僕という軌跡 ― 静けさの果てに
僕が覚えている最初の光景は、夏の畳の匂いと蝉の声だった。
母の手のひらの温もり、夕立の後の土の匂い、空の奥まで続くような青。
その頃の僕は、まだ世界の大きさを知らず、ただ風と遊び、走り、笑っていた。
母の声と父の背中、家族という小さな世界が、すべてだった。
やがて小学校、中学校。
先生の期待、友達との笑い声、テストの点数。
「頑張れば褒められる」という単純な法則に、僕は夢中でしがみついた。
叱られるよりも、誰かに認めてもらうほうが好きだったからだ。
それが僕の人生の基本形になっていった。
高校を出て、社会に出たとき、世界は一変した。
そこは、努力だけでは評価されない場所だった。
声の大きな人が勝ち、理不尽が正義になることもあった。
それでも僕は、黙々と仕事を覚えた。
早朝から深夜まで現場に立ち、クレーム対応をこなし、後輩に指示を出す。
手は汚れて、頭は疲れ、心はそれでも笑顔を作った。
会社の休憩室の白い蛍光灯の下、缶コーヒーを握りしめながら、何度も深呼吸をした。
「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、笑顔でデスクに戻る。
上司の理不尽な一言が胸に突き刺さっても、声を荒げずに飲み込む。
「僕が悪い」と言えば、場が収まる。
それがいつの間にか習慣になっていた。
気づけば、僕の心の声はどこか遠くに押しやられていた。
結婚した。
小さな手を握り、家族の未来を思った。
「これからは守るものがある」と思った。
でも守ることは、同時に多くを背負うことでもあった。
仕事、ローン、教育費、妻の不安、自分の健康。
夜、布団の中で目を開けたまま天井を見つめ、「僕はどこへ行くんだろう」と何度も考えた。
眠れない夜が増え、薬に頼るようになった。
朝になると、眠気と戦いながら出勤し、また同じように働いた。
そんな日々の中で、バイクに出会った。
エンジンをかけた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が一気に外へ流れ出した。
風が頬を打ち、世界が流れる。
誰にも評価されず、誰にも縛られない時間。
山道の緩やかなカーブ、道の駅で食べるソフトクリーム、
仲間と交わすピースサイン。
その一瞬だけ、僕は「僕」に戻れた。
仕事のこと、家族のこと、お金のこと、全部が灰色に見える中でも、
バイクの上では、色が戻ってきた。
空の青、森の緑、夕暮れの赤。
エンジンの鼓動が、まるで「まだ生きてる」と教えてくれるようだった。
しかし、家に帰れば現実が待っていた。
泣いている妻、誰かと電話で話す声、鳴き続ける猫。
「何もかも、めんどくさい」と思う夜が増えていった。
それでも朝は来る。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、
僕はまた「大人としての僕」を演じた。
会社では、見習いに正しい手順を教えながら、上司からの圧を受けた。
本来なら相方が担当する仕事を、体調が悪いのに引き受けた日もあった。
仕事中に眠ってしまいそうになることもあった。
「これではいけない」と思っても、体は言うことを聞かない。
それでも僕は、翌日も会社へ向かう。
それは義務というよりも、もはや自分を保つための儀式のようだった。
何度も「僕の人生、なんだったんだろう」と思った。
それでも、歩みを止めなかった。
守るものがあるからではなく、
ただ、生きている限りは進まなければならないと思ったからだ。
そして今、僕は静かな夜の中にいる。
窓の外では秋の風が吹き、街灯の下を猫が横切る。
家の奥から妻の声がかすかに聞こえ、
胸の奥で小さな火がまだ灯っている。
「お腹が空いた」と思える火だ。
それは、まだ世界とつながっている証。
灰色の中に埋もれた、小さな橙色の灯。
僕はその灯を、両手でそっと包むようにして、深呼吸をする。
仕事も、家族も、仲間も、お金も、
全部を抱えてきた僕は、完璧ではなかった。
けれど、確かに生きてきた。
何度も立ち上がり、誰かを守り、何かを信じてきた。
それが僕の人生のすべてだ。
静かな夜の中で、僕は窓を開け、
遠くの山の稜線を思い描く。
ヘルメットの中で息を整え、エンジンをかける自分の姿を思い浮かべる。
そのイメージが、僕をまだ支えてくれている。
空は深い灰色で、
それでも地平線の向こうには、確かに光が見える。
それは希望かもしれないし、ただの朝焼けかもしれない。
どちらでもいい。
その光へ向かって、僕はまたひとり、
静かにハンドルを握る。




