第一話
裏切りというものは、いつも「信じていいはずの顔」をして現れる。
真一が警察官として最後に見たのは、長年尊敬してきた上司の、困ったような笑顔だった。
「・・・お前の言っていることは分かる。だがな、蓑島。これは“触れてはいけない”案件だ」
警察内部の汚職。
証拠は揃っていた。金の流れ、虚偽の報告書、消された捜査記録。
正義だと信じていた組織の中に、腐敗があると知った時、真一は迷わなかった。
――だから、内部告発を選んだ。
結果は、想像するまでもない。
告発は揉み消され、逆に真一は「規律違反」「虚偽報告」「精神的不安定」という名目で切り捨てられた。
庇ってくれる者はいなかった。
信頼していた上司は、最後まで「お前が悪い」と笑いながら、書類に判を押した。
それが、真一の“社会的な死”だった。
職を失い、信用を失い、家を失った。
段ボールの下で見る夜空は、警察官だった頃よりずっと広くて、ずっと冷たかった。
人は、あっさりと人を見なくなる。
「助けて」という言葉が、意味を持たないことを、この時初めて理解した。
ある夜。
酔った若者数人に絡まれた。
理由は分からない。
邪魔だったのか、目障りだったのか、ただの憂さ晴らしか。
ナイフの冷たい感触。
腹部に走る痛み。
倒れ込む視界の端で、誰かが笑っていた。
血が広がるアスファルトを見ながら、真一は思った。
――最低の人生だったな…。
正義も、努力も、選択も。
全部、簡単に踏み潰される。
それが、簑島真一の人生の終わり。
……のはずだった。
次に意識を取り戻した時、真一は「地面の冷たさ」を感じた。
石畳。
見慣れない建物。
空は青く、異様なほど澄んでいる。
「……ここ、どこだ?」
起き上がろうとして、違和感に気付く。
――軽い。
体が、異様に軽い。
痛みがない。
刺されたはずの腹も、どこもかしこも、無傷だった。
「おいおいなんだあれ……、浮いてる…?」
そこには2メートルほどあろう生き物がふわふわと浮かんで移動していた。
そして、決定的な違和感。
真一は、自分の体を見下ろした。
「…………………………」
「――――――は?」
全裸だった。
文字通り、一糸まとわぬ姿で、異世界の石畳に放り出されていた。
「いやいやいやいや、ちょっと待て! なんで全裸!? 死後の世界ってもっとこう……配慮とか……!」
「とにかく、このままじゃヤベェ!」
慌てて身を隠すように裏路地へと走る。
その瞬間、気付く。
速い。
走る速度が、明らかに人間離れしている。
地面を蹴る感覚が、羽のように軽い。
「…え?」
壁に手をついて跳ねると、信じられないほど簡単に身を翻した。
「なんだ…これ…」
自分の体そのものが、強化されているような感覚だ。
その感覚に戸惑いながらも、人が少ない方をひたすらに進む。
「何が何だかわからんが、とにかく人気のない場所で着るものを探さないと。」
しばらく行くと街の色が、変わった。
建物は古く、壊れ、道は舗装されておらず、おまけに湿度が高いためどこもぬかるんでいる。
人の気配はないが、どこからか異臭がする。
「この辺りは懐かしい感じがするな。」
真一はこの街の雰囲気に、自身のホームレス生活を重ねた。
ようやく人気のない場所に辿り着き、隠れながらも散策していたその時、遠くの方で爆発音がした。
「なんだ?」
その矢先、すぐ近くで女性の切羽詰まった声が聞こえてきた。
「やめて…!やめてください……!」
路地の奥。
一人の女性が、数人の男に囲まれていた。
これも懐かしい光景だった。
警察官時代、嫌というほど見てきた。
「おい、やめろ!」
真一は声をかけると同時に顔の特徴、人数の把握、服装、持ち物などを素早く観察した。警察官時代の名残だ。
「(武器を持ってるのは4人・・・、後の2人は・・・、なんだあの生き物。あれは被り物か何かか?)」
ゴロつきが吠える。
「なんだテメェ、というかなんだその格好…」
そう言った奴は全裸の真一に一瞬うろたえたが、すかさずもう一人が
「関係ねぇ、とりあえずやっちまえ!」
「待て!暴行は犯罪行為だぞ!」
そう叫ぶ真一の言葉など聞かず、6人のゴロつきは問答無用で襲いかかってくる。
やるしかない、そう思った真一はそこからほとんど反射的に動いていた。
足元に転がっていた棒切れを掴む。
次の瞬間、世界が“遅く”なった。
踏み込み、振り抜く。
鳩尾みぞおち、手首、膝。
真一の体に染み付いた動きが、異様な身体能力によって再現される。
「ぐっ――!?」
「な、なんだこいつ――」
男たちは、文字通り成敗され、地面で伸びている。
真一は、自分の息一つ乱れていないことにも気付く。
「やっぱり体が軽い。それに、相手の動きも見えすぎるほどだ…。」
真一は自分の変化に驚きつつも、女性に声をかけた。
「あんた、大丈夫か?」
そう言いながら助けた女性に振り返った、その瞬間。
「きゃああああああああ!!」
全力の悲鳴。
「え、あっ、違っ、待て! 話を――」
だがもう遅い。
2度目の悲鳴を聞きつけた辺りの住民たちが、次々と集まってくる。
「なんだ!?」
「誰だあいつ!」
「……全裸?」
沈黙。
そして。
「不審者だ!!」
「今度は露出魔が出たぞ!!」
「待て待て待て!!おいあんた、説明してくれよ!!!」
そう叫びながら真一は半ば諦めたように棒切れを捨て、両手を上げて、ひざまずいた。
――こうして。
元警察官、元ホームレス、日本で一度死んだ男・真一は、
全裸の不審者として、この街に知られたのだった。




