろう。

 あれを持った春日部当主に純粋な白兵戦で対抗できる者は、少なくとも今の日本には存在しないと」

「…………」


 そう豪語する玄に向かって思わず穂波と莉緒は揃って顔を傾けるが、言葉から想像したような誇らしげな表情は見当たらない。

 光の失せた渇いた瞳は、それをただただ見つめるだけ。

 そこにあるのは、絶望的なまでのの畏怖、そして諦念。


 それだけで穂波は理解させられた。

 玄のその言葉が、決して身内贔屓から出た薄っぺらな虚勢ではないと。


 そんな表情をする玄を初めて見た穂波は、改めて降霊刀【霜憑(しもつき)】を注意深く観察してみるが、テレビやネットでも見たことがない程に綺麗な刀、そんな風にしか見えなかった。


「そんなに凄いんですか?」


 そこに、穂波と同じような印象を抱いたのか、穂波の服の袖を握りしめたままの莉緒が玄へと言葉を投げかける。

 ほんの僅かな間の後に、玄は言葉を紡いだ。


「……ああ。以前に何度か同じ場所で戦った事があるが、それだけでも十分だった」

「そう、ですか……」


 その時の玄の表情が、あまりにも哀しそうだったからだろうか?

 返す莉緒は、一瞬言葉を詰まらせた。


 そうして沈黙が訪れる。

 周りの門下生達は、中央にいる春日部当主──菫の父、響とその伴侶にして菫の母──美穂子に気を使っているのか、声を潜め合いながら短い言葉を交わしている。

 漆黒の儀式殿は何かをまつっているのか、台座とは対照的な銀色に輝く細長い杭が円状に突き刺さり、それらの先を結びつける光の糸が陣を描くように垂れている。


 けれど穂波の脳裏には今さっき見た玄の表情が焼き付いて、そんな光景にも心が受け付けなかった。

 そんな時、隣の莉緒が、再び穂波の袖をちょんちょんと引っ張る。

 目だけをそちらに向けた穂波は、莉緒の言葉を待つ。


「ほなみんは──」


 直後。

 入口付近にいた門下生達が騒めき立った。

 そうしてそれは一瞬にして伝播していき、莉緒が紡ごうとしたその言葉が、大きくなった喧騒に飲み込まる。


 ──何?


 莉緒の言葉が気になりながらも、穂波はその喧騒が最初に起きた場所、つまり、穂波達がつい先程登ってきたばかりの階段の方へと視線を転がす。

 そこは穂波の視線を邪魔するように、門下生達が茫然と立っていた……

 しかし、その空いた隙間からは丁度それ(・・)が見えた。


「うそ……」

「え……?」


 寸前で声をかみ殺す事に成功した穂波の絶句と、その光景に思考が追い付かない莉緒の呆けた声が、綺麗に重なった。

 二人の視線の先には──。

 無機質な灰色の地面に広がる、真っ赤な血。その上に転がった、胸元に大穴を開けた女の人。

 さっきあの階段の前で短い挨拶を交わして。

 玄よりも頻繁に稽古を付けてくれて。

 来月結婚すると言って幸せそうな笑顔を向けてくれた、泣きぼくろがとても似合う、あの人。


「な、んで……」


 一瞬にし口の中がカラカラに渇き切り、そんな短い言葉すら、上手く紡げない。

 隣の莉緒がいつの間にか痛いほど強く抱き付いてきていて、その小さな顔を穂波の胸元に埋めている。

 穂波も、小刻みに震える莉緒を強く抱きしめる。


 一度、ぎゅっと目を瞑り、開く。そして、もう一度見る。

 けれどそこには、変わらずその姿はある。


 ずぶ濡れの灰色のパーカーから水が滴り、地面の赤い池に落ちていく。

 そのほっそりとした身体に輝きの失せた灰色が纏わりつき、流砂のように渦巻いている。

 真っ黒な前髪の隙間から覗く無機質な瞳に漂うのは、何処までも続く深い深い闇。


 春日部の直系にも関わらず、才能が無い、ただそれだけで唯一無二の家族から見捨てられた、クラスメートにして、菫の異母姉弟。


(あずま)君──」


 喧騒の鳴りやまぬ空間に、その掠れた声は消えていった。


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