一話 微笑
意識がぼんやりと覚醒した。
青く粘着性のある液体の滴る自らの両の手を空に翳し眺めていた。少し頬が冷たいのは手に付いた雫が落ちたからだろう。ああ、どうやら長い間呆けていたようだ。上を向いたままだった首が軋むように痛んだ。
余計な刺激を与えぬようにとゆっくりと頭を降ろしていった。そして、目の前に広がる光景に思わず言葉を呑むことになる。
「・・・コレは・・・?」
尋常でないほど擦れた声を発した自分にまた驚くと同時に、たくさんの疑問が頭の中に洪水のようになだれ込んできた。
此処はどこだ?こんな荒野私は見たことが無い。
コレは一体なんだ?人型をとる明らかな無機生命たち。
私が壊したのか?それらから流れる液体は自らの全身にも等しく掛かっている。
私はここで何をしていたのだ?そもそもどうやって此処にきたのかさえも覚えていない。
ああ、そして一番大きな疑問。
私は、だれだ?
混乱する思考がやっとそこまで追いついた時、ふいに頭を掠める親しい人達の笑顔。
闇夜に浮かぶ満月。極限まで痛めつけられ動かない自らの幼い体。殆ど見えない霞んだ視界の中で映った幼いあのお方の姿・・・。
ああ、あのお方は誰だ?そのお方のためなら自らの命をも惜しみなく差し出せるほど大切なお人だったはずなのに。覚えていないことがこんなにももどかしいだなんて。昔は何度も何もかも忘れたいとすら思っていたのに・・・。
昔に思ったであろう感情だけが体に残り、それに伴う記憶を持つはずの頭は・・・霧のように朧気で儚い残骸しか残っていない。
「私は一体何者なんだ―――っ!!」
殆ど声にならない悲痛な声で吼える。誰かがこの声に気付いてくれるようにと。
ガキュッ、と何かが弾ける音がした。自分以外の全てが無機物だった世界にはあまりにも場違いな音。思わず腰に下げた両刀の柄を握り振り向くと、そこには先ほどまではいなかった白いワンピースを着た可憐な少女が立っていた。
私の咆哮を聞いて駆けつけた・・・?
否、早すぎる。この荒野を前に一瞬で移動などできようはずも無い。少なくとも、なんらかの音が聞こえているはずだ。・・・では、これは一体何者だ?
刀を抜き両手に構える。見たこともないはずのそれらはしっかりと体に馴染み、頭は覚えていないが体は攻撃態勢を取った。なんと気持ちの悪い、追いついていないのは頭だけではないか!
ざあ、と風が私自身の長い髪を悪戯にかき混ぜた。そうだ、混乱している場合ではない。ここで死んでしまえば何もかもが終わるのだろう。
「・・・何者だ?」
答えによれば無事ではすまない、殺気と意図を乗せた静かな問に彼女は返さず何の感情も浮かべない無機質な表情で一歩此方に踏み込んだ。体重を感じさせない軽やかな足取りにも関わらず、踏み出された右足の下敷きになった無機生命はグシャリと簡単に潰れた。
二、三歩進むと彼女は立ち止まり自らの細い脚の下で潰れる無機生命に目を向ける。不思議そうに首をかしげ、むき出しの白い足の裏で見るも無残に変形していくそれを拾い上げた。
「―――ぇあ?、こ、れ・・・あ?」
片手で潰れた人を模した頭を掴み、もう片方で愛らしく口元を押さえて言葉を発する異様な光景に尚警戒を強める。本能が語る・・・こいつはヤバイ、と。
言葉を発する方法を理解していなかったかのように、彼女は動く唇に手を当てる。それから細い声を発しながら唇の動きを手で追い、少しずつ意味の伝わる言葉に代わっていく声に満足そうに何度か小さく頷いた。
「これ、は?なに?」
そんなの私が聞きたいほどだ。
自然、刀を握る手に力が入る。目の前に対峙する脅威となるソレに怯えなど見せてはいけないが、だからといって真っ向に何かを仕掛けるわけにはいかない。幸いにもソレは今の所私に危害を加える様子は無い。うまく切り抜けるのが得策か。
