第五話
王城内の一室。
分厚い扉が閉じられた瞬間、外界の音は完全に遮断された。
同時に、張り詰めた空気だけが、この場に残る。
集うのは、王と、その意思に直接触れることを許された者たち。
だが、同じ場にいながら、思惑は決して一つではない。
「……また内議か」
「南だろう、例の」
「また失踪したと聞いたが……」
「どうなってるんだ」
軍装の将軍。
法衣の官僚。
神殿の高司祭。
貴族たち。
囁きが、波のように広がっては消える。
それぞれが、それぞれを目で牽制している。
「……報告を」
エルディナ国王、ドミニウスの声が落ちると、
その波は一瞬で静まり返った。
王直属の側近が一歩前に出る。
「南方および旧帝国領境界付近に派遣した調査団についてです」
「現在までに派遣した七組のうち、三組が帰還しておりません」
「三組……」
「多すぎる」
「偶然では済まぬ数だな」
誰かが、わざと聞こえる声量で呟く。
第一王子――セオドリクが腕を組んだまま口を開いた。
「またか」
短い一言だが、
その裏には“これ以上の問題は認めない”という苛立ちがある。
「失踪の原因は?」
「不明です。魔物、事故、あるいは現地勢力との衝突……」
「不明、不明と」
セオドリクは鼻で笑った。
「調査団がそんなもので消えるほど、我が王国は脆弱か?」
「問題は統制ではないのか」
軍部寄りの貴族たちが、ささやき合う。
第二王子、アリウスは椅子に浅く腰掛けたまま、沈黙を保っている。
側近が続けた。
「なお、南側の通行制限に加えて、新たに検問の強化も実施しております」
セオドリクが即座に口を挟む。
「制限は正しい判断だ」
「危険があるなら遮断する。それが統治というものだろう」
「王子の言う通りだ」
「混乱を防ぐための英断だ」
主流派が頷く。
「兄上」
アリウスの声が、静かに割って入る。
「その“危険”が何なのか、分かっていないのが問題です」
「それにーー失踪が始まった時期は南側通行制限命令を出して以降と一致します」
ざわり、と空気が動く。
セオドリクが視線を向ける。
「分からぬから、触らぬ。それでいい」
「その規制のタイミングと失踪も、お前がただ結びつけているに過ぎん」
「触らなければ、状況は悪化しないと?」
アリウスは淡々と言った。
「調査団は、すでに触って消えています」
側近が慌てて補足する。
「け、検問所にはご命令通り、
“理由を告げず南側を通すな”という命令を下しております」
「現場は命令を厳守していますが、困惑も見られます」
「現場の混乱など些細な問題だ」
セオドリクは即断する。
「理由を語らぬのも、統治の一部だ」
「それは、強権の理屈だな」
「いや、王権とはそういうものだ」
様々な思惑を持った者たちの野次が飛び交う。
アリウスは視線を伏せたまま、しかし声を張り上げて言う。
「混乱そのものより、“理由が共有されていない状態”が問題です」
「沈黙は、統治ではありません」
一瞬、誰かが息を呑む音がした。
王が、ゆっくりと指を組み替える。
「……アリウス」
「はい、父上」
「お前は、この件をどう見る」
アリウスは一礼し、すぐには答えなかった。
「…やはり異常は、あると見るべきでしょう」
短く、切るように。
「調査団の失踪は、偶発とは考えにくい」
「同一地域で、短期間に、複数組が戻っていない」
「それに南側――灰色街周辺で、爆発音を聞いたという報告も上がっています」
「爆発だと?」
「神殿は聞いていない」
「軍の報告にもないぞ」
「爆発と断定はしていません」
アリウスは冷静に続ける。
「ただ、“何も起きていない”と結論づけるには、材料が不足しています」
「過剰な憶測だ」
軍務卿が低く言う。
「辺境での失踪など、珍しくもない」
「不吉な噂は、民心を乱す」
神殿側が続いた。
空気が、明確に二分される。
その只中に、セオドリクが進み出た。
「私の調査団は、現地を確認している」
「爆発とされた音は、老朽化した建物の崩落」
「灰色街では、特別なことではない」
「報告書にも、その通り記してある」
アリウスは兄を見ない。
「兄上の調査を、否定するつもりはありません」
「ですが」
「“安全だと判断した”ことと、 “異常が存在しない”ことは、同義ではありません」
ざわめきが走る。
王は、深く息を吐いた。
「本日の内議はここまでとする」
王の一声で内議は終わった。
重厚な扉が開かれ、列席者たちはそれぞれの思惑を胸に秘めたまま退出していく。
軍務卿は無言で鎧の音を鳴らし、神殿の高司祭は祈るように目を伏せ、貴族たちは小声で情報を交換しながら廊下へと消えていった。
