星を並べて 1
白く大きなケーキを前に、これはさすがに食べきれないだろうと思った。
それに、食べたくない。ケーキなんか、本当は好きじゃない。甘いだけで、美味しいと思ったこともない。
だけど苛々したときにケーキを食べると、少しだけすっとする。何だかよくわかんないけど、嫌な奴を退治したような、そんな気持ちになる。
火の消えた蝋燭を何本も立てて、大きなケーキはまぬけに見えた。
大通りを走り抜ける車がうるさい。この大通りは通常走行区間で、運転手たちは警告音を鳴らしながら走るから、本当にうるさい。
何をそんなに急ぐ必要があるのだろう。そんなに急いで、どこに行くのだろう。そこでは誰かが待っているのだろうか。
狭い路地に吹き込む風は強くて、ケーキを彩るイチゴが転がり落ちた。白いクリームをつけて落ちたイチゴは、すぐに汚れた。深雪はそのイチゴを摘みあげ、口に放り込む。
汚れたイチゴ。落ちたイチゴは誰も拾わない。
誰も拾わないイチゴは、あたしに似合う。ディセだもん。普通の人が嫌がる物を拾わなきゃ、生きていけない。
でも、どうしてそこまでして生きていかなきゃいけないのだろう。
冷たい風が強く吹き抜けるから、肌が切れそうに痛い。もっと長いコートにしたらよかったかな。
ティーブはいつも、深雪の服装を注意する。腹を出すな、足を出すな、コートを着ろ。ティーブはおじさんみたいだ。口うるさいおじさん。30才とか、31才とか聞いた。
深雪から見れば、30才を過ぎているティーブはおじさんに見える。でも、何でだろう。ティーブといると苛々が収まるときがある。
あの大きな手を握っていると、少しだけ、気持ちが穏やかになれる。
でもやっぱり、おじさんだ。野菜を食べろとか、魚を食べろとか、好き嫌いをするなとか。口うるさくて、めんどくさい。
学校は女子校だから、男の子なんていない。でもみんな、好きな人がいる。他校の男の子とか、モデルとか、誰かの兄弟とか従兄弟とか、そういう人を見つけてくる。
深雪も一緒になって騒ぐけど、本当のところは、彼らを素敵だと思ったことはない。みんななんか、間抜けな顔に見える。だらっとしてて、締まりがないし、子どもっぽい。
ティーブはいつも、きりっとしてる。体の中に、一本の線が入っているみたい。びしっと立ってて、きりっとしてる。だからおじさんだけど、格好いいと思う。
ティーブみたいな人が他にもいるかなと思ってみてみると、友達のお父さんたちには結構いるのだ。
深雪はティーブを、友達が男の子を好きなように好きなのか、お父さんのように好きなのか、よくわからない。それに、ティーブを本当に好きなのかどうなのか、今はもっとわからない。
誰でも、よかったんじゃないのかな。自分のことなのによくわからなくて、そう思うときがある。
周りの子たちがみんな誰かを好きなように、深雪も、誰かを好きになりたかったんじゃないのかな。
こんなあたしでも誰かを好きになれるんだって、そう思いたかっただけじゃないのかな。
ティーブは、タイミング良く深雪の前に現れたのだと思う。優しすぎるわけでもなく、意地悪なだけでもない。温かいのと冷たいのが丁度いいくらいに混ざっている。それが、ティーブなのだ。
だから多分、同じような人が他にいれば、それはティーブじゃなくてもいいのだと思う。
優しすぎる人は怖い。意地悪な人は嫌。でもどちらかを選べと言われたら、意地悪な人のほうが安心できる。優しすぎる人は、居心地が悪い。
学校の先生に、優しい人がいる。優しくて、深雪には特別に優しい人。いつも気持ち悪い笑顔を貼り付けて、深雪を褒めようとする。
がんばってお仕事しているね。お仕事で時間をとられるんだから、勉強できなくても大丈夫だよ。勉強もお仕事もしてて、両方しているんだから偉いね。
深雪はへらへら笑って先生の話を聞かないようにしている。ちゃんと聞いて、ちゃんと受け止めてしまうと、頭が爆発してしまうから。
先生は、無理矢理深雪を褒めようとしているだけだ。本当は凄いなんて思っていないくせに、深雪を褒める。
子供は適当に褒めておけばいいと思っているのだ。褒めてさえいれば、大丈夫だと。褒めている自分は偉くて、誰にも怒られないと思っている。
あの先生は、ずるいのだ。
褒められるより、怒鳴られるほうがほっとする。優しくされると、怖い。この優しさがいつまで続くのか、びくびく様子を窺っていなきゃいけないのが嫌だ。
怒鳴られたら、ほっとする。ああやっぱり、てそう思う。
いつくるのだろうと怖がっているより、実際に起きた方が安心できる。だって、もう起きてしまったことだもん。次は来ないから、安心できる。
怒鳴られているときに、怒鳴られるかも、てびくびくする必要はない。
本当は、今日もこうなるんじゃないかと思っていた。だから、ああやっぱり、て心のどこかで安心している。
いいことなんて続かない。いいことが1回あったら、悪いことが10回くらい続く。それが普通だし、それは当然だし、そう決まっているのだ。
だから本当は、ティーブが来られないと聞いて、がーんときて、ほっとした。がっかり以上に、ほっとした。
