06 グランディール侯爵家
グランディール侯爵家の奥にある寝室は、両親のものだ。
厚手のカーテンが半ば閉ざされた部屋の中、ベッドに横たわる父は顔色が悪く、浅い寝息を立てていた。
枕元には母が座り、濡らした布で侯爵の額を優しく拭っている。長年連れ添った夫婦らしい静かな気遣いが、その仕草のひとつひとつに滲んでいた。
(……無理をなさるから)
アメリアは扉口に立ったまま、ふたりの姿を見ていた。
没落しかけた家を立て直そうと、父はここ数年無理を重ねていた。詐欺に遭い、裏切られ、疲弊しきった末の発熱。結局のところ、その奔走は徒労に終わってしまっている。
「姉さん」
背後から声がかかり、アメリアが振り返ると、銀の髪を整えたエドマンドが廊下に立っていた。まだ少年らしさを残す顔立ちには、しかし複雑な笑みが浮かんでいる。
「父さんの具合はどう?」
「熱は下がりつつあるけれど、もうしばらくは寝込むと思うわ。お医者様も過労だと仰っていましたし、お母様が傍にいてくださるから心配はいらないわ」
医者の言葉を伝えるアメリアに、エドマンドは小さく頷いた。その横顔には、次期当主としての責任の色が濃く滲んでいる。
「そっか。良かった」
「エドマンド、あなたも顔色が良くないのではない?」
「まあちょっと寝不足ではあるけど平気。父さんが休んでいる間の業務は僕に任せて」
淡々と語りながらも、その声には確かな自信があった。エドマンドは既に父の代わりに領地と家の運営を背負い始めている。
目の下のクマは、彼の努力の証なのだろう。とはいえ、しっかりと休養は取って欲しいものだ。
「あなたはもうすっかり立派な侯爵様ね?」
アメリアが笑って言うと、エドマンドは肩をすくめた。
「年が明けたら僕も十八になる。ようやく爵位を継げる年齢だ。……それまでこの家を保てるか心配だったけど、なんとかなりそうだよ」
その声音は穏やかだったが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。
これは王国の法律で、いかに家督を継ぐ嫡子であっても、十八歳を迎えるまでは正式な当主とは認められない。
エドマンドが継ぐ前に侯爵家自体が解散しそうだったが、この度の王命のおかげでなんとかなりそうだ。
「……父さんを裏切ったカルディナ家とベルトラム家については、今後きちんと目にものを見せてやろうと思っているよ」
にこりと爽やかな笑みを浮かべながら、吐き出された言葉は冷たく鋭い。
かつては親しく交わっていたその家が、グランディール家を切り捨てたのは記憶に新しい。騙される父も父だが、騙した方が圧倒的に悪い。
「エドマンド、あなたも逞しくなったのね」
アメリアは頬に手を当て、しみじみと弟を見やった。
「小さい頃はひとりで眠れなかったのに」
その一言に、エドマンドの表情が一瞬で固まる。
「姉さん、それはもう忘れてよ」
「いやよ。かわいい弟の成長の一ページだもの!」
おっとりとした微笑みを浮かべながら、アメリアはからかうように瞳を細める。
「カーテンが風に揺れただけで『お化けだ!』って泣き出したの、今でも鮮明に覚えているわ」
「やめてってば……でもまあ、そんな僕もかわいくていいよね」
「まあ」
最後は開き直った弟の姿に、アメリアは思わず肩を震わせた。
だがその様子が頼もしくもあり、愛おしくもある。泣き虫だった少年が、今や侯爵家を背負おうとしている。
「エドマンドがいたら安心ね」
「……ありがとう、姉さん」
二人の間に、幼い日の思い出と、これから背負う未来の重みが重なっていく。
しばらくすれば父の体調も回復するだろう。
侯爵家の未来は揺れているが、少なくともこの弟ならば立て直すことができる。
「姉さんも来月からリュストアだよね。……急すぎて腹が立つけど、色々と準備するから」
