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#13.5 大地の鼓動 《後編》

 午後四時。

 緊急事態の発生と共に、黛は一気に忙しくなった。

 そういう訳で、酔いが覚めたかのように大人しくなった黛からようやく開放された俺は、保険準備室を後にして昇降口へと向かう。

 朝から降り続いている雨のせいか、廊下の床は妙にグリップが良い。

 これからの予定について思考を割いていると、いつのまにか下駄箱に到着していた。


 スニーカーを取り出して、代わりに上靴を放り込む。

 ブレザーの胸ポケットに着いたネームプレートを取り外すと、それも裏にして靴の横に静かに置いた。


 今俺が手に持っているこの靴、全体的に黒で纏められたスニーカーだけど、どちらかと言えばランニングシューズに近い感じで結構走りやすいものだったりする。


 確か五万ぐらいだったか……

 登下校中での不測の事態に備えて機能性を追求した、オーダーメイド品。

 だから勿論普通の靴よりも高かったはずなのだけど、金銭感覚が大分壊れているので正確には覚えていない。

 普通の学生では考えられないくらい、と言うよりも総額で見れば世界の富裕層を相手取っても負けないくらいの金を稼いでるため、金銭感覚がちょっとどころか大分壊れていると自覚症状があるのだ。

 まあでも、今更そんなこと言ったって治すつもりはさらさらないのだけど。


 靴紐はいつも緩めてあるので、特に縛り直す事もせずに履いてしまう。

 視界端に映る傘立てにポツンと残る群青色の傘。

 それを若干無意識的の内に手に取った俺は、そのまま数歩歩いて昇降口のガラス扉に手をかけた。


 この面倒くさそうな雨のせいで気乗りしない身体に力を入れると、俺と外とを遮っていたガラス扉はささやかな抵抗の後、ゆっくりと開いていった。

 静かな校舎へと生ぬるい風が入り込み、前髪を揺らす。

 視界の上に黒髪がちらちらと横切って、微妙に鬱陶しい。


 そろそろ切った方がいいかもしれない……


 春日部邸へと乗り込むのは今日の夜と予定しているので、それまでまだ時間がある。

 今からなら、髪を切りに行くくらいの余裕は十分あるはずだ。


 ポプラ並木に遮られて、勢いの弱まった雨粒。

 正面のグラウンドは大量の雨水で溢れかえり、それは旧校舎の方まで続く小さな川の流れを作り出している。

 屋根のある広々とした昇降口で脚を止めた俺は、そんな雨の日の景色を眺めながら今からの予定に思考を巡らそうとした。


「どうしようかな……」


 無意識の内にそう呟いていた俺は、何となく視線を横にずらすと。

 そこには、昇降口の支柱に背を預けながら真夏の雨をぼおっと眺める、一人の少女の姿が目に映った。


 両手で提げた黒の鞄を膝の上で揺らす、一つ年下の可愛い後輩。

 今にも散ってしまいそうなほど儚く、どこか悲しげな横顔を覗かせる少女。

 今日は茶色の長い髪を腰のあたりまで降ろして、白のリボンで結んでいる。

 そしてその耳元には、いつも通りあの綺麗な髪飾りが留まっていた。


 そのまま通り過ぎてしまうのは、俺にはどうしても出来なかった。

 その切なそうに佇む渚紗の姿が、あの時の夏那と重なってしまったから。


「渚紗ちゃん……」


 小さく声をかけると、渚紗がゆっくりと俺の方に顔を向けた。

 けれどその瞬間、どうしてか虚ろなその大きな茶色の瞳から小さな雫が溢れる。

 朝露のように輝く小さなそれは、雪のように白い頬に一筋の跡を刻んだ。


「シュウ……先輩……?」


 ささやきにも似た渚紗の掠れた声が、俺の耳に届く。


「どうしたの?」

「い、いえ……なんでもないです。ごめんなさい……」


 制服の袖でごしごしと涙を拭く渚紗は、その言葉と共に俺に背を向けた。

 渚紗の無防備な背中を覆う、長い茶色の髪。

 艶のある綺麗なそれから漂う微かなラベンダーの香りが鼻腔をくすぐり、それが目の前の少女の事を妙に意識させてくる。


「渚紗ちゃん、大丈夫?」

「……はい。もう、大丈夫……です……」


 くるりと振り向く渚紗。

 潤んだ瞳はまだ少し赤いように思えたけれど、それでもさっきまでとは違いそこには生気が戻っているようだった。

 何か良くわからないけど、見なかった事にするのが正解かもしれない。


 人の闇に深く関わり過ぎると、逆に自分の身を滅ぼしかねない。

 冬鏡 渚紗という人間なら、それはなおさら。

 それにそもそも、俺の方にだってそんな余裕なんてないのだから。


「誰か待ってるの……?」


 一先ず落ち着いた渚紗に何もなかった様に尋ねてみるが、渚紗はなんとも歯切れ悪い返答と共にその目線を俺から外してしまう。

 渚紗のその横顔は何かを迷っているようにも見えたし、これ以上俺と話をしたくないと暗に告げている様にも、俺には見えた。

 気まずい沈黙はまだ続いた。

 そうして暫く待っていた俺は、この沈黙の意味を、やはり後者が正解だったという結論で完結させる。

 それならば、と渚紗に背を向けようとしたのと、渚紗が言葉を紡いだのは同時だった。



「その……この前の事で先輩に謝りたいと思って……」

「謝る……?」


 ……いや、少し、ほんの少しだけ、渚紗の方が早かった。


 なぜなら渚紗の言葉を受けた俺の身体が、自身の命令を受け付ける事を拒んだから。

 そしてその代わりに俺の口は、渚紗の紡いだ言葉を繰り返した。


 謝る、というのは俺の何に対してだろうか……?


