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彼女は少し変わっていた。毎日、授業も聞かずに、教室の窓からぼーっと外を眺め、終業のチャイムが鳴っても、その席を立つことはない。いつも、掃除当番の子達に、迷惑そうに見られているが、やっぱりそこに座ったまま。彼女はただ、只管に、何かを見ている。見ている、というよりも、瞳に映している、のかもしれない。
その日の僕は、何故か先生にどうでもいいプリントの束を山ほど渡され、そのホチキス留めに追われていた。いつまで経っても終わる気配がない。友達は薄情にも先に帰ってしまった。「俺、先帰るから、頑張れなぁ」と言いながら笑う、あの悪戯が成功したようなニヤニヤした笑みが忘れられない。明日はどうにか仕返しをしてやろうと、僕は心に決めていた。
ふと、窓の外に目をやると、すっかり日が傾いて、薄暗くなってきていた。一番星も見えるかもしれない。いつも窓の外を見ている彼女は、今もまだ、教室にいて、外を眺めていた。
――ああ、僕は一体、いつになったら帰れるのだろう。
溜め息が漏れる、それはもう、盛大に。それでも、パチンパチンと、ホチキスを留める手を動かし続ける僕は、真面目だと思う。
不意に、ホチキスの音以外の音が、僕の耳に届いて、僕は教室内に目を走らせた。彼女が席から立ち上がったようだ。いつも、そこに座っている彼女が立っている。
普通に考えれば立たないはずがないのに、僕は内心すごく驚いていた。彼女はゆっくりとした仕草で僕を見る。
「悠くん」
鈴を転がしたような澄んだ声で、彼女はそう言った。どことなく、僕の胸の奥に違和感が漂う。教室が暗くて、彼女の表情はあまりよく見えない。だけど、その声は、しっかりと耳に届いていた。
「プリント、手伝おうか」
ずっとそこにいたくせに、すごく今更な発言に思えた。だけど、手伝ってもらえるなら有難い。僕は早く帰りたいのだ。
勢いに任せて頷くと、彼女は少しだけ笑ったように見えた。足音を殆ど立てることなく、彼女は僕の前の席まで来ると、そこにストンと座った。
「すごい量。悠くん、お人好しだね」
お人好し、という発言にムッとしながら、僕はさっき感じた違和感の正体に気付いた。
「何で、下の名前で呼ぶの」
殆ど話したこともないのに。彼女は澄ました表情で、プリントを手に取ると、パチンとホチキスで留めた。
「上の名前、覚えてない」
彼女のその発言に、僕は思わず、プリントを落としそうになる。そんな僕に構うことなく、彼女はパチンパチンと、単純作業を続けていく。
「なんで」
「クラス全員、名前なんか覚えてない」
それはないだろう、と、全力で突っ込みたくなる衝動を抑える。君は一体、このクラスに所属して何ヶ月なんだ――数ヶ月は経つだろう、そうだろう。
「じゃあ、なんで、僕の下の名前」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
「同じ名前だったから覚えた」
「……え」
「ハルカって、同じ名前」
僕の作業する手が止まる。そういえば、僕は彼女の名前を意識したことがなかった。多分、そんな僕の胸の内に気付いていたのだろう、彼女は自ら名前を口にした。
「宮本春香。春の香りって書いて春香」
パチンパチンと、規則的な音を立てて、単純作業は続いていく。窓の外はすっかり暗くなっていた。