やがて――
扉が、再び閉じられる。
残ったのは、王と、アリウスだけだった。
広すぎる室内に、沈黙が落ちる。
王ドミニウスは、玉座に深く腰掛けたまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、息子を試すようでもあり、己の判断を量るようでもあった。
「……アリウス」
「はい、父上」
「先ほどの場で、私が何も命じなかった理由は分かるか」
アリウスは一瞬だけ考え、正直に答えた。
「はい。あの場で王命を出せば、それは“調査命令”ではなく、“権限の付与”になります」
王は、わずかに目を細めた。
「続けよ」
「軍は軍で動き、神殿は神殿の論理で動くでしょう」
「調査の名の下に、南は分割され、互いに牽制し合う」
「失踪の原因を探る前に、統治と正統性を巡る争いが始まります」
「……」
「そして」
アリウスは言葉を選びながら続けた。
「それは、兄上と私の間にも――不要な線を引くことになる」
王は、ゆっくりと息を吐いた。
「そうだ」
低い声で、はっきりと言った。
「今この国は、問題を“解決”するより先に、“利用”しようとする者が多すぎる」
玉座の肘掛けに指を置く。
「原因が分からぬまま王命を出せば、
誰かが功績を独占し、
誰かが失敗を私に押し付け、
そして国は分かれる」
「それは、王として最も避けねばならぬ事態だ」
アリウスは一礼した。
「……理解しております」
王は、そこで初めて姿勢を正した。
「だからこそ」
「お前に命じる」
静かな声だったが、その一言で空気が変わる。
「南方、灰色街周辺で起きている異常」
「調査団失踪の真因」
「爆発と噂される現象の正体」
「これらを――」
「王命ではなく、私個人の命として、お前に任せる」
アリウスは息を呑んだ。
「公にはするな」
「軍にも、神殿にも、王国調査団にも、知られてはならん」
「必要なのは、事実だ」
「……承知しました」
「一つだけ忠告しておく」
王は視線を鋭くする。
「この件は、“何かがある”と分かった時点で、すでに危険だ」
「真実に近づくほど、味方は減る」
アリウスは静かに頷いた。
「それでも、行かねばなりません」
王は、わずかに苦笑した。
「……そういうところが、あの場では言えぬ理由でもある」
そして、低く告げる。
「行け、アリウス」
「これは王子の役目ではない」
「――王の影としての仕事だ」
アリウスは深く頭を下げた。
重い扉が開き、彼の背中が廊下の闇に消える。
王は一人、玉座に残り、ぽつりと呟いた。
「……灰色街」
その言葉は、誰にも届かず、静まり返った王城に溶けていった。
✳︎
真一は、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。
腹の奥に、まだ鈍い痛みが残っている。
だが、それは昨日よりも確実に軽かった。
数日前、この世界の仕組みをイレーネから聞いた時。
魔法、種族、身分、才能――
すべてが最初から決まっているかのような現実を突きつけられた。
前の世界でも居場所はなかった。
努力しても、理由を与えられなければ切り捨てられる側だった。
この世界でも同じだと、思った。
だから諦めた。
期待しないようにした。
――けれど。
この数日間、動けなかった時間を、無為に過ごさなかった。
イレーネが家に置いていた本。
薬学、魔法理論、王国史、神話の断片。
暇つぶしのつもりで読み始めたそれらは、
いつの間にか、この世界の輪郭を形作っていた。
(魔法は才能と属性依存……戦争は地形と兵站……)
文字を追いながら、ふと脳裏をよぎる。
――母の顔。
前の世界で、情報分析官として机に向かっていた母。
盤面を見渡し、最善手を選ぶ姿。
「感情で動いてはだめよ。常に状況を読みなさい」
あの言葉は、今も自分の中にある。
同時に、別の記憶が浮かんだ。
灰色街。
棒切れ一本で、ゴロツキどもを薙ぎ倒した瞬間。
――迷いがなかった。
(あの時……考える前に、体が動いてた)
そこに重なる、もう一つの声。
――生き残れ。
父の声だ。
理由も、意味も後回しでいい。ただ――生きろ。
(……全部、まだ残ってる)
知識も。
判断も。
剣を振るう感覚も。
諦めたと思っていた。
この世界では、何も持っていないと思っていた。
だが違う。
”持っているもの”は、世界が変わっても消えていなかった。
それは、誰にも奪えないものだ。
その事実に気づいた時、
真一の中で、何かが静かに戻ってきた。
(やっぱり、俺は生きたいんだな...)