悪いことが起きると、それが10回くらい続くと、次には絶対にいいことがくる。はやく10回溜めなきゃ、いいことはこない。
反対に、いいことが来てしまうと、次に10回は悪いことが続くのだから嫌だ。
だから大丈夫。こんなことは何でもない。計算のうちだし、決まっていたことだし。だから大丈夫。期待したりなんか、していない。こんなことでは傷つかない。あたしは慣れているし、強いし。だから、大丈夫。
でも……でも……
なんだか、すごく、疲れた気分。ずっと歩いてきたし、ケーキは重かったし、大きかった。
馬鹿みたい。こんなに大きなケーキを買ってしまって。食べられるわけないのに、馬鹿みたい。
だから、こんなに疲れてしまったのだ。
寒いし、冷たいし。このまま、ここで眠ってしまおうかな。そうしたら、明日には死んでいるだろうか。
あたしが死んだら、ティーブも少しくらいは悲しんでくれるかな。悲しんで、悪いことをしたと思うだろうか。
そう思ってくれたらいい。そう、悔やめばいい。自分のせいだって、あたしが死んだのは自分のせいだって、すっごく苦しんだらいいのに。
足を折り畳んで、ぎゅっと自分の体を抱きしめた。冷たい地面に体温が奪われる。
風は少しも止まずに、深雪の髪を掻き乱す。時折強い風が吹き付けて、体が揺れた。今日はとくに風が強いみたい。
剥き出しの素足が、じんじんと痛くなってきた。ぶるぶると震える体は泣いているみたい。体中で泣きながら、早く死んだらいいのにと思った。
頭のどこかではずっと、歌が流れていた。
ハッピーバースデー。ハッピーじゃないけど、生まれてきたから、ハッピーじゃないけど、生きてやる。
本当は、どういう歌詞だったんだろう。こんな歌じゃないはず。本当は、どういう歌なのかな。
あたしは、ハッピーじゃない。でも、生きていかなきゃいけないんだろうか。
この先も絶対にハッピーじゃないけど、生きていかなきゃ駄目だろうか。
あたし、どうして生まれてきたのだろう。あたしを捨てて、お母さんは何をしているのだろう。笑っているのかな、幸せなのかな。あたしを捨てて、幸せになれたの?
あたしが死んだら、みんなが喜ぶ。ディセなんて、一人でも減ったらいいってみんな思っている。
みんなを喜ばせるために、あたしが死ぬの?
あたしが死んで、みんなを喜ばせるの?
深雪の左手首が、ぴりっと痛くなった。静電気で、警告している。突如沸き上がった怒りに身を任せるなと、手錠が言っていた。
ひどく、腹が立った。誰かのために死んでやれるほど、深雪は誰かの世話になった覚えはない。
自分で決めて、ひとりで生きてきた。捜査官になるのも、星の子を出るのも、全部、ひとりでやってきたのだ。
守ってくれる親なんかいない。大人なんか、誰も信用できない。友達だって、いまは学校が一緒だから友達なだけだ。卒業したら、別れる。またね、なんて言って二度と会わないのだ。
あたしはひとりで生きてきた。ひとりで決めて、誰にも頼ったりしない。
親に頼って守られて、そんな奴らを喜ばせるために、どうしてがんばってるあたしが死ななきゃならないの。
ハッピーじゃないけど、ハッピーじゃないけど、ハッピーじゃないけど。
でも、生きてやる。
あたしが死んで誰かが喜ぶのなら、そいつを悔しがらせるために生きてやる。生きて、生きて、生きて、生きて、生き抜いてやる。
寒さでがたがた震える足を、寒くてぶるぶる震える手で叩く。
震える手では上手く叩けなくて、それでも気合いを入れて深雪は立ち上がった。
あたしが死んでも喜ぶ人の方が多いし、ニュースにもならない。学校の友達は一瞬悲しんでくれるだけで、あの子たちはすぐに忘れて楽しい人生を送る。
ティーブも少しは悔やんでくれるかもしれないけれど、すぐに忘れて忙しい日々を送る。そのうち結婚して子供でもできたら、深雪のことなんか思い出しもしないだろう。
何だか、ひどく、悔しかった。
生まれて捨てられて、死んだらすぐに忘れられて。
それじゃあ本当に、何のために生まれてきたのかさっぱりわからない。
ハッピーじゃないけど、生きてやる。ハッピーじゃないけど、生きてやる。
深雪はぶつぶつ歌いながら、震える足で歩いた。寒さで体中が悴んで、廻らない舌を噛んでしまいそうだった。
早くホテルに帰って、温かいお風呂に入ろう。お風呂に入って温まって、柔らかいベッドで寝よう。
明日の朝はゆっくり起きて、ホテルのカフェでお茶でもしようかな。学校は今週末までお休み。今日はこんなに悪いことが起きたのだから、明日はいいことがある。
お買い物に行ったらいいかも。あたしが欲しくなるような、何かいいものが見つかるかも。
寒くて、頭が痛くなってきた。指も冷たくて痛くて、がたがた震える。ぼんやりと瞼が重くなってきた。
あたし、眠たいのかな。ここで寝ちゃうのかな。
半分閉じたような目で歩く深雪の体に突如、電流が駆け巡った。暗い路地で、ばちっと火花が散る。
薄れゆく意識の中で深雪は、あたし力使ったのかなと思った。




