#9 文化祭 《前編》
どぉん……! どぉん……!
太陽の光りが気持ちよく差し込む廊下を、何をするともなく手持ち無沙汰でぶらぶらと歩いていると、そんな大きな爆発音が遥か空の彼方から轟き、中庭が見える俺のすぐ隣にある窓ガラスを震わせた。
「始まったね」
隣を歩く実が立ち止まって俺の前に回り込むと、大きな窓から空を見上げるようにして言った。
その顔はどこか楽しそうで、いつもはおしゃれに無頓着な実も今日に限って言えば、整髪剤でちゃんと髪を整えていた。
まあ多分、菫になんか言われたんだろうけど。
空を仰ごうと前屈みになった実から、整髪剤の甘いブドウの香りがうっすらと漂って来て、俺は一瞬顔をしかめた。
文化祭。
通常は閉鎖的な学校を一般に公開して、生徒は露店やライブ、劇とか色々やってその場の雰囲気とノリで楽しむ良くわからない学校行事。
そんな下らないモノのために二週間三週間も前から授業を潰して準備をする意味が分からない。
その本番が今日。
ああ、全く……
なんで俺忘れてたんだろ……?
三連休の後に急遽仕事が入ってしまい三日ほど国内にいなかったのが原因。
幻の六連休とかになっていて、完全に頭から文化祭の事が抜け落ちていたのだ。
仕方がないとはいえ、どうしてもう一日だけ休まなかったんだろうと思わずにはいられない。
「シュウ、どうしたの?
いつも以上に元気がないけどように見えるけど……」
憂鬱な気分が顔に出ていたのか、実が心配そうに声をかけてきた。
「いや……何でもないよ。
それよりも、その言い方だと俺はいつも元気がないって事……?」
「うーん、そういうんじゃなくて……なんて言うのかな……
元気ないっていうよりも、やる気がない……?」
「……うん、そっちの方が失礼だと思うよ」
なんて軽口を叩きながら、教室棟でやってる展示とかその他諸々を冷やかし程度に見て回り、小一時間くらい時間を潰す。
実は剣道部の演舞があるらしいのだけど、それまで微妙に時間があるのでこうして一緒に回っていた。
ちょうどオープニングセレモニーをやってる最中もあって、今の時間帯は俺達がいるフロアの人度通りはそこまで多くなかった。
冷やかしも一段落し、そろそろいい時間になってきた頃だった。
「あ……。こんにちは、神楽木さん」
「こんにちは……。お久しぶりですね、神谷さん」
二階から一階へと続く中央階段を降りたところで、歩いてくる一人の女子生徒と出会った。
赤みがかった艶のある長い黒髪を、赤のリボンでハーフアップで纏めた少女。
容姿端麗、頭脳明晰、そしてお嬢様のように淑やかな雰囲気。
一つ一つの所作にさり気ない気品があって、挨拶の時に綺麗な細い手を前に重ねて丁寧にお辞儀するなんて、この学校では今じゃこの人くらいの、正真正銘の優等生だ。
この学校にはそれなりに可愛い子は沢山いるけど、そういうお話をする時決まって最初に上がる名前こそ、今俺達の前で優しげに微笑んでいる美少女、神楽木 紅美。
俺達と同じ二年生だ。
いつもはどことなくキツめな印象のある紅美が本当に時々見せるその無邪気な笑顔は確かに可愛く、多くの男子生徒と一部の女子生徒にはそれはもう絶大な影響力があるほど。
「あら、ちょうど良かった……
神谷さん、あなたの隣にいるその人を少しお借りしたいのだけど、いいかしら?」
「シュウを……?」
紅美は感情など全くない反則級の笑顔を振りまきながら実に言う。
話しかけられた当の実はまあ当たり前のように照れると、それを隠すように紅美から顔を背けて俺の方へと視線を向けた。
「か、神楽木さん、僕は用事があるから気にしなくていいから。それじゃあ、シュウもまたお昼に……!」
時計を確認した実は焦ったようにそう言うと、剣道部の部室がある方へと逃げるように走っていった。
時間はまだ大丈夫なんだから、どうみても面倒事に巻き込まれるのを避けたようにしか見えなかったけど。
まあ紅美と一緒にいるところを菫に見られたりなんかしたら、半殺しじゃ済まなさそうなのでそこら辺は大目にみてあげないとね……
それに、その美貌と気品さ故にか紅美にはどこか近寄りがたい雰囲気があるので、仕方がないのかもしれない。
でもまあ、この女の本性を知ってる俺からすれば、どこがお嬢様だと言ってやりたいけど。
「大分避けられてるんだな、神楽木は」
「そうかもしれないわね……。でも別にいいのよ、このくらい」
「そっか……」
「……ほら、いくわよ。ここじゃ話せないでしょう……?」
「俺に選択権は……」
「あるわけないでしょ……?」
ほら……
二人だけになると、直ぐこんな感じになる。
この女、自分の容姿がどれほどかを理解していながらも、わざとそこらに居る男子生徒に見せれば卒倒しそうな程の笑顔を俺に向けて、そんな理不尽な事を言うのだ。
俺から見れば、それは悪魔の笑みにしか見なかったが。
まあ確かに、可愛いのは認めるけども。
