12 鍛練場
朝の光が厚いカーテンの隙間から差し込んでいる。遠くに鳥のさえずりが聞こえる。
どうやら、もう朝らしい。
アメリアはまどろみの中でゆっくりと瞬きをした。
視界に映るのは、王都の屋敷とはまるで違う天井模様だ。
(そうだったわ)
見慣れない天蓋の装飾や、窓辺に吊るされた淡いレースのカーテンを目にして、アメリアはようやくここが自分の新しい居場所――リュストア公爵領の城だということを思い出した。
昨日は長旅の疲れが溜まっていたのか、寝台に身を沈めた瞬間に眠ってしまった。
柔らかな寝具と静かな空気に包まれ、久しぶりに夢も見ないほどぐっすりと眠れたのだ。
(とっても整えられた部屋で驚いたのだったわね)
昨日、ユリシスがこの部屋に案内してくれた。
古城に到着したときと同じように、ユリシスがそわそわとした表情をしていたことを思い出す。
アメリアが喜ぶと、ほっとした顔をしていた。
きっと、アメリアのために心地よい部屋を用意しようとしてくれたのだろう。彼の心遣いに、胸があたたかくなる。
彼が古城を簡単に案内してくれる間、アメリアとロザリーは近くにいたのだが、他の者たちは随分と距離を取っていたように思えた。
(やはりまだ、何かありそうですわね)
アメリアはゆっくりと身を起こして背筋を伸ばすと、寝台の脇に掛けてあったショールを肩に羽織った。
春の朝とはいえ、石造りの部屋はひんやりとしていて、肌を撫でる空気が冷たい。
ゆっくりと窓の方へ歩み寄る。
外では朝靄がゆっくりと晴れ、リュストアの高原が淡い光に包まれていた。とても美しい眺めだ。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
ロザリーの声とともに、軽やかにドアがノックされた。
「ええ、ちょうど起きたところよ」
「おはようございます、お嬢様。朝のお支度をお手伝いしますね」
ロザリーが笑顔で入ってくる。両手には湯気の立つ洗面器とタオル、香りのよいハーブ水が入った小瓶を抱えていた。
「おはよう、ロザリー。とってもよく眠れたわ」
「それは何よりです。やはり、お城の寝具は上等ですね。羽毛がふかふかで……」
「ええ、とても心地よかったの。まるで雲の上にいるみたいだったわ」
「私に用意されたものもとても気持ち良かったです。向こうとは羽毛が違うのでしょうか」
「もしかしたら、この地域だけのものかもしれないわね」
アメリアは鏡台に向かいながら、ふかふかの寝具を一瞥する。あとでユリシスに聞いてみよう。
そう思いながら、アメリアは髪を整え始めるロザリーの手元を見やり、ふと問いかけた。
「ユリシス様はどうされているか、ロザリーは知っている?」
「旦那様は、すでに鍛錬場へ向かわれました」
「まぁ、こんなに朝早くから?」
「はい。カイルさんの話によると、毎朝欠かさず騎士団の皆と体を鍛えておられるそうです」
「そうなのね」
ロザリーは、どうやらカイルから事情を聞いていたらしい。
アメリアは思わず口元を和ませた。
騎士団というのは、王都を出るときに出迎えてくれた、あの陽気な一団のことだろう。
気さくで、穏やかで――ロザリー風に言うなら『ちょっと礼儀が足りないけれど憎めない方々』だ。
(そういえば、皆さん本当に仲が良さそうだったわね)
あの和やかな空気を思い出しながら、アメリアは小さく笑った。
彼らとユリシスの関係も気になるところだ。
失礼ながら、あの王妃の傘の下では、ユリシスに忠実な部下がつくとは思えない。
カイルのあの飄々とした態度もしかり、彼らが纏う雰囲気は貴族のそれとはまるで異なっている。彼らもアメリアと同様に『呪い』という言葉に動じていないように思えたのだ。
「ふふ。お嬢様、ご機嫌ですね」
「あら、そうかしら?」
ロザリーに指摘されて、アメリアは小首を傾げる。銀の髪がはらりと揺れ、朝日によって煌めいた。
「そうね。確かにわたくし、なんだかワクワクしているわ」
知りたいことがたくさんある。やりたいこともたくさん。こんなに伸びやかで晴れ晴れとした気持ちはいつ以来だろう。
ここにはフレデリックの不躾な視線も、王妃の棘を含んだ微笑もない。
ただ、清らかな朝の光と、静かな空気だけが満ちている。
「左様でございますか。お嬢様が楽しそうで、私も嬉しいです」
「ロザリーも色々と手伝ってちょうだいね?」
「もちろんでございます!」
「わたくし、鍛錬を見に行ってみたいわ。場所は分かるかしら?」
ロザリーは一瞬、驚いたように目を丸くした。
「……お嬢様が、鍛錬場へ、ですか?」
その声音には「まさか」という響きがあったが、すぐに納得したように肩をすくめ、柔らかく笑う。
「まあ……お嬢様がそうおっしゃるのなら、止めても無駄ですものね」
「ふふ、分かっているじゃないの、ロザリー」
「覚悟はしております」
ロザリーは使用人から聞いた屋敷の案内を思い出しながら、丁寧に説明を始めた。
