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#11 春日部の地 《後編》

「誰か、こいつに刀を貸してあげなさい」


 俺と対峙する菫は、俺から顔を逸らさずに言った。

 菫の周りに控える門下生達の群れに一瞬、小波が走る。しかし、彼らは互いに顔を見合わせるだけで誰も動こうとはしなかった。

 けれどそれは仕方がないのかもしれない。

 木刀と言っても、彼らが握っている獲物は今現在自分の命を守る大切な道具であり、それは即ち自分の分身でもあると言うこと。

 故にいくらあの菫が貸すように命令したとしても、こんな出来損ないで見ず知らずの人間に対してそこまでお人好しになれる訳もないだろう。

 それに、この中にそんな者がいるとも思えなかった。

 けれど……

 膠着した状態が続く中、俺のそんな予想は、直ぐ様不正解の道を辿った。


「シュウ君」


 俺の名を呼んだのは、菫のすぐ後ろにいた体格の良い男だった。

 年齢は多分四十代前半で、短く切り揃えられた黒の髪は所々白く染まっている。

 剣道の袴のような服に身を包んだ男は、厳ついながらもどこか優しい表情をその顔に浮かべながら、菫の脇を通り過ぎて俺の前まで進み出た。


「使ってくれ」


 男は俺へと木刀の柄の部分を差し出してきた。

 その声音は、今まで忘れようとしてきた、ここでの記憶が詰まった泉の表面をふるわす。

 そうして俺は、その泉に映しだされたいくつもの記憶の欠片の中から、今目の前に立っている男の姿を見つけだした。


(げん)さん……?」

「久しぶりだな、シュウ君。元気そうで何よりだ」


 清水(しみず) げん

 俺がまだ春日部にいて周りから蔑みの視線を向けられていた頃、俺の努力を認め、励ましてくれたくれた数少ない大人の一人だった。


 でもまさか、まだここにいるなんて……


 玄は、当時でさえ門下生の中でも相当の実力を持っていたのだ。

 とっくに春日部を離れていると思っていたんだけど……

 昔、本当に色々とお世話になった人だ。出来ればまた今度、ちゃんと話をしてお礼を言いたい。

 でも今は……


「ありがとうございます。お借りします」

「……頑張りなさい」


 俺が感謝の言葉と共に玄から木刀を受け取ると、彼はそう言葉を残して先ほど居た所まで戻る。そして玄が周りの門下生に短い言葉を投げかけると、彼らは俺と菫の周囲から遠ざかっていった。

 本当に、玄には頭が上がらない。でも今は、そんな感傷に浸っている余裕はない。

 なんたってあの菫と戦うのだから。

 でもきっと、玄はそこまで考えた上で、ただ頑張れと言う言葉だけを残してくれたんだろう。

 だからこそ、俺は今目の前の事に集中出来る。余計な事を考えずに済む。


「ここでやる……?」

「ええ、わざわざあっちまで行く必要はないわ」

「そっか……」


 俺は玄から借りた木刀に視線を落とすと、右手で柄を握ってその感触と確かめながら、その木刀の重みを感じ取る。

 懐かしい重みを腕に感じながら二、三度軽く振ると、空気を断つ気持ちの良い音が耳に届いた。

 剣を持つのは久しぶりだ。

 夏那がまだ元気だった時に、ちょっと反則的な能力を巧みに使って剣を振るう彼女の相手をしていたくらいだったので、少なくとも二年は剣を振っていない。


 大丈夫だろうか……?