「ああ、はいはい……。分かったから案内よろしくお願いしますよ……」
投げやりな感じで返す俺に紅美はもう一度微笑むと、くるりと身体を反対側に向けて着いてこい言わんばかりにさっき来た道を歩きだした。
方向は旧校舎のある方。
このお嬢様は本当に何を考えているのか……
「はあ……」
無言で前を歩く紅美の細い身体を覆う、緩くウェーブの入った綺麗な髪をぼんやりと眺める。
そこには、俺でも目を凝らさなければ分からないほど微かに、でも確かに、ラグナの残滓が漂っていた。
◇
いかにも旧校舎ですといった風情の、木造の建物内を二人の生徒が歩いていた。
赤みがかった黒髪を靡かせながら前を歩くのは紅美、そして重い足取りでその後を付いて行くのが俺。
所々にある黒い染みや板が剥がれて下地がむき出しの床板は、紅美が一歩踏み出す度にギシギシという僅かな音を立て、それが彼女の神経を一層逆撫でているかのように紅美の足を速めていた。
魔術師とは、主にヨーロッパ圏で使われている能力者と同じ意味の言葉。
俺や渚紗が使うような能力とは若干発動プロセスが異なる者に使われる名称で、それに対する明確な区分けは存在していない。
ただし、西欧の由緒ある一部の名家とかになると、断固として魔術師という名称に固執する事もあるが。
そして俺の記憶が確かなら……紅美の姓──神楽木は日本では珍しい魔術師の一族で、公式には既に滅んだ、否、過去に深い確執のあった家に滅ぼされた家だった。
それでもその子孫が俺の目の前に歩いているのは事実。
俺は紅美のことをあんまり知らないし、調べようとも思った事はないけれど、以前に彼女自身が、ある目的のために俺と同じような仕事をして金を稼いでいるのだと、話してくれた事があった。
正直に言うと、紅美とはあんまり関わりたくない。だって、この女といると碌でもない事に巻き込まれてしまうから。
それでも……
紅美からはどことなく俺と似たような雰囲気が漂っていて、何故だか無碍に扱う事は出来ないでいた。
だからあんな態度を取られても、不思議と嫌な気はしなかった。
まあそんな事はおいておくとして……
わざわざこんな所まで連れてくるって事は、何か重要な話があるんだろうけど……
そんな事を考えながら黙って紅美の後を付いていくと、彼女はようやく歩みを止めて、左手側の相当古そうな木製の扉に細い手をかけた。
俺はいつもの癖で扉の向こう側の気配を探り、誰もいない事を確認する──
って、あれ……?
「あ、神楽木……」
「何……?」
紅美は扉に手をかけたまま、訝しそうに俺の方へと振り返る。
「いや、そこは止めといた方がいいかも……」
「意味が分からないんだけど……。別にどこだっていいでしょ」
紅美はそう言って俺をひと睨みした後、荒々しく引き戸を開け放った。
直後……
「うわ……!」「きゃっ、何……?!」
と、教室から男女の悲鳴。
そして、俺の制止を振り切ってその状況を作り出した本人は、扉に手をかけたまま顔を真っ赤にして呆然としている。
けれどその直後、紅美は当然くるりと進行方向を変えると、床を荒々しく踏み鳴らしながら行ってしまった。
全く、だからやめろって言ったのに……
俺はさっきまで紅美がいた所まで歩いていくと、教室の中を覗き込んだ。
緑の黒板に、木の椅子と机が無造作に散らかっていて、図書館のような埃っぽい匂いに男のあれの生臭いのが混じった、なんとも言えない悪臭が教室に溜まっていた。
そして、俺から見て教室のちょうど反対側の角。
机に手を付いてお尻を突き出した女子生徒と、それに腰を突き立てている男子生徒。
二人共息も絶え絶え耐えといった感じで、けれど今の今までの行為の熱も冷めたのか真っ青な顔で俺の方を見ていた。
今のこの状況、一言で表すなら……人間の交尾。
どう取り繕おうとしたって、これはもう言い逃れが出来ないレベル。
まあでも本人達にも悪いので、そこから先は見ていない事にしようか。
「お前らも運がないよな、ホント……」
誰だか分からないけど、俺はそんな言葉を投げかけながら【人体干渉】で意識を刈り取ると、その教室を後にした。
今のを見た紅美は動揺しているのか、気配を探ると、今まで上手く制御されていた紅美の気配は相当乱れていて、彼女のいるだろう場所は簡単に掴むことが出来た。
「はあ……」
さっきの光景を頭から追い払うようにため息をつくと、俺は古びた廊下を歩き出した。
文化祭でテンションが上がっていたとしても、流石に学校はマズイだろう……
やるなら家とかでやれよ……と俺は思う。
別にやるなと言わないのは、俺にとってはそんな事今更だから。
「ここかな……」
紅美のいる教室の前まで来ると、古びて上手く動かない戸をゆっくりと開く。
中はさっきと同じような感じで、机や椅子が散らかっていた。
雨漏れでもしていたのかその木天井は気味の悪い茶色の染みを広げていて、そこから吊り下げられた古そうな蛍光灯にはカビのような黒い斑点が無数にこびりついていた。
