11 古城
あれから馬車はなんとかぬかるみを越え、さらに山道を登った。
先ほどまでいた場所よりも、ずっと高台だ。空気が澄んでいて、吐く息が白い。
トラブルのせいで到着が予定より遅れ、既に日が落ちかけている。
(それでも、こうして無事にたどり着けて良かったわ)
車輪が石畳の上で止まると、御者の声が響いた。
扉を開けた瞬間、澄みきった冷気が肌を刺すように流れ込んでくる。
春の夜が冷えるとはいえ、やはりリュストアは格別だ。空気が張りつめている。
母から託された藍色のコートの厚手の生地が、その冷気をやわらげてくれていた。
「アメリア、こちらへ」
ユリシスの低く静かな声が響く。
差し出された手は冷たく、それでいてどこかやさしい。
もう躊躇されないことに安堵しながら、アメリアはその手を取って一歩外へ出た。
「まあ……」
見上げた先にあったのは、夕暮れの光を受けて金色に染まる古城だった。
日が落ちかけた空にはまだ淡い茜が残り、重厚な石造りの壁がその色を映して柔らかく光っている。
幾つもの尖塔が空に突き立ち、風を受けて旗がゆっくりとなびいた。
古びてはいるが、どこか誇り高く、美しい。
長い年月を経てなお凛として立つその姿に、アメリアは思わず息を呑む。
(なんて美しいのかしら)
絵画で見るよりもずっと壮大で、迫力がある。
確かに王宮や貴族の屋敷のような華やかさはないが、この凛とした佇まいは唯一無二のものだろう。
「……ここが、リュストア城だ」
ふとユリシスの方へ視線を向けると、彼はどこか落ち着かない様子だった。
指先をわずかに動かし、何かを言いたげに唇を結んでいる。
(緊張していらっしゃるのかしら?)
そんな彼の様子に、アメリアは小さく微笑んだ。
「とっても素敵なお城ですわね。わたくし、ひと目で気に入りました」
「そうか……!」
アメリアの一言で、ユリシスの表情がぱっと明るくなる。
金の瞳に一瞬だけ柔らかな光が宿り、冷たい空気の中でその笑みがやけにまぶしい。
心なしか、犬の大きな尻尾がブンブン振られているように見えて、アメリアはまた笑んでしまう。なんともかわいらしい。
「うわぁ〜! 良かったっすね、ユリシス様!」
騒がしい声が響いたかと思えば、赤髪の側近、カイルが大げさに両手を上げて喜んでいた。
「カイル、静かにしないか」
「だって奥さまが褒めてくれたっすよ!? そりゃ嬉しいに決まってるっす!」
「……それは」
「いや〜、良かった良かった! ヒッ、じゃあ俺は荷物運びにもに戻るっす……戻るます!」
急に姿勢を正したカイルが、変な敬語を口走ったあとに脱兎のごとく走り去る。
見れば、荷物の馬車のそばでロザリーが腕を組み、鋭い眼光を向けていた。
どうやらその視線が効果抜群だったらしく、カイルは慌ててそちらへ向かっていったようだ。
(ロザリーったら)
相変わらず、カイルの言動に目を光らせているらしい。アメリアは思わず、くすくすと笑ってしまう。
その笑い声に気づいたユリシスが、ふと視線を落とす。
「カイルがすまない」
「いいえ、とても楽しいですわ。中はどうなっているのかしら。ユリシス様は全部知っていますの?」
「ああ。初日に必要なことは全て把握している」
「やはり、秘密の通路などあるのでしょうね。わたくし、小さいエドマンドに色々読み聞かせましたのよ」
実際には歳の差はほとんどないけれど、アメリアはお姉さんの役割が好きで、色々と世話を焼いていた。いつまでもかわいいエドマンドである。
「君にも、いずれ全て説明する」
「はい、楽しみにしています」
アメリアの声色に、好奇心が滲む。その言葉を合図にするように、古城の重厚な扉がゆっくりと開かれた。
中へ足を踏み入れると、思っていたよりも明るい。
壁際にはランプがいくつも灯され、石造りの廊下には絨毯が敷かれている。
「お帰りなさいませ、公爵様!」
「ようこそいらっしゃいました、公爵夫人様!」
声を揃えて出迎えたのは、十名ほどの使用人たち。老齢の執事から、まだ年若いメイドまで、皆が整った所作で頭を下げる。
アメリアは驚いて目を瞬いた。
――その中に、見覚えのある顔がいくつもあったからだ。
「あなたたち、まさか」
アメリアの小さな声に、年配のメイドがうれしそうに頷いた。
「はい、お嬢……いえ、アメリア様。リュストア公爵様が声をかけてくださって……」
侯爵家の財政難により、泣く泣く解雇した使用人たち。
もう二度と会うことはないと思っていた者たちが、こうして再び彼女の前に立っていた。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「そうでしたの。あなたたちが元気そうで何よりですわ」
微笑むと、旧知の使用人たちが頭を下げた。
彼らがどう暮らしているか、アメリアにとって気がかりな部分が大いにあった。次の仕事を斡旋出来るほどの力がなく、出来たのは退職金をいくらか渡すことだけ。
まさか、こうして辺境の地に来ているなんて。
アメリアはゆっくりと振り返り、ユリシスに向かって一歩進み出た。
使用人たちの再会の喜びに胸がいっぱいになりながら、深く頭を下げる。
「ユリシス様のお心に、感謝いたします」
「こちらも、優秀な使用人が見つかって助かった。……君の暮らしに苦労をかけたくはないから」
ユリシスはわずかに視線を逸らすと、最後にはいつものように無表情へと戻ってしまった。
だが、アメリアには分かった。
その淡い声音の奥に、確かな優しさがあったことを。
(さて、元侯爵家の使用人以外の方もいらっしゃるようね)
アメリアは出迎えに来た使用人たちを笑顔で眺める。まずは彼らの身元をしっかり確認する必要がある。
以前、ユリシスはアメリアにお飾りの立場を求めている訳ではないと言った。
だとすれば、女主人としての仕事を全うする必要がある。
(まずは、この古城を管理しなくてはね?)
王都では、誰かに守られるだけの立場だった。
けれど今は違う。リュストアの公爵夫人として、彼の隣に立つ者として、自分の手で形を整えたい。
勝手に幸せになるつもりだけれど、ユリシスも巻き込んでいけたらいい。
「みなさまごきげんよう。今日からよろしくお願いいたしますね」
凛とした立ち振る舞いでありながら、声は殊更柔らかく。
公爵夫人となる令嬢のその立ち姿に、使用人たちは一斉に頭を下げたのだった。