二話 主人
背中を引っかかれる小さな痛みで意識が覚醒した。微かに霞む視界に映るは陶磁器のように真っ白な腕で、どこかで見たなと記憶を探って掘り返そうとしてみる。その間も気だるくて指一本動かせない体ながら、背中を移動する痛みだけは嫌にはっきりとしている。
「キゥ」
・・・キゥ?
ゆっくり、それこそ虫が止まっていても逃げないほどの速度で頭を動かし赤い瞳をそれに向けた。相変わらず視界はぼやけているが小汚い茶色の生物が背中に圧し掛かっていることだけはわかった。
「ッ!キュウゥー!!」
目・・・なのだろうか。不思議そうにこちらを覗いていた金色のそれと目が合い、驚いたらしい生物はぞわりと毛を逆立てて金切り声を上げた。が、私の背中から一歩も動こうとしない。
月色の瞳・・・ああ、どこかで見た気がする。美しく気高く、いくら手を伸ばしても届かなかった―――。
「ッ!ッ!キュキィィ!!」
がりがりと爪を立てて小さな攻撃を仕掛けてくるそれ。小汚くてぼさぼさの雑巾のようにしか見えぬというのに、なにやら惹かれてしかたがない。ふ、と自然に笑みがこぼれる。なぜか少し痺れる体をゆっくりと動かして仰向けに転がりなおす。背中に乗っていたそれは当然落ちることになり、短い悲鳴らしい声をあげてコロコロと転げ落ちた。普通の野生動物ならここまでされれば逃げても当然だが、こいつは逃げないだろうなと思った。
「―――ぉまえ・・・」
出した声は酷く掠れていた。そういえば喉も渇いているし、腹も減った。このぶんだと二、三日は飲まず喰わずで倒れていたようだ。
生物は警戒はしているものも、やはり逃げなかった。転がり落ちたそこでぱっと姿勢を正して、綺麗な瞳で此方を覗き込んでいる。
「お前、独りか」
仰向けになることで漸く周りがよく見えるようになった。陶磁器のようだと思った腕は人を模した機械だったようで、青い液体とともに大量に散らばっている。だが全てが機能停止しているようで、動く生物は私とこれだけだ。
金色の瞳を見て、すこし思った。ぼさぼさの汚い体ではあるが、瞳だけはらんらんと生気を燈して輝いている・・・しかしその瞳もどこか少し寂しげだった。ここに散らばる無機生命とは違う体温を持った私を見つけて、思わず此処に留まったのだろう。
「キュウ」
言葉がわかるのか、それとも声に反応しただけなのか。動物は不思議そうに一鳴きし、ふと此方に近づいてくる。子犬のような体躯を小刻みに揺らしてそれは私の顔に鼻先を寄せて、頬を暖かい舌で何度も舐めた。労わるように優しく、瞳は少し影を落としていた。
「キィュ」
腕を伸ばして撫でてみると驚いたように体を跳ねさせるが、“仕方ない”とでも言うようにじっと触らせていた。その様子にふてぶてしいものも感じるが、金の瞳が影とともに温かい色を示しているのを見てどうでもよくなった。
ああ、私はこの色に弱いようだ。
しばらく続けているとだんだんと体の機能も戻ってきた。痺れていた体も少しほぐれ、力も入る。ぐっと体を力ませて立ち上がると顔を舐めていたそれは後ろに飛びのいて離れた。
「・・・動くな。特に異常も、ない」
頭が猛烈に痛いだけだ。
腰に挿していたはずの愛刀は足元に二本並んで落ちていた。それも拾って確認するが、二振りの刀は鋭く光りを反射させただけで何処も異常は認められなかった。心地よい鍔鳴りの音を聞きながら鞘に収めて改めて辺りを見渡すと、荒んだ野に私を中心として大量に転がる無機生命。遠くを見渡すが地平線が見えるばかりで集落は見当たらず首を動かして探すがやはり何もなかった。
「ッキ!キィゥ!」
がりがりと私の革靴を引っかくそれに、目を向けるとそれは先よりも目を輝かせて見上げてくるではないか。・・・無言で数歩歩くとトテトテと足を踏み出して付いてきた。
「・・・私と、くるか?」
無論聞かずとも付いてきたのであろうが、それは嬉しそうに声を上げた。
仕方ないと笑みを零してしゃがむと、さっきまでの警戒はどうしたのだと言いたくなるほど無邪気に飛びついてきた。どうやら気に入ったらしく頬を盛んに舐めて高い泣き声を上げて甘えてくる。よほど独りが寂しかったのか。
「お前に・・・名をつけようか?」
「キィウ!」
即座に鳴き声を上げるそれ。実は本当に言葉がわかっているのではないのか?
