07 呪い
朝の光が窓を淡く照らしている。
静まり返った部屋の中で、ペン先がさらりと紙を滑る音だけが響く。
アメリアが筆を置いたのは、控えめなノックの音が扉を叩いたからだった。
「どうぞ」
柔らかな声に応じて扉が開く。
侍女のロザリーが、慎ましくもどこか緊張した面持ちで一礼し、手にしていた封書を差し出した。
「失礼いたします。お嬢様、リュストアからのお便りです」
「まあ、ありがとう」
アメリアはロザリーから封書を受け取ると、ふと封蝋に目を落とした。
群青の蝋の中に浮かぶのは、一輪の花。五枚の花弁が淡く光を帯びているように見える。
(これは確か、グラディアの花だったかしら?)
リュストア高原でしか咲かない、蒼紫の花。厳しい寒さの中でも春を告げるその花は、昔、地理誌で読んだ記憶がある。
アメリアはそっと指先で封蝋をなぞる。
とても可愛らしい。
「これが……リュストア公爵家の紋なのね」
アメリアは静かに微笑む。厳しい土地にも咲くというその花の姿が、どこかユリシスらしいと思えた。
(この花の刺繍でも覚えようかしら。新しい暮らしの始まりに、ちょうどいいわね)
そんなことを考えながら、ナイフを手に取り、封蝋をそっと割った。
便箋を広げると、整った筆致の手紙には装飾の言葉もなくただ一文だけが記されていた。
――二十日に迎えに参る。準備しておかれよ。
ユリシス・リュストア公爵
短く、けれど揺るぎのない文字。
アメリアはしばし視線を止め、指先で紙の端を整えた。
「二十日に公爵領からお迎えが来てくださるのですって」
封書を伏せながらアメリアが言うと、傍らのロザリーが目を瞬かせた。
「もうそんなに近いのですね。準備を始めますか?」
「いえ、明日は王宮へ参りますから、その後にしましょう。荷造りは落ち着いてからで十分よ」
明日は何があるかわからないし、二十日まではあと三週間程ある。
ドレス類は随分と換金してしまったから、持っていくものも多くはない。最低限の荷物しかないから荷造りにはさほど時間はかからないだろう。
父も調子が戻ってきて、弟の成長を見届けた――あとは、己の責務を果たすだけだ。
「ロザリー。王宮では、何があっても落ち着いて動くようにお願いね」
「承知しております!」
ロザリーは親指をびしりと立てた。
ものすごく頼もしいけれど、頼もし過ぎて逆にちょっと心配だ。
(明日が最後のようなものだし、気負わずにがんばりましょう)
アメリアは手紙をそっと箱に仕舞いながら、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべた。
***
翌朝、王都は淡い霧に包まれていた。
湿り気を含んだ風が吹き抜け、王宮へと続く石畳の道を静かに撫でていく。
馬車が止まり、アメリアは裾を整えて外へ降り立つ。その瞬間、門の前を一匹の黒猫がするりと横切っていった。
煤のように黒い毛並み、金の瞳――その猫は一度だけ振り返り、何かを確かめるように彼女を見上げてから、中庭の方へと駆け去っていく。
「あら、かわいらしいわね」
小さくつぶやいたアメリアの背後で、ロザリーが息をのんだ。
「お嬢様……縁起でもありません。王宮に入る前に猫が横切るなんて」
この国では、黒猫は不吉の使いと呼ばれている。古い伝承によれば、かつて災厄をもたらした魔女が黒猫を従えていたという。
それ以来、王都では黒猫が道を横切ると災いの前触れとされ、忌み嫌う者も少なくなかった。
「まあ、偶然でしょう。黒猫だって、朝の散歩くらいはするものよ」
アメリアは肩をすくめ、軽く笑って見せた。
あんなに神々しい生き物に不吉とかそうじゃないとかがあるわけがないのだ。猫は等しくかわいい。
(初めて見たわ。次も来るなら触ってみたかったのだけれど……残念ね)
あいにくアメリアはもう登城する予定がない。本当に残念だ。心から。
気を取り直して王城に足を踏み入れると、貼り付けた笑みを浮かべる王妃付きの侍女長が恭しく一礼した。
「アメリア様、お待ちしておりました。衣装室へご案内いたします」
「ええ、お願いね」
案内の侍女に続き、アメリアは静かに回廊を歩く。
「アメリア様の婚礼衣装はこちらにございます」