エドマンドの声音には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
アメリアはリュストア公爵となったユリシスの元に来月嫁ぐ事になった。
通常ならば婚姻まで一年以上かけることもあるが、この早さでいくと何もかも決定事項だったのだろう。
呪われた王子と不要な令嬢――不安材料はさっさと処理したいという意図が透けて見える。
「まあ。あなたにまで気を遣わせてしまって、ごめんなさいね」
「姉さんが悪いわけじゃない。でも、もっと猶予があってしかるべきだろう。父上の体調もまだ万全じゃないし、侯爵家の立て直しだって山積みなんだ」
銀の髪を揺らして言い切る弟の横顔には、若さゆえの焦燥と、次期当主としての覚悟が入り混じっている。
「だからこそ、あなたがいてくださって助かりますわ。エドマンド。あなたが侯爵家を支えてくれるから、わたくしも心置きなくリュストアへ行けます」
「……姉さんは僕のことを買いかぶり過ぎじゃない?」
「ええ。あなたに侯爵家を立て直してもらったら、リュストア領での事業にも一枚噛んでもらえそうでしょう?」
「ふっ、なるほどね。それは光栄だ」
苦笑めいた声を漏らしながらも、エドマンドの瞳は揺るぎない光を帯びる。
そこでふと、アメリアはエドマンドが何かを後ろ手に持っていることに気がついた。
「ところで、エドマンド。その手にしているものは何かしら?」
「あ、これは……」
エドマンドが一瞬言葉を詰まらせ、気まずそうに眉を寄せる。その仕草に、アメリアはおっとりとした笑みを崩さぬまま首を傾げた。
「隠し事はなし、でしょう?」
「……姉さんには見せたくなかったんだけど」
ためらいながらも、彼は新聞を差し出した。粗末な紙に刷られた活字は黒々としていて、そこには大きく見出しが踊っている。
――"呪われた王子、ユリシス殿下。婚約者の家までも災厄に見舞う"
記事を目で追うほどに、アメリアの紅の瞳が険しさを増していった。
侯爵家の没落、当主の病――それらすべてを、ユリシスの呪いと断言している。
我が家が没落しそうなのは、父が事業に向いていないせいだ。無理が祟れば病気にもなるだろう。
(また……こんなことを……)
紙面を持つ手に力が入る。破り捨てたい衝動をぐっと堪えながら顔を上げると、エドマンドと目が合った。
弟は静かな瞳で姉を見つめていた。叱るでも宥めるでもなく、ただ何かを確かめるように。
「どうしたの、エドマンド?」
問いかけると、彼はふっと息をついて笑みを浮かべた。
「ううん、なんか安心したよ。姉さんは呪いなんて信じてないんだろ?」
「ええ、もちろん。そんなものはただの冷遇の口実でしょう」
アメリアがきっぱりと答えると、エドマンドの表情がやわらいだ。
「だったら大丈夫だよ。姉さんの底抜けの前向きさは僕も知ってるし。ああ、びっくりするだろうなユリシス殿下……いつか僕も一緒にお酒を飲もうっと」
エドマンドは今度は遠い目をしだした。全く、どういう意味なのかよく分からない。
アメリアは再度紙面に目を落とす。
父が病に伏せっていることを知っている者は限られている。わざわざそのことを記事にするのも、どう考えても意図的なものだろう。
(来週また王宮に招待されているのも、とっても面倒ですわね)
なにやら今度は婚礼用の衣装を仕立てるとかで、わざわざ王宮の衣装室へ出向かねばならないらしい。
結局は形式ばった口実で、また嫌がらせを受けることは目に見えている。
アメリアは小さくため息をつき、新聞をぐしゃりと丸める。すると、サッと現れたロザリーが流れるように回収し、すぐに燃やしてしまったのだった。
どうやったかは分からないけれど、廊下ではやめなさい。
・侍女の名前をエリス⇒ロザリーに改名しました