少し私から離れてちょこんと座るそれに見合う名をつけようと暫し悩む。
と、そこで自分の名が思い出せないことに気が付いた。そして同時に危険な雰囲気を持つ少女と激しい痛みも記憶から掘り起こされた。
先ほど収めたばかりの腰の刀の一本に手をやり一気抜き放ち同時に周りを警戒する。さきほども見た風景となんら変わりはないが、背中が勝手にぞわぞわと逆立つ。
―――いつかまた会いましょう
さらりと流れる長い黒髪。ぎこちないが艶やかでほのかに邪悪を滲ます笑み。
―――その時はいっぱい遊んでね?
刀身に指を這わせた。指先は冷たい刀に触れていても心まで冷してくれることは到底なかった。
ドクドクと脈打つ心臓が痛い。あれから記憶を取り返さねば、私は・・・死ぬのだ。少女は【ペルソナと同化する】と言っていた。それは、私という存在が消えると同意義なのだ。
あのお方を護り切れぬまま、ここで果てると?
またあのお方に死んだような瞳をさせると!?
あの人がどこかで泣いているかも知れぬのに助けに迎えぬと・・・!?
そのようなことは決して許されぬ!!
「キィィウ!!!!」
痛みが足首を襲った。“っっ!?”と声を漏らしそうになり反射的にそれを蹴り上げようとするが、寸での所で正気に戻ることができた。
また、月色の瞳に囚われた。
・・・そうだ、私は帰らなければならない。あのお方の下へ、あの人の隣へ。
自らが思考でなぞった人がどんな人物かも塵のように微かにしか思い出せぬが、本能が悟る。
立ち止まっている場合ではない。何を犠牲に払ってでも、悪魔に身を売っても、あのお方を護ると誓ったのだ。この誓いだけは・・・消して忘れない。奪われてたまるか!
「すまない―――」
金の瞳を目一杯に見開いて、黒い物に囚われかけていた私を懸命に引き止めるそれにそっと手を伸ばした。先ほどの弾みで少し切ったらしい指先に血が筋を作るが、それでもソレに触れたかった。
「ありがとう」
満足げにそれは目を細めて私の手を真っ赤な血ごと舐めた。
「シウメント―――誓い、という意味だ」
私の【誓い】として付いてきてくれまいか?
月色の瞳が刹那輝いた気がした。
「キィウ!!!」
ソレ・・・否、シウメントは歓喜に鳴いた。
生まれてすぐ親に捨て置かれ、体が小さいために何度も死に掛けた。それでも生き残れたのは己の特異な種の能力のお陰。独りでこの荒野を練り歩き、栄養分を探し、生き抜いてきた。しかし、もう孤独ではない。
己が捜し求めた・・・主人が出来たのだ!
シウメントは身じろいだ。先ほど頂いた主人の血が体で蠢いているのがよくわかる。力が、増してゆくのだ。魔力は十分にある。この小さな体では主人のために動きにくい。主人と同じ人に、人型になろう。その赤く美しい人の隣に立てる人になろう。
次の瞬間シウメントは魔力を開放した。
「主人!シウメントはこの身をあなたために、そしてあなたの【誓い】のために生きましょう!」
茶色の長い髪に月色の瞳、端整に整った顔に少年らしい体躯。シウメントは人型をとって先ほどと同じく自らの主に飛びついた。