家族ごっこ 2
「どうして先生にディセがいないのかしら」
「何でかなぁ。先生たちは、いい人だったんだよ。ものすごく、忙しそうだったけど。だって、先生は20人くらいしかいないのに、子供は沢山、沢山いたんだから。あたしのときでも、200人は超えていたと思う」
「……それは、凄いわ。私がお世話になった孤児院だと、多くても30人だったもの。それも3才から10才までで。0才の子と10才の子を一緒に見るのは大変でしょうね」
「うん。だから先生のなり手がなくて、先生たちはいつも怖い顔してたよ」
「必死だったのでしょうね」
「いまならね、そう思うよ」
子供の頃に理不尽だと感じたことも、成長とともに理解することもある。だが理解を示すには、深雪はまだ早いと思った。
まだまだ親の加護を必要とする年頃だろうに、この子は必死で大人になろうとしている。
「あたしたちはいつもぐちゃぐちゃ。寝る場所なんて決まってなくて、早い者勝ち。何でも全部、早い子が勝つんだよ。……星の子ではいろんな決まりがあって、それができないと大変だった」
「たとえば」
「うーん……あ、そうだ。時間が決まっていたんだよ。ごはんの時間。夕飯は18時から18時半まで。だから食堂に、17時55分には入るの。55分になると、扉が開くんだよ。それより1秒でも早いと閉まってる。55分から18時までに入って、椅子に座るの。18時を1秒でも遅くなると扉は閉まって、どんなに叫んでも絶対に入れてくれない」
「5分だけ?」
「5分だけ。座って、両手を後ろで組むの。こんな感じに」
深雪は料理を手伝うことは止めたのか輪の方へ行くと、椅子に座って両手を後ろで組んだ。対面式キッチンで、ライオネルは手を止めることなく話を聞く。
「全員で手を組んで、黙って待つ。18時になると扉が閉まって、びーって鳴るの。そしたらテーブルの向こうから、がーっとご飯が流れてくる。ご飯は1人1人平たいトレイに載ってて、端まで届いたらぴたりと止まるの。長いテーブルは5つあって、全部間違いなく届いたら、先生がぴって笛を鳴らす。そうしたら、食べていいんだよ」
それはまるで、養鶏場のようだった。ライオネルはそう感じ眉を顰める。輪も同じなのか、怪訝な顔をしていた。
「30分で食べる。先生はあたしたちの間をうろうろ歩いて監視するの。残すのはいいけど、他の子のご飯に手を出したら、すっごく怒られる。怒られて、次のご飯は抜きなんだよ。……でも先生は、誰をご飯抜きにしたのかすぐに忘れるから、割と大丈夫なんだけどね」
そう言って深雪は、きゃははと笑う。
物心ついた頃からこれならば、深雪にとって食事は決して楽しいものではなかっただろう。
子供にとって30分の食事時間は長かったのか、短かったのか。目についた好きなものから平らげようとしたのではないのか。
そのせいなのか深雪は、この年になっても好きなものしか食べようとしない。嫌いなものがあまりに多すぎて、料理の取捨選択がとても狭いのだ。
「その食事だと忙しないでしょうね」
「うん、すっごく忙しい。それに、すぐにお腹が空いたよ。でもおやつは5才までで、それ以上の子は何もくれないの」
そこで深雪は、何かを思い出したかのように笑った。
「星の子には運動場があったんだよ。狭いやつなんだけど、ちょっとした場所が。星の子の周囲にはもちろんいろんな家があったんだけど、運動場の裏にも家があったの。そこにはね、怖い顔したおばさんが1人で住んでたんだよ」
ディセばかりの孤児院。周囲の人々との軋轢があったのではないのか。次に続く話に、ライオネルは思わず身構えた。
「星の子は高い塀で囲まれていたんだけど、一カ所だけ穴があったの。木があって、それで隠れて先生たちは知らなかったんだろうね。その穴の向こうが、おばさんの家だったんだよ」