「私が先輩を無理に誘ったばっかりに……」


 誘う、という言葉が俺の脳内で反芻され、その意味を咀嚼する。

 そして──。


「ああ、そういう事……」


 なるほど。

 つまり、二週間前の春日部で起こった事を、全部自分のせいだと思っているのか。

 いや、でもそれは……


「そっか……。でも別に、渚紗ちゃんが気にする事はないよ」

「でも私は……」


 やはり渚紗は負い目を感じているのか、俺の言葉を受け入れようとはしてくれない。

 どうしようか。

 このまま放置するわけにもいかないし、かと言って無理やり納得させるわけにも……

 俺は頭の片隅であの日の記憶を再生、解析して、言葉を選びながら渚紗へと語りかける。


「確かに、俺があそこに行くと決心したきっかけは、渚紗ちゃんの言葉もあったよ。というよりも、原因はそれだろうね」

「うぅ……っ」

「でもね、そこに色んな理由を付けて最終的に春日部へと行ったのは俺自身の意思だし、菫との勝負に負けて、挙げ句の果てに怪我したのは全部俺が甘かったからだよ。

 だからそれはもう完全に俺の責任であって、そこに、渚紗ちゃんの意思はこれっぽっちも介在してない事は当たり前でしょ?

 だから……渚紗ちゃんは全然悪くない。

 あれは俺の意思で、渚紗ちゃんのせいじゃないだから……」


 自分でも驚く程すらすらと、渚紗を諭すための言葉が口から出てきていた。

 あの日の事で、渚紗が気に病む必要は絶対にないと俺は思っているのは事実だ。

 けれどそれは俺の心に基づく考え方であって、渚紗から見れば、俺のエゴは酷く奇妙な物に映ったかもしれない。


 そこら辺、普通の環境で育っていない俺には良く分からないけど……

 でも俺だって、今回だけは譲れない。


 なぜなら、渚紗があの日あんな言葉をかけてくれたのも、その結果俺が再び春日部の地に足を向けたのも全て──。

 そう、その全ての原因は、元を辿れば俺がまだ春日部(かすかべ) (シュウ) という名前だった頃から始まっているから。

 そして最後に、この俺の手によって春日部が滅ぶという流れが、今現在で既に確定してしまっているから。


 故に、その最後に至るまでの過程において起こった事のほぼ全ては、俺の責任で帰結してしまう。

 だから、渚紗は何も悪くないのだ。


「そんな訳ないじゃないですか……。だって先輩は……」


 目の前の少女はその眼に涙を浮かべながら、苦しそうに言葉を紡ぐ。


「シュウ先輩は……優しいから……」 

「俺が、優しい……?」

「……そうです。だからそうやって、私を気遣って……」

「……確かに、俺は渚紗ちゃんに色々甘かったかもしれないけど……

 それは結局、なんていうか、俺の自己満足? 的な物でしかないと思うんだ……」


 それに俺という存在が、世間一般の基準から見れば優しいなんていう枠には絶対に当て嵌まららないと、自分でさえ自覚している。

そもそも【人体干渉】という能力(チカラ)を手に入れてしまった時点で、俺はもうそんな場所には帰れないのだ。


「でも……」

「……いい、渚紗ちゃん? それこそ渚紗ちゃんの思い込みだよ。別に俺は優しくなんてないよ」

「でも、私は……!」


 目元に涙を一杯に浮かべた渚紗は一歩踏み出すと、その綺麗な顔を俺のすぐ近くまで近づける。

 そして恐い程真剣な瞳で下から見つめて来た。


 言葉と共に吐き出した渚紗の息が、俺に吸い込まれる。

 俺の息が、渚紗の前髪を揺らす。

 それでも渚紗は、瞬きすらせずに俺の内側を覗こうとしていた。


「……渚紗ちゃん、場所変えよう。続きはもう少し落ち着いてからの方がいい」


 根負けした俺は、詰め寄って来る渚紗から離れるように一歩下がると、ため息を零しながらそう提案した。

 このままじゃ本当に埒が空かない。


「……分かりました」


 渚紗は暗い顔のまま、こくりと頷く。

 それを確認してポプラ並木の更に奥の方に眼を向けてみると、さっきよりも雨が強くなっているような気がした。

 渚紗も中々頑固そうだし、これじゃあ結局……

 この鬱陶しい髪とも、まだ少しだけ付き合う事になりそうだった。



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