「鍛錬場は中庭を抜けた先の、石造りの回廊を通ったところにございます。外はまだ寒いので、外套をお召しくださいませ」
「ありがとう。では、行ってみましょうか」
「はい」
ロザリーが全てを心得ているとばかりの顔をしている。アメリアはそんな侍女の表情に微笑みを浮かべながら、軽くスカートを摘んで歩き出した。
***
回廊に出ると、朝の冷たい風が頬を撫でた。
石畳の上にはうっすらと霜が残り、光を受けてきらきらと輝いている。
「おはようございます、奥様」
「おはよう。皆も朝からご苦労さま」
すれ違う使用人たちに声をかけると、一部の者は一瞬だけ目を丸くして、慌てて会釈を返してくる。
正式な婚姻証明書を交わしていないため、アメリアは実の所まだ公爵夫人ではない。
けれど、城の者たちはすでにそう呼んでいるらしい。
(あら……)
回廊の角を曲がったところで、アメリアはふと足を止めた。
床に膝を突いて磨いている小柄な少女の姿が目に入ったのだ。年の頃は十四、五といったところだろう。
腕は細く、顔色もあまりよくない。拭き掃除をしているというより、力尽きる寸前のように見える。
「おはよう。仕事熱心なのね」
アメリアが声をかけると、少女はびくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
「も、申し訳ありません、奥さまっ……!」
アメリアは穏やかに首を横に振った。
「いいのよ。そんなに怯えなくても。あなた、お名前は?」
「……リ、リーナと申します」
か細い声だった。
ロザリーが一歩前に出て、心配そうに少女を見つめる。
「リーナ、あなた顔色が悪いわ。ちゃんと食べている?」
「だ、大丈夫です……」
消え入りそうな声だ。拭き掃除をしていた指先はかじかんでいるのか、真っ赤になってしまっている。
「ありがとう、リーナ。あなたのような方がいてくださると、城が明るくなりますわ」
「そ、そんな、あたしはただ言われた仕事をしているだけで……」
「ただ、倒れてしまっては意味がないわ。今日はしっかり休養を取りましょう。食事も取っている? ユリシス様は下の者に不当な行為はしないはずだわ」
「お、奥さま?」
まんまるなガラスのような瞳が、アメリアを見上げる。
その目に映る驚きと戸惑いに、アメリアはそっと微笑んだ。
城に足りない人員は、町に募集を出したと聞いた。この少女は、きっとその中の一人なのだろう。
慣れない環境の中で、きっと無理をしているに違いない。
「ロザリー、あとでリーナがちゃんと休んでいるか確認してね」
「承知しました、お嬢様」
ロザリーが恭しく頭を下げる。
アメリアはもう一度リーナの肩にそっと手を置き、やさしい声で言った。
「頑張りすぎてはいけませんのよ」
「……はい。ありがとうございます」
リーナはか細い声でそう答え、深くお辞儀をした。
アメリアとロザリーはその場を後にし、回廊を抜けて歩き出す。
石畳を踏むたびに、遠くから金属のぶつかり合う音が聞こえてくる。
リュストアの冷たい空気に、剣の音が澄んで響いた。
「あれが鍛錬場かしら」
「はい。すぐそこにございます」
アメリアは軽くスカートの裾を摘み、足取りを速めた。
その表情には、好奇心とほんの少しの緊張が混じっている。
そして、石の回廊を抜けた先――剣が閃き、声が飛び交う広い鍛錬場の光景が広がった。
石造りの壁に囲まれたその空間では、十人ほどの騎士たちが訓練をしている。
そして、その中心にユリシスがいた。
黒髪が風を切り、金の瞳が朝光を反射する。
剣を構える姿は研ぎ澄まされ、まるで舞のように美しい。
(これが、彼が武神と呼ばれる所以なのね)
彼の動きに合わせて、鍛錬場の空気が凛と張り詰めていく。
「あっ、奥さまだ!」
「本当だ!」
「奥さまー!」
赤髪のカイルが振り返り、ぱっと笑顔を浮かべる。
その瞬間、周囲の騎士たちの視線が一斉にアメリアへ向き、またあの時のように親しげに手を振ってくる。
アメリアはそれに応えるように皆にひらひらと手を振る。
目を丸くしたユリシスともぱっちりと目が合い、思わず柔らかく微笑んだ――その刹那。
風がふっと動いた。
そして次の瞬間には、ユリシスが目の前に立っていた。気配を感じる間もなかった。
(まあ、全く見えなかったわ)
アメリアは思わずまばたきを繰り返す。
周囲の騎士たちも驚いたように顔を見合わせていた。
「……アメリア。ここは危ない」
短く静かな声。
ただそれだけで、空気がぴんと張り詰める。
「ユ、ユリシス様!? い、今の何!? いや絶対おかしいっす!」
カイルの慌てた声が聞こえるが、アメリアの視界はユリシスで覆われていて、鍛錬場の様子がまるで見えない。
「おはようございます。ユリシス様」
周囲を警戒するユリシスに、アメリアはまた花が綻んだように微笑んだのだった。
プライベートがあれこれ大変なことになったため、しばらく更新遅れます。申し訳ありません…!