 そんな不安がよぎるが、今更考えてももう遅い。

 やると言ったのだから、やるしかないだろう。

 それに、何の作戦も、勝算もなしで菫に挑んだ訳ではない。


 まず俺が菫に劣っている点は、世の不条理と言っていい程の才能の差と、菫がそれを礎として築き上げた剣術の練度。

 だから俺と菫の間には、俺が今から一生涯をかけても追いつく事の出来ない差がある。

 でもそれは、純粋な剣術のみ場合。

 俺にだって、菫よりも勝っている物は幾つもあるのだ。


 一つは、身体強化の練度。要は、大地から汲み上げたラグナで肉体を強化する際、どれだけ無駄なくそれを実行し続けられるか。

 そしてもう一つは、いくつもの死線をくぐり抜けることによって裏打ちされた勘と、戦いを有利に進めるための相手の思考誘導の技術。

 それに奥の手として、【幻影創造】の能力もある。

 ここまで来れば、あとは気持ち、即ち意志力の差で勝負は決まる。


「──始めましょう」


 そう言って菫は、大地からラグナを汲み上げて全身に漲らせると、両手で持つ木刀を中段に構えた。

 俺もそれにならう。

 ラグナを全身に循環させると、左脚を半歩前に出して腰を軽く落とす。

 そして、身体の正面を右斜めへと向ける半身の形を取ると、刀を菫に向けて構えた。


 菫は精神統一をするかのようにその瞳を閉じて、ラグナを体内で練り上げながら空気を大きく吸い込んで、息を止めた。

 菫の周りを覆う透明だった光りが、次第に綺麗な青色を帯びて行く。

 そしてそれは菫の握る木刀を渦巻きながら包み込んだ。

 菫が眼を開く。

 青色のベール越しに俺を見つめる瞳には、普段俺を見下している時に浮かぶ蔑みの光りはなく、それはさながら、感情を一切押し殺した冷徹で無機質な色を帯びた、宝石のようにどこまでも深く綺麗な漆黒だった。

 菫のポニーテールが、微かに揺れる。

 直後。


 ──来る……!


「ハッ──!」


 空気を震わす掛け声と共に、菫が地を蹴った。

 硬い大地に蜘蛛の巣状に亀裂が奔る。

 雷のような速さで接近する菫に対し、俺はそれに合わせて全力で後ろに飛んだ。

 菫は俺の胴体を両断するように横薙ぎに刀を払う。

 青く光る刀が迫るが、菫とほとんど同じ速度で後退する俺は、刀を傾けてその力の向きを逸らしながら弾いた。

 その刹那、弾かれても尚その速度を維持したままだった刀は、稲妻の如き切り返しで直ぐ様俺の首筋を狙いに来る。


「ヤッ──!」


 菫の掛け声。

 青く輝く太刀筋。

 今度も同じように弾く。

 次もまた弾く。

 そしてその次も。


 場所が狭くとも俺は上手く菫の横へと回り込み、常人には視認すら出来ない速さで振るわれる刀のその全てを受け流していく。

 圧倒的に菫の技量が上だというのにも関わらず、俺にはまだ余裕があった。

 それは、まだ菫が様子見で本気を出していないというのもあるが、やはり一番の原因は、俺の方が身体強化の技術が数段上だからだろう。

 速さというのは、戦闘において最大の強みであり、白兵戦においては技量以上に重要な要素なのだ。

 だけど……

 それ以上に、俺の身体の調子が良かった。羽が生えたように、と言ってもいいくらいに身体が軽い。


 これなら──行ける!


 何回目かも分からない打ち合い。

 再び菫の刀を弾く。

 直後、ほんの一瞬、菫の身体の軸がブレ(・・)た。


 ──ここだ!


「ッ──!」


 気合を迸らせながら、菫のそれに匹敵する速度の打突を繰り出す。

 その刹那、俺が打ち出した刀に、今まで氷のように冷静だった菫の顔に驚愕が浮かび上がる。

 けれどそれは当然。

 俺は刀の弾く際、菫が刀を切り返す時に人間の構造上どうしても無理が生じる方向へと意図的に誘導していた。だから、いくら菫が剣術の天才で、いくら人間離れした動きをしたとしても、そこには必ず無理が生じる。