自分の気持ちに気付くと、真一は苦笑した。
「……よし、これなら動ける」
確認するように呟く。
「Yo!今日も生きてるNA☆! しかも結構しぶといNA☆!」
そう言いながらモルが部屋に入ってきた。
「朝から元気だな、お前は……」
「朝だからNA☆!」
その声に、ほんの少しだけ現実へ引き戻される。
ベッドから降り、部屋を歩く。
思ったより、体が軽い。
数日前まで、動けなかった。
選択肢すらなかった。
だが今は少し違う。
前の世界で体に染み付いた事実が、自分の中に残っている感覚がある。
そこへ、イレーネが薬草の束を抱えて入ってきた。
「無理に動くな。まだ完全じゃない」
「もう五日もベッドの上だ。もう十分だろ」
「……あの怪我で五日で動くのが異常だ」
真一は肩をすくめる。
「何か手伝うよ」
「……わかった。なら、薬草を取りに行く。ついて来い」
「先に行っててくれ。すぐに向かう」
イレーネは不思議に思いながらも返事をする。
「わかった。この先を真っ直ぐだ」
真一は部屋の片隅に布をかけられている刀を手に取った。
この数日間、イレーネやモルと何度も話をしてきたが、この刀の話は出なかった。
彼女はどこか、この話題を避けているように感じていた。
鞘に収まったままのそれを、腰に差す。
その瞬間だった。
――鞘から抜いてはいけない。
理由は分からない。
危険だとも、禁忌だとも思わない。
ただ、直感だけが強くそう告げていた。
(……なんだ、これ)
もし抜いたら、何かが変わってしまう。
自分か、周囲か、あるいはもっと別の何かか。
それにイレーネがこの刀の話題を避けていた。それを知らないまま、抜くべきじゃない。
そう思った。
代わりに、浮かんだ考えが一つ。
(……なら)
(鞘に入れたまま、どこまでやれる?)
それを確かめたかった。
真一は、腰に刀を差し直し、家を出た。
森へ続く道は一本だが、踏み固められた場所と、わずかに避けられている場所がある。
彼は無意識に、その差を目で追っていた。
(……人の足跡が多い。だが、一定じゃない)
薬草畑へ向かうのはイレーネだけではない。
動物、あるいは――別の何か。
倒木の位置。
風の流れ。
湿った地面に残る、古い爪痕。
歩きながら、本で読んだ内容が頭の中で整理されていく。
(視界は悪い。逃げ場は後方のみ)
(魔物が出るなら、畑の縁……いや、少し手前)
自然と、足取りが変わる。
音を立てないように、踏み込みを浅く。
――考え続けなさい。状況を読みなさい。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
盤面を見渡し、感情を切り離し、最悪を想定する。
前の世界で、母が当たり前のようにやっていたこと。
(……ああ)
(これも、まだ残ってる)
剣を振るう感覚だけじゃない。
戦う前に、負けない形を探す癖も。
10分ほど歩き、畑が見えた、その時だった。
薬草畑に着いた瞬間、空気が張り詰めているのが分かった。
イレーネが前方に構え、魔力を集めている。
その先に、魔物が三体。
詠唱に入る、ほんの直前だった。
「……真一、そこにいろ」
制止の声。
だが、真一は止まらなかった。
(ちょうどいい)
魔物が跳ぶ。
距離は近い。
真一は、踏み込んだ。
「ーー何を!」
イレーネが叫んだ。
腰の刀に手をかける。
だが、抜かない。
鞘ごと、振る。
一閃。
重い衝撃。
しかし、確かな手応え。
外殻に触れた瞬間、魔物を包んでいた魔力が、すっと剥がれ落ちる感覚が伝わってきた。
次の瞬間、魔物は地面に叩き伏せられ、動かなくなる。
沈黙。
イレーネは詠唱を止めたまま、呆然としていた。
「……今の、何をしたの?」
真一は、自分の手を見る。
(……いける)
(抜かなくても、戦える)
それだけが、はっきり分かった。
「……試しただけだ」
「何を?」
「これで、生き残れるかどうか」
イレーネは眉をひそめる。
「...意味が分からないわ」
「だろうな」
真一は笑いながら、それでいい、と思った。
理由を説明できるほど、自分でも分かっていない。
モルが、小さく息を呑む。
「さっきの……ちょっと、嫌な感じがしたZE☆」
イレーネが、改めて真一を見る。
「顔つきが、変わったわね」
「そう見えるか?」
「ええ。前より……吹っ切れてる」
真一は、否定もしなかった。
理由は言えない。
言葉にすると、たぶん違ってしまう。
だが、自分の中では分かっていた。
諦めたつもりだったものが、
まだ手の届くところにあると、確かめただけだ。
「戻るぞ。その刀について話がある」
イレーネが言う。
「ああ」
三人は、薬草畑を後にした。
森の音は変わらない。
だが真一の中でだけ、“進み方”が少しだけ定まっていた。
抜かない。
今は、それでいい。
それでも——
生きるには、十分だった。




