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僕という軌跡 ― 静けさの果てに

作者: つか
掲載日:2025/10/06

僕が覚えている最初の光景は、夏の畳の匂いと蝉の声だった。

母の手のひらの温もり、夕立の後の土の匂い、空の奥まで続くような青。

その頃の僕は、まだ世界の大きさを知らず、ただ風と遊び、走り、笑っていた。

母の声と父の背中、家族という小さな世界が、すべてだった。


やがて小学校、中学校。

先生の期待、友達との笑い声、テストの点数。

「頑張れば褒められる」という単純な法則に、僕は夢中でしがみついた。

叱られるよりも、誰かに認めてもらうほうが好きだったからだ。

それが僕の人生の基本形になっていった。


高校を出て、社会に出たとき、世界は一変した。

そこは、努力だけでは評価されない場所だった。

声の大きな人が勝ち、理不尽が正義になることもあった。

それでも僕は、黙々と仕事を覚えた。

早朝から深夜まで現場に立ち、クレーム対応をこなし、後輩に指示を出す。

手は汚れて、頭は疲れ、心はそれでも笑顔を作った。


会社の休憩室の白い蛍光灯の下、缶コーヒーを握りしめながら、何度も深呼吸をした。

「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、笑顔でデスクに戻る。

上司の理不尽な一言が胸に突き刺さっても、声を荒げずに飲み込む。

「僕が悪い」と言えば、場が収まる。

それがいつの間にか習慣になっていた。

気づけば、僕の心の声はどこか遠くに押しやられていた。


結婚した。

小さな手を握り、家族の未来を思った。

「これからは守るものがある」と思った。

でも守ることは、同時に多くを背負うことでもあった。

仕事、ローン、教育費、妻の不安、自分の健康。

夜、布団の中で目を開けたまま天井を見つめ、「僕はどこへ行くんだろう」と何度も考えた。

眠れない夜が増え、薬に頼るようになった。

朝になると、眠気と戦いながら出勤し、また同じように働いた。


そんな日々の中で、バイクに出会った。

エンジンをかけた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が一気に外へ流れ出した。

風が頬を打ち、世界が流れる。

誰にも評価されず、誰にも縛られない時間。

山道の緩やかなカーブ、道の駅で食べるソフトクリーム、

仲間と交わすピースサイン。

その一瞬だけ、僕は「僕」に戻れた。


仕事のこと、家族のこと、お金のこと、全部が灰色に見える中でも、

バイクの上では、色が戻ってきた。

空の青、森の緑、夕暮れの赤。

エンジンの鼓動が、まるで「まだ生きてる」と教えてくれるようだった。


しかし、家に帰れば現実が待っていた。

泣いている妻、誰かと電話で話す声、鳴き続ける猫。

「何もかも、めんどくさい」と思う夜が増えていった。

それでも朝は来る。

朝日がカーテンの隙間から差し込み、

僕はまた「大人としての僕」を演じた。


会社では、見習いに正しい手順を教えながら、上司からの圧を受けた。

本来なら相方が担当する仕事を、体調が悪いのに引き受けた日もあった。

仕事中に眠ってしまいそうになることもあった。

「これではいけない」と思っても、体は言うことを聞かない。

それでも僕は、翌日も会社へ向かう。

それは義務というよりも、もはや自分を保つための儀式のようだった。


何度も「僕の人生、なんだったんだろう」と思った。

それでも、歩みを止めなかった。

守るものがあるからではなく、

ただ、生きている限りは進まなければならないと思ったからだ。


そして今、僕は静かな夜の中にいる。

窓の外では秋の風が吹き、街灯の下を猫が横切る。

家の奥から妻の声がかすかに聞こえ、

胸の奥で小さな火がまだ灯っている。

「お腹が空いた」と思える火だ。

それは、まだ世界とつながっている証。

灰色の中に埋もれた、小さな橙色の灯。

僕はその灯を、両手でそっと包むようにして、深呼吸をする。


仕事も、家族も、仲間も、お金も、

全部を抱えてきた僕は、完璧ではなかった。

けれど、確かに生きてきた。

何度も立ち上がり、誰かを守り、何かを信じてきた。

それが僕の人生のすべてだ。


静かな夜の中で、僕は窓を開け、

遠くの山の稜線を思い描く。

ヘルメットの中で息を整え、エンジンをかける自分の姿を思い浮かべる。

そのイメージが、僕をまだ支えてくれている。


空は深い灰色で、

それでも地平線の向こうには、確かに光が見える。

それは希望かもしれないし、ただの朝焼けかもしれない。

どちらでもいい。

その光へ向かって、僕はまたひとり、

静かにハンドルを握る。

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