 つまり、身体に溜まった負荷によって一瞬だけ身体の自由が効かなくなるのだ。

 勿論、世の中にはこれが通用しない、文字通り人間をやめているような動きをする天才もいる。

 でも、まだ菫はそのレベルまで達しているはずがない。


 だからこそ、俺はこの時を待っていた。

 菫が見せた、そうなるように仕向けた者以外は到底隙だとは思えない僅かな隙に、俺は反撃する。

 脚にラグナを集め、更に大地にラグナを押し戻すことで起きる反発力も利用して一気に加速する。

 この程度、菫なら容易く迎撃出来るだろう。

 でも、菫の身体は動かない。

 動かせない。

 そう、菫がまだ人間である限り──。


「このっ……舐めるな! 出来損ないの癖に!」


 なのに……

 菫の溝内を完全に捕えたと思ったが、真下から跳ね上がってきた菫の刀に刀を弾かれ、重心をずらされる。


 ──嘘だろ!


 菫に弾かれ軌道が微妙に逸らされた刀は、菫の鎖骨の上を掠め、白の袴を切り裂いた。

 俺の予想よりもコンマ数秒速く硬直から立ち直り、自由を取り戻した菫。

 それに対し、完全に狙いを外された無防備な俺。


 ──これはまずい……!


 再び刀を斬り返す菫をすれ違い様に視界の端で捕えた俺は、半ば勘に任せて反射的に身体を無理やり動かすと、地に着いていた左脚にありたっけの力を込めて横に飛んだ。

 そして次の瞬間、僅かに遅れて振り下ろされた菫の刀が、さっきまで俺の首があった空間を切り裂く。

 上段から下段へと完全に振り抜かれた刀は、空中に青色のラインを刻みながら土が混じった空気を風に変えた。


「ぎりぎりって……。危ねぇ……」


 巻き起こされた風と共に宙を飛んだ俺は、右足で踏ん張って砂塵を巻き上げながら地面を滑って体勢を立て直すと、油断せずに菫を見据えながら呟く。

 首筋に、冷汗が伝うのが分かった。


「意外だわ、シュウ。正直ね、あなたがここまで動けるなんて思ってなかったの……」


 地面すれすれの所でぴたりと静止した木刀を菫は持ち上げると、本当に感心したような顔をしながらそう口にした。


「それはどうも。まあ俺だって色々あったからね……」


 菫が不意打ちを仕掛けて来るとも思えないが、いつものように警戒し、いつでも動ける身体の状態を保つ。


「前から気になってたんだけど……」


 けれど一方で、菫は右手に握った刀をだらりと下げながら、そう前置きをして俺をどこか不思議そうに見ながら……


「あなた、あれから何処に行っていたの……? 」


 と、口にした。

 木刀を握る右手に、自然と力が入る。感情の昂ぶりに応じて、体内を循環するラグナの鼓動も加速していく。


 何処に、か……


 あの父親が菫に余計な事を言うはずがないのは、分かっていた。

 予想はしていた事だ。

 だから別に、もしそう言われても大丈夫だと思っていたのに。

 菫が何も知らないと分かっていても、

 やっぱり、目の前でそう言われると結構キツイかった。


 何処に居たのかって……?

 そうだね、強いて言うなら──


「──地獄、かな」

「そう……」


 それを聞いた菫は、俺の言葉に込められた苦しみに気づく様子もなく、相槌を打つかのようにただ呟いただけ。

 なぜなら、菫の中では、俺の発した地獄という単語は、菫が経験した地獄と同義に変換されただけなのだから。

 でも……

 俺が経験したのは、地獄なんて言う言葉じゃ到底言い表せない世界だった。


 あの世界を誰が理解出来るだろう?

 誰が想像出来るだろう?


