いつもと違う日常 3
いつから鳴っていたのだろう。深雪は慌ててベッドから下りると、狭い部屋の壁についているパネルを操作した。貼り付けた笑顔のフロント係が出てくる。ああこの人も、悪いことが起きないように笑っているんだなと思った。
フロント係は、深雪に客が来ていると言う。誰だろう。深雪を訪ねて来る人なんていやしない。
仲の良い友達はみんな他の星の人で、今頃は家族と過ごしている。捜査官たちは仕事以外で会ったりしない。
首を傾げる深雪にフロント係は刑事だと言った。
それだけを言って、通信は切れた。
深雪は、ホテルの広告を流し続けるパネルをどきどきしながら見続ける。
刑事。
刑事……
どうして刑事があたしを訪ねてくるの?
深雪は慌てて自分の左手首を見た。大丈夫、手錠はかけている。いまは私服で、だから手錠が必要。緑の点滅もある。大丈夫、鍵はちゃんとかかっている。
深雪が学校で手錠をしていると、友達に言われることがある。いいじゃん、そんなの。誰も言わないから、外せばいいよ。
駄目、駄目。
それは絶対に、駄目。
自分の部屋で、自分ひとりでいるときでも、手錠はしなきゃ駄目。RSP捜査官の制服じゃないときは、絶対に手錠。
そういうのを習慣にしておかないと、忘れてしまう。体に叩き込んでおかないと、頭はすぐに忘れる。うっかり忘れてしまう。
そして、たまたま忘れたときに限って、悪いことが起きるのだ。
実は、手錠をしていないディセは多い。それが捜査官でなければ。
普通の、捜査官ではないディセは、念動力なんか持たないことが多い。だからもし力が漏れてしまっても、誤魔化せることもある。
でも誤魔化せない場合は、もちろん彼らは即犯罪者となって、衛星アシスに送られる。
もし、と、たまたま、を避けるためにRSP捜査官たちは、制服を脱ぐ前に手錠を掛けることを習慣付けるのだ。
手錠はしているし、他に忘れていることはないかな。
派遣先のティーブの許しを得て退去したし、多分、いまはもう派遣依頼も解除されているはずだ。
だから深雪の行動は、深雪の自由にできる。
他にないかな。
何か、忘れていること。
深雪はロビーまでを急ぎながらも、鬱々と考え込む。
刑事が何の用事だろう。怒られるのかな。怒られるくらいで終わればいいな。
いきなり逮捕された捜査官の例を、嫌と言うほど聞かされた。それに該当するようなことを、うっかりやってはいないかな。
逮捕されたら、即アシス。
逮捕されたら、即、アシス。
深雪は背筋が寒くなりながら、ロビーへと急いだ。
ロビーに着いたときにはもう、泣きそうになっていた。アシス、アシス。あんなとこ、嫌。どういうとこなのか実際には知らないけど、嫌だ。
怒られるだけがいい。怒鳴られても、殴られてもいいから、それで終わってくれないかな。
待たせて、余計に怒らせないように、深雪は小走りにフロントへ行った。
「あ……あの……紫野深雪ですが……」
びくびくと、連絡を寄越してきたフロント係に尋ねた。フロント係は貼り付けた笑顔で頷くと、深雪の背後を右手で優雅に示した。
振り返り、そして、本当に涙がこぼれそうになった。極限にまで高まった緊張が、一気に崩れていく。
「お前、敬語も使えるんだな。これから俺に対しても、そうしろ」
そこには、ティーブが1人で立っていた。
「どうして、どうして、名前言ってくれなかったの!? あたし、すっごく怖かったんだから」
深雪を驚かすために、ティーブは態と、刑事としかフロントに伝えなかったのだ。
「何で怖いんだ。刑事など、腐るほど見ているだろう?」
「でも、でも……あたし、逮捕されるかもって、思ったんだよ」
足の長いティーブについていくのは大変。深雪は息を弾ませながら、走るように歩く。
「何で逮捕されるんだ。お前、心当たりでもあるのか」
「そんなもんなくても、逮捕されるんだよ。ディセは、よくわかんないことで、逮捕されるんだもん」
いきなりティーブが止まり、深雪はその広い背中に激突してしまう。高くもない鼻がぶつかって痛い。
「痛いよぉ……」
深雪が鼻を押さえて言うと、ものすごく怖い顔をしたティーブが身を屈め、深雪の両肩を掴んだ。
「いいか!? もし逮捕されたら、俺の名前を出すんだぞ!」
意味がよくわからなくて、首を傾げる。
「お前がもし逮捕されたら、俺の名前を出して、すぐに呼べと言うんだ。刑事がどいつでも、地方でも、他星でも関係ない。逮捕されたら必ず、俺の名前を出すんだぞ」
がくがくと揺さぶられて言い聞かせられ、意味がわからないままも頷く。
「約束だ」
そう言ってティーブは、小指を立てた右手を出してくる。
「……なに?」
こっちはもっと意味がわからなくて、深雪は思わず後退った。
さっきからティーブの薄い水色の目が強く覗き込んできて、ものすごく、居心地が悪い。深雪は後退り、視線を足下に落とした。
「何だ、知らないのか?」
ティーブはそう言うと、深雪の右手をとって、無理矢理その小指をティーブの小指に絡めた。
そして、びっくりして固まる深雪を余所に、ティーブは右手をぶんぶんと振ると、深雪の手を放した。
「よし。切ったからな。これで約束を破ったら、お前はひどい目に遭うんだぞ」
ティーブはそう言うと、また歩き出した。
「ねぇ、ねぇ、いまのなに?」
「お前、本当に知らないのか? それとも、最近の子供はこういうことをしないのか?」
こういうことって、さっきのようなこと?
深雪はじっと、自分の右手の小指を見る。こんなに小さな指なのに、ティーブのそれはとても力強かった。小指って、あんなに力があるんだ。
「約束をするときは、指切りげんまんだ」
「なにそれ?……へんなの」
「変か?」
「うん」
「そうか。最近の子供はしないのか……」
ちょっと気落ちしたように、ティーブの歩く速度が落ちる。だから慰めるために、深雪は慌てて言った。
「わかんないよ? やるかもしれない。でもあたし、誰かと約束なんかしたことないもん。だから、知らないんだよ」
深雪がそう言うとティーブはまた立ち止まって、今度は片手でがっしりと肩を抱き込まれた。
「さっさと来い。お前は歩くのが遅すぎる」
ティーブの力が強くて肩を抱き込まれると、体がティーブに貼り付けられたみたいになる。すごく近いけど、向かいあって顔を見ているよりは落ち着く。
ティーブはだかだか歩いて、深雪は転びそうになりながらついていく。体を押しつけられて、まるで、二人三脚みたい。
小学部のとき、体育祭のために練習した二人三脚。結局一度も参加できなかったけど、あれみたいだ。
赤、青、黄色。人工の光で溢れる夜の街。
ティーブと一緒に、だかだかだかだか。でこぼこの2人で二人三脚。
このままどこまでも歩いていけそう。