深雪はまた、ふふふと笑う。いつもと違って、その黒い目も笑っているようだった。
「星の子には遊び道具なんかなくて、かくれんぼとか鬼ごっことか、そういう遊びしかできない。でもお腹が空いて動くのも嫌で、みんなで塀に背中つけてぼーっと立ってたの。そしたらね、足んとこ見たらね、穴が開いてたの……なんだろうって、顔を向こうに突っ込んだら、すっごく怖い顔をしたおばさんとばっちり目が合っちゃって」
いま目が合ったかのように、深雪は黒い目を見開いた。
「おばさん、腕を組んであたしを見下ろすの。すっごく、怖かったなぁ。だって、星の子の外で会う人はみんな、あたしたちを見たら怒鳴ってくるんだもん。塀にも、べたべた変な張り紙されるし……だからこの人にも怒鳴られるって、身構えたんだよ」
孤児院を囲う高い塀は、外の人々を守っていたのか、中の子供を守っていたのか。
「でもおばさんに睨まれているときに、あたしのお腹がぐーって鳴ったの。だって、すっごく、お腹が空いていたんだもん。その日のお昼は野菜ばっかりで、あたしの食べられるものなんて何もなかった。パンだけだったからお腹が空いて、だから鳴っちゃったんだよ」
ダイエットをするくせに、腹が鳴ると恥ずかしいからと女子高生たちはいつも小さな菓子を口に入れていた。特に、昼前の休み時間は。
ライオネルにしてみれば当然の生理現象で、恥ずかしがることなどないと思うのだが、深雪は変に言い訳していた。
「そしたらおばさん、怖い顔のまま家の中に入っていって、すぐに戻ってきたの。手にね、お菓子持ってて、食いな、て……」
深雪はうっとりと目を閉じた。
「美味しかったなぁ。すっごく、美味しかった。あたしがばくばく食べてたら、塀の向こうの子たちも気づいて、いいな、いいなて騒いだんだよ。そしたらおばさん、また家に入って今度はバケツを持ってきたの。あたし、水でも掛けられるのかと思ったんだけど、その中にいっぱい、お菓子が入っていたんだよ」
その情景を思い浮かべたのか、輪がふふと笑う。
「みんなでおばさんちの庭に入って、ばくばくばくばく、食べていったの。すっごく美味しかった。おばさんが、美味いかい、て聞くから、みんな口いっぱいに突っ込んだまま、うんうん頷いて。誰かが咽せたら、おばさん背中を叩きながら、気をつけな、て」
不器用な優しさが輪と重なって、ライオネルも笑う。
「今思うと、おばさん、あたしたちのためにお菓子を用意してくれていたんだろうね。塀に穴を開けたのも、おばさんかもしれない。小さいやつで無理矢理なら、子供が通り抜けられるくらいの穴だったんだよ。穴開けて、いつかあたしたちが塀の向こうから顔を出しやしないかと、待っててくれたんだよ」
「……そうかもしれないわね」
「それからもね、あたしたちはこっそりおばさんちに行ったの。おばさん、あたしたちがいつ行っても、お菓子をくれた。腹空いてないかい、ていま食べているのに聞いて。おばさんはいつも、あたしたちのお腹の中を心配していたよ」
ディセに対する差別はどこにでもある。あまりに当たり前過ぎて、誰も特別だとは感じないほどに。得体の知れないものだと恐れ、決して自分からディセを知ろうとはしない。
そして、常人のそんな不勉強を間違っていると叫ぶほど、ディセは希望を持ってはいない。両者はすれ違ったまま、差別だけが根強く残っていく。
だがそれでも、ディセに手を差し伸べようとする人々も存在した。
深雪の話すおばさんが、ディセに親切にしたかったのか、ただ単に腹を空かせた子供を放ってはおけなかったのかはわからない。
だがこのおばさんがしたことは確かに、深雪を救ったはずだ。空腹を満たしただけではなく、この子の空虚な心に甘い思い出を残してくれた。