 朝から晩まで身体を弄くり回され、その間中ずっと意識を繋ぎ止められ、腕や脚がちぎれ、自分の内臓が腹から飛び出す様を見せられ続ける地獄を。

 いや、あの地獄を理解してもらおうとする、俺の方が間違っているのかもしれない。

 ……かもじゃない。きっとそうなのだ。

 だから……

 あの時の痛みが、あの時の苦しみが分かるのは──。

 同じ時を過ごし、同じ経験をし、そして最後まで生き残った、今この時間の中で生きている、たった四人の同胞達だけなのだ。


「まあでもそんな事、今はどうでもいいわね。続き、やりましょ」

「そう、だね……」


 自分で言い出しておきながら、興味を失えばどうでもいいと言う言葉で全てを終わらせる。

 そのあり方は、本当に菫らしい。

 昔の俺は、そんな菫を憎み、時には憧れもした。

 でも確かに今は、菫の言う通りだ。

 俺の昔話なんて、どうでもいい。


「手加減はしないわ」

「……当たり前だ」


 真っ白な剣道着に身を包んだ菫は、その線の細い身体に練り上げたありったけのラグナを漲らせると、青白く輝く木刀を両手で握り正中線でぴたりと構え、隙を伺うような真剣な目で相対する俺を睨んだ。

 その瞬間、目の前の光景が、あの時の記憶と、そして俺が唯一見る事の出来るあの夢の景色と重なる。

 どくん、と心臓の鼓動が加速する。


「勝負よ、シュウ!」


 叫ぶ菫は、大きく息を吐き出しながら全身の力を抜く。

大地から汲み上げたラグナを身体に充足させた菫は、どこにも気負う様子はない。

 それに応じて、俺も刀を構える。


 そして──。

 そこから決着までは、一瞬だった。

 その菫の初動は、誰でも知覚出来るほどに遅かった。


 けれど──。

 直後、菫の身体が霧のように霞む。

 そして次の瞬間、俺の目の前には光り輝く刀を振りかざした菫が現れていた。

 そのあまりの速さに、俺の反応が僅かに遅れる。

 それでも俺は先程のように逃げるのではなく、咄嗟に刀で菫のそれを相殺しようと試みる。


 俺だって、ただ呆然と何度もあの夢を見たわけではないのだ。

 もうあの時とは違うのだから。

 俺の鎖骨あたりを狙っていた菫の刀は、俺の刀に真正面から防がれる。


 でも、ここまではあの時の同じ。

 勝負は、ここから……

 予想していた通り、刀と刀が接触した瞬間にそれは消え、次の瞬間、俺のガラ空きの左横腹へと迫っていた。


 でも、まだ追いつく……!


 その連撃を見越していた俺は次の一撃を阻止すべく刀を動かそうとした。

 けれど……


「なッ──!」


 実態のない、冷たく鋭利な刃のような何かが、全く予想していなかった方向から俺の右の横腹を貫いた。

 そしてその直後、菫の刀は俺が防御しようとした位置にありはせず、いつの間にかその冷気の刃に追従するように切り返されていた菫のそれは、俺のがら空きの脇腹を完璧に捕らえていた。


 途方もない衝撃に襲われた俺はバランスを失い、為すすべもなく吹き飛ばされると、頭や頬を固く無機質な地面に擦り付けながら地面をごろごろと転がった。


 玄から借り受けた木刀は俺の手から離れ、空中で回転しながらどこかへと飛んでいく。

 べきべき、と聴き慣れた嫌な音を体内に響かせながらあばらが砕けるのが分かる。


 ──何が起きた?


 そんなとうに答えの出ている疑問も頭の片隅に押しやると、身体がこれ以上無理だと悲鳴をあげるのを無視して両脚に力を込め、そして地面に五指を突き立てその勢いを殺す。


「ごほっごほっ……」


 咳き込むだけでも痛む身体の両手両膝を地へ付き、肩で息をする。

 額から滴り落ちる汗と地面に食い込んだ指先から流れ出る血が、無様に這いつくばった俺の視界に一杯に広がる乾いた地面に、汚く濁った泥水を作り出していた。


「もう終わり……?」


 再び静寂に包まれた稽古場に、嘲るような、けれどどこか物足りなさを感じさせる声が響いた。


 これで、終わり……?

 そんなわけ──ないだろ!