衣装室の扉が開くと、窓から差し込む柔らかな光の中に白色のドレスが一着、飾られていた。
「こちらが、ユリシス殿下とのご婚礼に向けての衣装でございます。殿下のお母様である第二妃様のもので――」
侍女の説明が響く。
アメリアは一歩近づき、その光景を見つめた。
(なんだかおかしいわ)
たしかに、形は美しい。銀糸の刺繍が光を受け、花弁のようにきらめいている。
アメリアはドレスに手を伸ばし、指先でそっと裾をつまむ。次の瞬間、糸がぷつりと音を立てて切れ、薄布が裂け落ちた。
「なっ……!」
ロザリーが息を呑んだ。彼女が裾を持ち上げると、銀糸の刺繍は途中で断ち切られ、裏地は裂かれ、縫い目の糸は引きちぎられている。
「お嬢様、これは……!?」
ロザリーの声が震える。だがアメリアは微動だにしなかった。
ゆっくりと膝を折り、崩れかけた裾の端を指先でつまむ。繊細な銀糸がほつれ、裂け目から薄布が垂れている。
(刃物……しかも、裁縫用ではない。勢いのまま引き裂いたような荒い切り口)
布の繊維のほつれ方から、明らかに故意だと分かる。わかり過ぎる。
「なんということでしょう。私が昨日確認した時は美品でした。厳重に保管しておりましたのに……どういうことなのか……! やはり、呪い……」
侍女長が悲痛の面持ちで告げた瞬間、アメリアの鋭い視線がまっすぐに侍女頭を射抜いた。
「呪いですって?」
低く、しかしよく通る声。
侍女頭の肩がびくりと跳ねる。
「呪いで布が裂けるというのなら、わたくしの屋敷はとっくに灰になっているでしょうね」
そう言って、アメリアはゆるやかに微笑んだ。
だが、その笑みはまるで刃のように冷たい。
(美しいドレスなのに、こんなことのために引き裂かれてしまって……)
十中八九、嫌がらせのためだ。指示した人が誰なのか、火を見るより明らかだ。けれど、まだここで取り乱す事はしない。
「こんな酷いことをする方は、探し出して罰しないといけませんわね。王族の衣装に刃物を入れたのですもの、極刑でしょうね」
アメリアは淡い困り顔を作りながら言った。相手の表情の機微を見落とさないように。
「お嬢様。こちらで侯爵家に持ち帰ってお直しをいたしましょうか。縫い直して差し上げます」
ロザリーがすぐさま前に出て、裂けた布をそっと抱えるように受け取った。声には怒りと護る意志が混じっている。
「ええ、ロザリー。けれど取り扱いには気をつけてね」
アメリアは布地の裂け目を指でなぞりつつ、低く告げる。言葉は柔らかいが、含意は重い。
「この時代の絹製品には、微力の毒素が含まれていることがあるの。古い繊維にそうした物質が混じっていると、乱暴に扱うと皮膚から吸収されて体調を崩すことがあるわ」
ロザリーは目を大きく見開き、思わず大袈裟に声をあげる。
「ええっ、そうなんですか!? そんなことが……!」
「切り刻んだときに繊維が皮膚や粘膜に入るのよ。だから、その方が健康を害していないか、心配でならないわ。可哀想に、毒素が回ってこれから症状が出るかもしれなくってよ」
「っ!」
アメリアが説明すると、侍女頭の顔色が悪くなった。一体どうしたというのだろう。彼女は美しいドレスしか見ていないはずなのに。
「承知いたしました。気をつけます!」
ロザリーは慌てて頷き、裂けたドレスを慎重に畳むように扱った。
「ロザリーは大丈夫よ。何かあってもわたくしはその毒への対処法を知っているから。文献で読んだの」
アメリアは付け加える。声を低くしてささやくように言う。侍女頭の顔に微かな狼狽が刻まれている。
「では……ドレスもこの有様ですし、わたくしたちはこれで失礼しますわ。この部屋の責任者は貴女? 管理が出来ていないことも残念ながら処罰の対象ですので、国王陛下にお伝えしておきますわね」
その言葉に侍女頭の頬がさっと青ざめた。そこまでは想定していなかったのだろう。
「こ、これは呪いでございます! 私には関係ありません、アメリア様!」
侍女頭の声が甲高く響いた。
アメリアは一歩だけ前へ進み、その顔を静かに見つめる。
「確かに、貴重な婚礼衣装を切り裂いた方がいらっしゃるのですものね。その方が責任を負うべきだわ」