「私にも、わからない。お前は何だ?」
「わたしにも、わからない。おまえはなにものだ。・・・わたしは、ぺるそな。そして、こあ。なまえはまだない」
私の言葉を口に出して漸く反芻できたのか、ゆっくりと片言の言葉で答える少女。
「おまえは」
そこで言葉を切りじっと此方を見詰める少女。意味が分からず答えられずにいると彼女は同じ言葉を繰り返す。どうやら疑問系で“お前は?”だったようだ。正しく言うと“お前は何者だ?”だろう。
「私は・・・わからない。お前と一緒だ、今は名はない」
自然に笑みが零れた。自嘲の笑み。少女はまたもや不思議そうに首をかしげたが、表情がないためか薄っぺらい行為に思える。せめて眉を寄せるぐらいはしてほしいものだが。
少女は唇の端を両手で引き上げようとする。が、右手に持った頭部が邪魔だったためソレを投げ捨てた。ガツッと重たい物が落ちる鈍い音が響き渡る。
「お前はあの人と同じくらいの年だな。・・・何故なんの表情も無い?」
口からふと飛び出た言葉に微かに動揺する。口走った“あの人”とは、一体誰のことを指すのだろうか。
少女は小さく目を見張った。表情が少し出てきたな。桃色の唇から手を離し先よりも早い歩調で接近する。その目に僅かな殺気を込めて。
「わたしは、ペルソナ。コア。せかいに10体。わたしは10体目。おまえをもとにさっきせいけいされた」
“おまえをもとにさっきせいけい”・・・?
私を元に成形された?
「言葉もさっきおまえからうばった。頭はわかっても体がやり方をしらないから、少し失敗した。おまえの記憶を元にわたしという存在は完成した」
どういうことだ?
少女の目は先ほどまでの呆けた様子は微塵もなく、肉食獣のように獰猛に鋭く光り、瞳孔は爬虫類のように細長い。
破壊音がすぐそこまで近づき身の危険が迫っているというのに、少女の瞳に釘付けになっているなど・・・なんと間抜けな!
「だけど、全部の記憶を吸収できてない・・・もう一度するべき・・・?」
・・・記憶を吸収する?
残されたこの霞がかった朧の記憶でさえ奪うというのか。大切な大切なあの方達との記憶を、これ以上他人に暴かれて穢されてはたまるか!!
瞬間、恐怖や畏怖などという感情はどこかへすっ飛んでいった。あるのはただ理不尽に奪取してゆこうとする少女への怒りのみ。かように無垢で可憐に見える少女に刃を向けるなど本来あってはならないが、あのお方達との記憶を穢そうものなら、容赦なく破壊しなければならないだろう。
怒りに呼応するように両の手に握られた刀がドクンと脈を打ったような気がした。
「それ以上近づけば、斬る」
彼女はピタリと歩みを止めた。しかし私の殺気に恐れをなしたわけではなかった。
ふわり とぎこちなさの残る表情で、彼女は笑った。
「今はまだいい。お前はおもしろそうだ」
くるりと踵を返す少女。斬らなければ、壊さなければならないのに体がそれを許容できない。自然口から悲鳴が上がる。それでもどうにかして彼女を仕留めんと一歩踏み出したが、そこで膝を折って崩れ落ちてしまった。刀を取り落とした両の手で掻き抱くように頭を押さえる。
痛いなんて言葉で言い尽くせない。痛みに慣れる事を許さないように強弱のある強烈なそれが胸を、頭を、全身を駆け巡る。生半可な痛みなど通用しない屈強な体が此処まで痛めつけられようとは。
「それは副作用。ペルソナから記憶を奪われた者は、期限内に取り戻さないと死ぬ」
破壊音が遠ざかっていく。彼女が離れていっているのか、私の意識が薄れていっているのか判別はつかないが、少女の細く美しい声だけはしっかりと頭に焼きついた。
「いつかまた会いましょう。その時はいっぱい遊んでね」
破壊音が完全に消え失せるのと同時に、私の意識は深い闇の中に沈んだ。