 けれど、俺のその心の叫びは声になることは無かった。

 ラグナで防御したはずだというのに今の菫の一撃が相当効いていたのか、昔、生腕に真っ赤に熱せられた鉄鏝を押し付けられた時と同じような激痛が奔り、それと同時に、突然胃の底から灼熱の如きマグマがせり上がって来た。

 それは喉元まで出かけていた言葉を飲み込み、溶かす。

 そして口内に広がってきたそれを、俺は消し炭すら残っていない言葉の代わり地面へと吐き出した。


 びちゃり、という気持ちの悪い音と共にドス黒い赤に染まった血液が飛沫を上げながら飛び散り、泥の大地に広がり血の池を作る。


 後ろから、息を呑む音が聞こえた。

 こんな光景を見慣れていない、クラスメート達だろう。

 それが皮切りとなったのか、俺と菫を囲んでいた人間達が思い出したかのように騒ぎ出す。

 しかし、何故かそれも長くは続きはしなかった。


 けれどそれは、この場に来るはずのない新たな来訪者が姿を現したという証。

 直後。


「──無様だな」


 深みのあるしゃがれた声が、這いつくばった俺の耳へと届く。

 それは玄の時と動揺に俺の記憶の泉を震し──いや、泉の水を竜巻の如く巻き上げ、記憶の欠片を宙にばら撒く。

 そして無数に散った欠片は鋭利に尖った記憶を映す鏡となって心に突き刺さり、俺の脳裏にある男の姿を鮮明に思い出させた。


 俺は重たい首を持ち上げ、そこに佇む、あの頃──そう、十年前と何も変わっていない男の姿を見た。


 春日部 響希(ひびき)

 それがこの春日部の地を治める二一代目当主の、そして、ここ数百年の中で唯一春日部の秘技を体得し、これからの歴史に名を深く刻み込んだ男の名。


 ゆったりとした濃紺の着物を身に纏い、遥か高みから余裕を持って見下ろす響希。

 その完成した肉体の中に内包されたラグナは抑え込まれる事なく外へと放射され、誰の目から見ても相当な実力者だと分かる程の雰囲気を醸し出していた。


 たった今俺を負かした菫なんて目じゃないくらいに……


 故に、戦闘能力というその点に於いてのみ、腐っても歴代の春日部当主の中でも指折りの存在だと俺は認めざるを得ない。

 正直、こんな奴と正々堂々真正面から絶対に戦いたくない。


 というか、無理なのだ。

 才能も何も授からず世界にすら見捨てられた俺が、こんな不条理な世界に愛された人間達と正面から渡り合おうとすることなんて。


 それは分かっていた事だ。諦めていた事だ。

 だからこそ俺は【人体干渉】なんて言う、本来覆すことの出来ない真理を、この世界のルールそのものを壊し、無かった事にする絶対的な禁忌の力を欲した。


 なのに。

 だというのに、俺はあの時の菫の言葉に──。


 ──勝負。


 その菫の一言に、俺は狂わされたのだ。

 この戦いが始まる直前に菫が発したその言葉は、その一瞬で何度も頭の中で反芻された。

 そしてそれに込めれらた意味を理解した瞬間、俺の心にそれは種子となって深々と突き刺さり、そして芽吹いた。


 あんな地獄を経験し、そして生き残った俺にとって限りなく無縁だと思っていた、けれど生まれてしまったある感情──それは言うなれば、ちっぽけでつまらない、あっても何の得にもならない物だと心底思っていた、意地というものだったに違いない。


 なぜそんな物が……?


 そんなの、考えるまでもない。

 菫が俺に対しそう言ったのは、これが初めてだったから。


 そう、だから──。


 あの菫にやっと俺という存在を認められたような気がして、今思えばどうかしてると自分でも思うのに、だけどあの時だけは、ただどうしようもなく嬉しかったのだ。


 だから俺は、菫との勝負に小細工無しで挑んでしまった。

 そこらに転がる石ころ以下の才能しかない、磨いてもただ磨く布が汚くなってしまうような才能しか持たないこんな俺が。


 そんなの、無謀だと分かりきっていたのに……


 正直、もし俺がただ勝ちだけに拘っていたのなら、まだ勝算はあっただろう。

 勿論【人体干渉】の能力を使うつもりは無かったが、【幻影創造】だけでも十分菫の隙を作り、そこを突いて反撃する事は出来たはずだ。


 でも……

 人権も、ましてや人間の尊厳すらも無かったあの場所に捨てて、もう二度と戻って来ることはないと思っていたものが、まさか茨の足枷となって、今こうして俺を大地に縛り付けるなんて……