「で、ですが、このドレスがこの有様なのも、呪いのせいで……」
「なにもかも呪いで押し切るのは不可能だわ」
ある意味頭が痛い。この調子であれば、何か起きる度に呪いだ不幸だと責任逃れをすることが常態化していたのだろう。
「呪いが好きというならば大丈夫よ。この衣装を切り刻んだ方は絹の呪いを受けるのだから」
にこりと微笑むアメリアのその優雅な一言が、まるで刃のように空気を裂いた。
「さ、ロザリー。もうこのお部屋には長居は無用ね。侯爵家でお直しをお願いしましょう」
「かしこまりました」
裾を翻して出ていくアメリアの後ろ姿を見送りながら、侍女頭は青ざめた唇を震わせている。
種は蒔いた。ドレスを引き裂いた者たち――アメリアが呪いをかけた者たちが、怯え恐れてどう動くか静観することにする。
管理の件についてはきちんと狸国王に伝える。彼は自尊心が高く見栄っ張りな性格であるため、不備を突けばすぐに行動に移すだろう。
(本当に、骨が折れますわ)
誰の差し金かは分かりきっているからこそ、毅然とした態度で臨まなければならない。
家に戻り、机に向かったアメリアは静かにペンを置き、ロザリーから受け取った封書を再び開いた。
何度見ても、そこに並ぶのはただ一行だけ。
「ふふっ……美辞麗句もなく、用件だけだなんて」
口元がふわりと緩む。
曲がりなりにも婚約者への文だ。もっと遠回しな言葉を並べ、形式を重んじた文を寄越すところだろう。だが、ユリシスの文面は驚くほど率直で、軍人の報告書のように簡潔だ。
それが、妙に心地よかった。
手紙を丁寧に畳みながら、アメリアはふと視線を落とす。
あの日――お茶会の前、王宮の庭園で彼と交わしたわずかな言葉を思い出す。
冷静で無口だが、誠実さが滲む声音。金の瞳に宿る真摯な光。あの人は噂で語られるような冷血漢ではなさそうだ。
(どんな場所なのかしら、リュストアは)
アメリアはそっと目を閉じ、疲れた身体を椅子に預ける。
「楽しみですわね」
誰にともなく呟いた声が、夜の静寂にやさしく溶けていった。
***
翌朝。
差し込む陽光の中で朝食をとっていると、ロザリーがそっと控えめに近寄ってきた。
「お嬢様……昨夜、王宮で少し騒ぎがあったそうです」
「まあ、また何かしら?」
「王妃殿下付きの侍女たちの間で、揉み合いが起きたとか。『絹の呪い』について口論になったそうでして」
アメリアは紅茶をひと口飲み、ゆるやかにカップを受け皿に戻した。
ロザリーの言葉は続く。
「どうも『誰があのドレスに触れたのか』で責任を押し付け合ったらしいんです。ひとりは手が腫れ上がったと騒いで……医師まで呼ばれたとか」
ふうん、とアメリアは軽く相槌を打つ。
淡い笑みが口元に浮かび、どこか満足げに紅茶を揺らした。
(やはり、あの話は効いたようね)
毒を含んだ絹――もちろん、すべてはデタラメ。けれど「呪われた布」という噂は、恐怖と罪悪感の中で勝手に膨れ上がる。
罪を犯した者ほど、見えない何かに怯えるものだ。
「侍女長に命令されたとか、王妃殿下の指示だとか、皆の前で責任の押し付け合いをする大騒ぎだったようです」
「まあ。それは大変」
「王宮から、解呪の方法についての問い合わせが来ておりますが、いかがされますか?」
ロザリーが悪戯っぽく笑う。わざわざ侯爵家に言付けるということは、呪いを受けたのはもっと身分の高い人――つまり、王妃自身も関わっているのだろう。そして、怯えているのだ。
「そうね……最も苦いと言われる薬草をお示ししましょうか」
「承知しました」
ロザリーと目で合図をしたあと、アメリアは視線を窓の外へ向けた。
(呪いがお好きな方たちにお返ししたつもりでしたけれど……これで少しは静かになりますわ)
今日も王都の空は青く、街路樹が静かに揺れている。
「ロザリー。紅茶をもう一杯いただける?」
「かしこまりました、お嬢様」
銀のポットから立ちのぼる湯気が、柔らかな朝の光に溶けていく。
嵐のような王宮の出来事が嘘のように、アメリアの朝は穏やかに始まっていた。
お読みいただきありがとうございます!
次回!ようやく!ユリシスと会います(長かった…)
引き続きよろしくお願いします!