そんな教室で紅美は、黒板のすぐ横の壁に背中を預け、細い腕を組んで目を閉じていた。
その美しい顔を俯かせ、頬をほんのりと赤く染めながら小さくブツブツ言っている。
さっきの光景でも思い返して興奮……しているのかも。
まあでもこれは……
そんな紅美を見て、俺はいつも通りの嫌な予感しかしなかった。
紅美の機嫌が悪い時は決まって、近くにいる人にとばっちりが飛んでくる仕様になっているのだ。
杞憂かもしれないけど、保険を懸けておくに越したことはない。
俺は後ろ手で教室の扉を閉めながら首から提げたアーティファクトにラグナを注いで、自身の幻影を創り出す。
そして自分自身は気配を完全に消してその場で待機。
前に黛との戦闘でやったように、紅美に悪いけどはこっちが本体だと思ってもらう。
「落ち着いたか、神楽木……?」
その言葉に紅美はやっと目を開けると、教室の後ろに歩いていく幻影の方へと視線を向けた。
「あなたに心配される筋合いはないわ……」
「……それもそうだね。それよりもさ、窓開けない……?
この教室、埃っぽくて……」
そう提案するように言うと、紅美は自分でやれば……?
とでも言いたげに睨んでくる。
けど、わざわざこんな所に呼びつけたのが自分だとやっと思い出したか、仕方がないといった感じで彼女はすぐ横にある窓ガラスへと手をかざす。
直後、グラウンドを見下ろせるように並んでいた五枚のガラスに、赤黒く輝く魔法陣が浮かび上がる。
六芒星を主とし、月と太陽を思わせる模様と古代文字が施された陣。
それに紅美がラグナを更に込めると、輝きを増した魔法陣がゆっくりと回転しながらガラスに吸い込まれていき、そして勢いよく全ての窓が開いた。
開閉の魔術。
「やっぱり魔術って便利だよね……」
「こんなの覚えれば誰だって出来るわよ……」
関心したように呟く俺の幻影に、紅美は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ちょっと残念な胸の下で腕を組み直した。
今のような物が、西洋のラグナスが扱う能力──魔術。
代々受け継いできた魔法陣に込れらた本質を理解し、ラグナを使って陣を描くことで能力発動の起点とする形式。
あらかじめ規定されたもののため発動は速く、陣の組み合わせ方で様々な事象を引き起こす事も出来る。
ただ……対人戦闘においての柔軟な使い分けは以外と難しいものだったりする。
魔術とは、俺や渚紗が使うような応用性の高いものとはちょうど対局に位置するものなのだ。
開け離れた窓から新鮮な空気が入り込み、さっきまで感じられた埃っぽさもいつのまにか無くなっていた。
俺は教室の扉の前から一歩も動いていないため、正面には俺に横顔を晒すお嬢様がいた。
「まあそんな事はどうでもいいや……。それで、わざわざこんな所まで連れてきて、俺になんの用……?」
「そうね、それじゃまず……」
そうして、綺麗な前髪を風で揺らしながら、紅美はやっと話を始めた。
◇
一つ、ある仕事を手伝え。
二つ、だから連絡先を教えろ。
三つ、ちょっと危なそうな遺物──未来の地球で見つかった、当時のラグナスが使っていたアーティファクトの総称──を拾ったので見て欲しい。
紅美の要求を大雑把に纏めると、大体こんな感じだった。
「まあ最初の二つはともかくとして……。最後のはつまり、自分でやるのが怖いからって事かな……?」
俺の幻影は教室の後ろの方で、ポケットに手を突っ込みながら深みのある茶色の壁に背を預けると、睨んでくる紅美の視線を柔らかく受け止めていた。
「……当たり前でしょ。だって見るからに危なそうな雰囲気が放ってるんだから、誰だって警戒はするわよ」
「そこまで言われて、俺がそんな事やってやると言うと思ってる……?」
おいしい仕事なら手伝ってやっても構わないとは思うけど、自分の身を危険に晒してまで紅美に肩入れする気はない……
命あっての物種って奴。
知らない奴からすれば言い過ぎだと思うかもしれないが、遺物なんて基本的にそんもも物ばっかだから、近づかないに越した事はないのだ。
「別に強制はしないわ。でもね……」
俺は今の言葉に、そんな感じの意味を込めていた。
けれど紅美は艶かしく──意地の悪そうなとも言うが──口元を歪ませると、言葉を続けた。
「あれね、見た感じ時間を弄る類のものなのよ。
あんた、そういうの興味あるんでしょ……?」
「へぇ……それはまた……」
時間を操る……
今俺が考えている計画でも夏那を助ける事は出来るけれど、そういった知識は無いよりもあった方が良いに決まってる。
けどなぁ……
「それは確かに見ておいて損はないかも……
でも、そんな貴重なものをなんで俺に……?」
そこが良く分からない。
そういうのを専門に扱う鑑定士は世の中には大勢いるし、売ればかなりのた大金が簡単に手に入る。
「別に……
ただ、あんたには借りがあるでしょ……?
