5 屈託
「こんにちは…お邪魔します」
「あらあらまあまあ!珠心ちゃんってこんなに可愛い娘さんだったのね…!」
「お、お母さん!」
神木さんの家に入るなり、玄関で待っていた(待ち伏せしていた)神木さんママが感嘆の声をあげた。自分の母を宥めるように、手で押して肩を揺らした。
なんだかいきなり圧倒されている自分がいた。
そのまま親子2人に強引にリビングまで流されてしまった。
「さて、お茶でも用意しましょうか」
「あ、いえ、お構いなく」
何かを勧められたら、とりあえず1度は断っておく。それが自分なりの礼儀だと思うので、とりあえず実行に移してみた。
「遠慮しないで、さあ座って座って!」
もう1度勧められたら断らない。何度も断ることが、相手の気に障ることがあるからだ。本で読んだことがある。
「紅茶を入れて、ケーキも……あれ?」
冷蔵庫を開けた神木さんママが、素っ頓狂な声を出した。
「ケーキ切らしてる…」
「お…お母さん…」
神木さんが母のおっちょこちょいぶりに呆れている。神木さんも大して差がないようにも感じたが(土曜日に学校に行こうとした辺りが)。神木さんのドジっ娘ぶりは、母親譲りのものらしい。
「日陽、悪いけどケーキ屋さんでケーキを4つ買ってきてくれない?」
「ん〜………はぁ…しょうがないなぁ」
神木さんは、如何にも不服そうな溜息を漏らしたあと、渋々了承し、そのまま神木さんママがエプロンからおもむろに出した2000円を受け取って玄関から外に出ていった。
──気まずい。
何故か、煎れたばかりの紅茶を飲む私を、神木さんママはニコニコしながら凝視してくるのだ。
「えと…あの…」
「珠心ちゃんは…」
私が話し出したと同時に、神木さんママは口を開いた。
「珠心ちゃんは、カサンドラを知ってる?」
カサンドラ…一体何だろうか。物、それとも人の名前か。
「いえ…」
「そう…なら、少し神話のお話をしましょうか」
一体何故そうなったのか。そのとき、親子して行動パターンが読めない強者なのだと悟った。
「アポロンって言う神様の名前は聞いたことある?」
「アポロン…確かギリシャ神話に出てくる、太陽、芸術、未来予知などを司る神ですね。あと、ハープを弾くのにもかなり秀でていたとか…」
「詳しいわね、それなら話は早いわ」
神木さんママはいきなり語り出した。
ある時、アポロンには、想い人が出来たの。お互いに深く、深く愛し合う仲…つまり相思相愛だった。
その相手の名前をカサンドラというの。
でもカサンドラは人間。神であるアポロンと、カサンドラは長くは続かないことがもう目に見えていた。
そこでアポロンは、自分の能力のうちの1つ、未来予知の能力を、2人が愛し合っている証にカサンドラに授けたの。カサンドラは大いに喜んで、早速その力を使ってみた。
するとどうでしょう。なんとアポロンが自分によそよそしくなる未来が見えてしまった。自分がアポロンに、何か嫌な思いをさせたのではないかと不安になったカサンドラは、次第にアポロンと話さなくなっていった。
それを、自分の能力が目当てで近付いて来たのだと勘違いしてしまったアポロンは、カサンドラに『誰も未来予知を信じなくなる』呪いを掛け、カサンドラと会わないと心に決めた…。カサンドラが好きなままでいるアポロンには辛い選択だったでしょうがね…。
「──で、それが何か…?」
「ああ、ごめんなさい。話が長くなってしまったわね」
ここで改めて神木さんママがゴホン、とわざとらしい咳をして、今までと打って変わって真面目な顔になってから言った。
「娘…日陽は生まれながら、『アスペルガー症候群』という病気を患っているの。症状は簡単に言えば、冗談が通じない、つまり相手の言葉を鵜呑みにするの」
ああ…だからあの時…。
『もう生きていけない…』
『あの、これ、読んでもいいですよ…?』
なんだか、胸の中で留まっていたもやもやが晴れた気がした。
「アスペルガー症候群の厄介な所は、普段あまり会話をしない人にはとても普通の人に見えること。誰も罹患者の身内の苦労を分かってくれない…」
神木さんママは、今までよりも大きく、慈悲のある声で言った。
「貴女はカサンドラになろうとしている。アポロンである日陽によって、貴女の苦労は誰からも理解されなくなる…それが嫌なら、まだ友達になってから日も浅い今のうちから別れておきなさい。それなら日陽と、何より貴女のダメージが軽減できるから…日陽の友達でいるには、それなりの覚悟が必要よ」
なるほど、先程の神話との話のつながりがやっと見えた。つまり私を、何より神木さんを心配してのことなのだ。
突然の言葉に驚きながらも、私は声を搾り出した。
「私は…」
何故だろう。
何故だか、自信と、希望に満ち溢れた自分がいた。
「私は、きっとカサンドラにはなりませんよ」
後々考えてみれば、なにを根拠にここまで自信満々に言ったのか理解できない。
「私も、友達がいなかったんです。だから、初めての友達は絶対大事にしようって、そう決めたんです。それに愚痴を零す相手もいませんし(ぼっちだから)」
そこまで言うと、神木さんママはクスクスと笑い始めた。結構真面目なつもりだったのだが、何かおかしかったのだろうか。
「珠心ちゃん…貴女いい人ね…これなら娘を任せられそう」
神木さんママはそのまま椅子から立ち、私に向かって深くお辞儀した。
「娘を…日陽をどうかよろしくお願いします…」
流石の私もこの行動には驚かされた。
「あ、頭をあげてください!私も、頼まれて神木さんと友達になったわけじゃないですよ。ただ、私が友達になりたかった、それだけです」
神木さんがそんな目に会っていたなんて、微塵も思わなかった。これから彼女と2人で、残り2年の高校生活をとびきり楽しもう。と、決意した。
「ただいま…」
バタンと玄関のドアが閉まる音がしてから、神木さんの声が聞こえた。
「日陽、おかえり」
「買ってきたよ」
コト、と食卓にケーキ屋の箱が置かれた。中を見ると、確かに4つ(4種類)のケーキが並んでいた。
「さ、珠心ちゃん。選んで選んで」
私は無難に苺のショートケーキを選んで皿に乗せた。
「えっと、神木さんのお母さん」
私は神木さんに聞こえないくらいの小さな声で、神木さんママを呼んだ。
「はいはい」
相手も同じく小さな声で答えた。
「ケーキを切らしていたのって、わざとですよね?」
「う…バレたか…」
娘の友達が事前に来ることを知っていて、ケーキをその子にご馳走するつもりならケーキを切らしている訳がない。昨日には既に私が行くことが神木さんママに伝わっているのだから、間違いなくケーキが家に用意してある筈なのだ。
「神木さんを家から出して、2人で話すためにこんな小細工したわけですね」
「お察しの通り…なかなか鋭いね」
初めて会ったときは親子で似ていると感じたが、神木さんからは想像できない程に、神木さんママはなかなかに策士だった。
「?」
そんな2人の会話に全く気がつかずに、モンブランを口に運ぶ神木さんがいた。