放課後、触れないシーソー
かわいらしい丸い並んだ文字列を、富永詩織はそっくりなぞっていく。
文字が霞み始め頭をあげると、空は紅く色づき日が暮れ始めていた。
とおくの方で、吹奏楽の音や運動部の部員の声が微かに聞こえている。
「もうこんな時間……」
鼻の奥がつんとした時。教室の扉が開いたのは同時だった。
彼――奥田翔は、目が合うと、扉の前に暫く立ち尽くし「え……?」小さく呟いた。
奥田君とは、ノートや消しゴムを気軽に貸し借りするくらいの仲だった。
「どうした?」
奥田君はいつの間にか目の前に移動して、私を気遣う。
心配そうな彼を不思議に思い、オウム返しをしようと唇を開くと、彼の指が微かに私の頬に触れていた。
彼のわずかな熱に驚いて瞬くと、雫が落ちた。
そのときはじめて自分が泣いていることに気が付く。
「えっ、なんで……」
慌てて自分で涙を拭う前に、彼が雫を器用に掬っていた。
流れていた涙は、その熱に驚いたように止まった。
「……今日、休みだったよね?」
奥田君は登校したあとすぐに見当たらなくなり、公欠扱いになっていた。
彼は有名なプロサッカーチームのジュニア部門に所属している。彼は忙しく前の席が空っぽなのはよくある事だった。
「荷物、置いたままにしちゃってさ」
奥田君は、椅子を引き前の席に座り机の中をさぐり始めた。
……私が泣いたことを執拗に追及はしてこないつもりのようだった。
毎日見慣れた背中をぼんやり見つめ、徐々に頭がはっきりしてきた。
泣いてしまったこと、触れられたわずかな熱に恥ずかしさを覚え、俯いた。
心臓が早くなっていくのを感じ、慌てて自分を落ち着かせようと目を固くつぶった。
ふれるといっても、触ったかもわからない程度だ。
わたしのはじめては、まだ奪われてない。
落ち着かせようと思ったはずなのに熱がどんどん上がっていく。
(奪うって、……ちょっと!)
「もう体調大丈夫なの?」
彼は振り返らずにしゃべりかけてきた。泣いている女の子の気遣いかもしれない。
「うん!大丈夫!」
ノートにかじりつくふりをして、下を見ていた。
私は、感染症にかかり一週間休んだ。
机上には、友達が善意で貸してくれた休んでいた分の授業のノートだ。
一心不乱にノートをうつしていたらこんな時間になっていた。
久しぶりの学校は、複雑な感情が回りあっていた。
人間関係や勉強に遅れを感じ、どうしようもない気持ちを自覚した途端に彼が現れた。本当に間の悪い出来事だった。
クラスメイトの女子の涙なんて、男子生徒の一番苦手なものでは?
私が逆の立場だったら、非常に困る。
シャーペンを強く握りすぎて指が白くなっていた。
「ねぇ、もう帰る?」
握っていたシャーペンは突然の重力に傾いた。
彼の節くれだった人差し指は、私のシャーペンのノックを床に近づけるように押していた。
何度も軽く押しては、離す。
シャーペンでつながった私たちの手は、シーソーのように揺れていた。
背中を向けていた奥田君は、いつの間にかこちらを見て、目だけ少し笑ってる。
手が触れていないのに、触れているような。
恋人でもないのに、甘えられているような。経験したことのない感覚だった。
「今日のノート、ちょっと借してくれない?」
何を考えているかわからない彼に、小さく頷いた。
自分の机の中の、ノートを手渡す。
「さんきゅ~」
やわらかい口調でノートを受け取り、見慣れた背中を向けた。
静寂が訪れ、遠くで吹奏楽の音と運動部の声が微かに聞こえる。
奥田君は、公欠が多く勉強や人間関係のズレなんて日常茶飯事だろう。
彼に比べたら自分の焦りは小さく感じた。
私の些細な気持ちを、奥田君が感じ取ったのかはわからない。
ただ彼が、やさしいことだけわかる。
見慣れた教室で文字をなぞる音が、お互いを安堵させた。
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