「くそっ……」


 菫と響希のゴミを見るような視線と、門下生やクラスメートから向けられる嘲笑の笑み。

 そんな中で俺が感じていたのは、怒りでも、悲しみでも、ましてや後悔でもなく……


 自分に対する、呆れ。

 ただそれだけだった。


「もう、止めよう。俺の負け……」

「そう言うとこも、昔と変わったのね……。随分と諦めが早くなったじゃない」


 掠れた声で紡いだ敗北の言葉に、菫はどこか呆れたように頭を振った。


 そういう所……?

 変わった……?


 昔の俺は菫に憧れ嫉妬しながらも、あいつの前では決して弱い部分を見せようとはしなかった……

 それを思えば、確かに今の俺は随分と諦めが早いだろう。

 でもそれは、不思議と冷静な思考で自分を観察する事で自身の限界を把握し、そのお陰で菫の才能を素直に認める事が出来ていたから。


 それに……

 俺は、ここに来た本来の目的をようやく思い出したからだった。


 今ここで、すぐ目の前で余裕そうに立つ響希の中から春日部の秘宝を抜き取って、その絶望に歪んだ表情を味わいながらじわじわと殺してやりたいという衝動が無いと言ったら嘘になる。


 でも、今はまだその時じゃない。

 だから今俺がやらなければいけない事は……


 俺は再び地面に目を落とすと、そこに広がる血溜まりに意識を向けた。

 そして、誰にも気づかれないようにその血にラグナを流し込み、地面に小さな陣を描いていく。


 想像し、創造するのは、血によって生み出される狂気と破壊。

 俺が経験し蓄えた想像を絶する感情を糧にする、三百年も昔に生きたある男がある目的のためだけに生み出した、全てを無に帰す紋章陣。


 そうして出来上がった手の平よりも小さなそれは、この春日部を破壊する地雷となって地面へとゆっくりと染み込んでいき、俺が起動するその時まで眠りに着いた。


「ああくそっ、あばらが何本か逝ってるな……」

「ふん、よくそれだけで済んだわね……」

「勘っていうのは、お前だけの特権じゃないんだよ……」


 そんな軽口を叩きながら俺はよろよろと立ち上がる。

 そして、菫と響希に背を向けると、痛みを我慢しながら普段通りの足取りでゆっくりと歩き出した。

 遥か下まで続く階段へと脚をかけた所で、何故か後ろから渚紗の声が聞こえた気がする。


 でも俺は、振り向かない。

 そんな気分じゃないし、そんな余裕もない。



 ◇



 この春日部の地は、強力な結界で守られている。

 その守りは恐らく、何十発のミサイルすら容易く防ぐ程。

 だが、その結界の強度に達するまでの過程には少しばかり興味深い歴史があった。


 俺は知っての通り春日部の秘宝を探している。

 だからそれについての情報を集めて歴史を遡っていく内に、俺はこの結界の秘密に辿り着いてしまったのだ。

 その秘密こそ、春日部直系の人間の血をこの地に刻む事で発動する、血の紋章陣。


 そこまで来れば、後は簡単だ。

 幸か不幸か、俺にはその血が流れているのだから。


 当初は勿論こんな所まで来るつもりは無かったので、それに気付いた時は保険にと思って覚えた物だったんだけど……


 そのお陰で心配事が少し減ったんだから、結果としては上出来だろう。

 それにしても、こんな要塞みたいな場所を一瞬でただの山へと貶める陣の仕込みは、ホントに素晴らしいとしか言いようがない。


 まあでも、何百年の月日をかけて春日部を守り、栄えさせてきた御先祖様には少し悪いことをしたとは思う……



 でも、これで俺の目的は達成され、あなたの望みが叶うんだから……

 なあ、満足だろう……?


 十七代目当主、春日部 時雨(しぐれ)──?



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