だからね……」
そう言って紅美は恥ずかしそうに目を逸らすと、グラウンドに白い粉で描かれたトラック線を眺める。
借り……?
思い当たる事はそんなに無いんだけど……
「まあいっか……
じゃあお言葉に甘えてちょっと調べさせて貰うかな……
って事で、今日行っていい……?」
「はっ……? 何言ってんのよあんた……!」
とまあこんな感じで話は一段落した……はずだった。
晴れ渡った夏の空に、ちょっとじめじめした空気。
校門から校舎へと続く通りでは露店販売が行われていて、まだ始まったばかりだというのにどこからか香ばしい匂いがした。
それらをかき集めてきた風は、誰もいない校庭に吹き荒れ、そしてこの教室へと行き着いた。
旧校舎の窓は当たりまえのように木枠で、教室に押し入ろうとした風はそれをカタカタと震わせる。
それだけなら全然問題は無かった。
でも、その風はまるで面白がるかのように、優等生と言う割りには少し短めの紅美のスカートをほんの少し、でも確かに持ち上げた。
「きゃっ……!」
ふわりとなびくスカート。
黒のハイソックスに隠された、細くて綺麗な脚。
そして……
紅美に良く似合う、でも意外と大胆な色の下着が……
ふわりと靡くスカートの端を紅美は急いで押し留めて、顔を真っ赤にしながら正面に立つ幻影を睨み……
「見た……わよね?」
「…………」
若干内股になりながら足をすぼめ、恥じらいながら両手でスカートを覆い隠す紅美。
やばい、可愛い……
紅美のちょうど真横にいる俺は、そのスカートの中身が見えてしまっていた。
でも……幻影がいる位置からは角度的に見えていなかったはず。
だから、そのまま何もなかったかのように振る舞えば何とかなる……と思っていたのだけど……
なのに、なんで……!
直接操作で絶対的に俺の支配下にあるはずの幻影が、何処にでもいるような冴えない平凡な学生の顔を決まり悪そうにしかめて、紅美から視線を逸らしたのだ。
勿論、俺はそんな指示を出したつもりはない。
とすれば、考えられるのは……
もしあそこにいればきっとこんな反応をしていただろう……というような俺の無意識下での想像を拾って、そのままそれを再現している可能性。
けれど、今更それに気づいた所でもう遅かったが。
「ねぇ、シュウ君……?
何か言い残す事は、ある……?」
紅美は最高に綺麗な笑顔を浮かべて尋ねる。
そのお嬢様の背後には、恐ろしい笑みを浮かべた般若の代わりに、赤黒く輝く魔法陣がいくつも浮かんでいた。
こうなれば、言い逃れなんて絶対に出来ないのは必死……
ホントに、保険を懸けておいて本当に正解だったと思う。
それじゃなきゃ、怒り狂った紅美の魔術の集中砲火を喰らうことになっていたのだから。
俺はさっさと逃げ出すべく、この学校ではそれはもう貴重な紅美の最高の笑顔を見ながら、静かにドアを開けると後ろ歩きで教室をそっと出る。
けれど、俺が廊下を歩きだした所で……
最後の最後に、教室の中でまだ紅美と対峙している幻影は、俺の無意識領域下にあった言葉を拾ったらしかった。
「黒……」
その時の紅美の顔は見れないけど、まあきっとヤバかったんだろうなとは想像出来る。
直後、紅美のお嬢様らしからぬ汚ならしい罵倒と共に爆音が轟き、旧校舎全体を揺らした。
そしてその時になってやっと、今まで話をしていたのが偽物だと分かったのか……
「今度会ったら殺してやるんだから、この人でなし……!」
と、ありったけの声で叫ぶ紅美の犯罪予告が、古びた校舎に響き渡った。




