326 幸せなんだよね
「帰りたいと思ってないって……どういう」
まったく、本当にまったくもって意味が解せずに私は困惑一色で聞き返す。
だってそうでしょ、元の世界に帰りたがらないなんて……そんなのあり得る? そりゃ、こっちの世界が嫌ってこともないよ? ご飯は美味しいし人は優しいし、魔力や魔術の存在も魅力的だ。こっちで学んだそれらを操る技術が女神の忘却発言からして──忘却がなくたってたぶん持ち越しはできなかっただろうとは思うけども──綺麗さっぱりになくなってしまうっていうのは、私も惜しくはある。戦闘のために、つまりは生き抜くために学んだ技術だってのは置いておいて、やっぱり魔力を纏ったり操ったりするのは純粋に楽しかったもんだからさ。糸繰りとかもね。
こっちの世界の人たちとの交流も含めて、こっちにしかない魅力ってのもいっぱいある。それもあって残留してでも世界を、人類を守るためにもういっちょ戦ってやろうって決意したんだからそこに嘘はない。もしも元の世界とこっちを自由に行き来できるっていうなら最低でも年一でバカンスに来たいってくらいには気に入っている。もはや第二の故郷とさえ言ってもいい。
だけど、だけどだ。どちらかを選ぶとなったら……どちらか一方の世界でしか暮らせないとなったら私はもちろん、元の世界を選ぶ。そこに迷いはない。こっちに対する未練はあったとしてもだからって天秤にかけたりはしない。当然だ、だって私の世界はあくまでも元のほう。こちらは私の住む世界じゃない。どんなにこちらを気に入ったって外様でしかないんだ。元の世界の何もかもを投げ打ってこちらに骨を埋めようなんて、そんなこと思うはずもない。
ない、のに。私の認識では間違いなくそうで、そして皆も、カザリちゃんも同じだと思っていた。だけど今、否定された。それは私にとって常識が根底から覆されたような衝撃だった。
いや、プライバシーに配慮して(そしてなるべく目の前の戦いに集中するためにも)これまで仲間内だろうと元の世界での自分について話すことはあまりしてこなかったけど。私が一方的に家とか学校でのことを話すくらいのものだったけれど。だからもしかしたら元の世界にあまり良い感情を残してきていない子だっているかもしれないとは、なんとなく想像したりもしていたけれども。
ほんの断片的にだけどシズキちゃんが元の世界で辛い体験をしてきたらしいってことがわかっているだけに、余計にそう思ったりもしてきたけどさ──だからって帰還を望まないなんてことがあるとは夢にも思っていなかった。どんなにあちらが辛くて、こちらにその辛さがないからって、こちらにはこちらの辛さもあるし、あちらにはあちらにしかない大切なものだってあるはずで……だから、選ぶなら元の世界しかないと。
そう思い込んでいた私は、ひょっとして。
「幸せなんだよね、ハルコは」
「!」
苦笑めいた小さな笑みと共に吐き出されたその言葉。固まる私に、カザリちゃんは緩やかに首を振って続けた。
「元の世界に居場所があるのなら、それはいいこと。でもあなたがそうだからって私たちも同じだとは限らない……そうでしょう? 勘違いしないでほしいけど、これは僻みでも妬みでもない。ただの事実を話しているだけ。私は殊更に向こうに戻りたいとは思っていない。ここに残るべき理由があるなら躊躇わずに残れるし、残りたい。本心からそう言っているだけ」
「……皆は? 皆もそうなの? 別に、元の世界に帰りたいとは思ってないの」
淡々と言い終えたカザリちゃんにどんな言葉を返せばいいのか私にはわからなかった。だからひとまず彼女と同じ気持ちでいる人が他にもいるのかと確かめる。すると、順に目を合わせていった三人が三人とも、どこか気まずそうな表情になった。私は愕然とする。
「コマレは……はい。恥ずかしい話ですが、あちらには仲のいい友人とか、いないものですから。家族の仲もちょっと、あまり良好ではないと言いますか……少なくともこの場にいる皆さんほど『一緒にいたい』と思える人とは、出会ってきていません」
言いにくそうにしながらも、言う必要があると思ったのだろう。意を決したようにコマレちゃんはそうプライベートについて初めて教えてくれた。その内容はお世辞にも明るいものとは言えなくて、言い終わってコマレちゃんは目を伏せてしまう。
「わ、わたしは」
と、コマレちゃんに触発されたのか、シズキちゃんも身を切るような覚悟の顔で口を開いた。
「実はその、不登校で。ひ、引きこもり……なんです。イジメに遭ってから、何もできなくなっちゃいました。お父さんと、ショーちゃんだけが、わたしの味方でいてくれたけど……もういないんです。わたしには、わたししかいないんです。あっちに戻ったら、また一人ぼっちになっちゃうんです」
そう言ってシズキちゃんも、ベッドの上の自分の膝を見つめるように視線を落としてしまう。何か彼女の力になるような言葉をかけてあげたかったけど、どうしたって無責任な慰め方しかできそうにないと思って私はそれをぐっと飲み込んだ。そして代わりに、ナゴミちゃんへ声をかけた。
「ナゴミちゃんは、どう? 帰りたいか……帰りたくないか」
「ウチ? ウチはねぇ」
シズキちゃんに寄り添うような目を向けていた彼女はそう問われて、「うーん」とちょっとだけ考える素振りを見せたあとに。
「ウチもね、学校には行ってないんだ。そもそも進学してなくって」
「えっ?」
「ほらウチ、ハルっちほどじゃないけど身長高いほうだし、体付きもちょっとだけ大人びてるでしょ? だから十七歳って嘘ついて住み込みで働かせてもらってるんだ~。絶対バレてるとは思うけど、そこにはウチみたいな子が他にもいてさ~。寄合所みたいになってるんだよねぇ。やー、探せばそういう場所もあるもんなんだなぁって驚いたよ~」
「…………」
今度こそ私は本当の意味で言葉を失った。頭の中まで真っ白になるような、自分の内側から何かが抜け落ちていくみたいな感覚だった。
ちゅ、中学に通っていないって……現代日本でそんなことがあり得るのかって疑問が激しく渦巻くけど。でもここに、まさにその境遇にいる張本人が実在しているんだからあり得るってことだ。何よりナゴミちゃんがそんな嘘をつくだなんて、それこそあり得ないことなんだから信じる以外にはない。
確かにナゴミちゃんは、いつものほほんとしているからちょっとわかりにくいけど、真剣な顔付きになったときはかなりキリッとした美人さんだ。そしてスタイルも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるグラマラス系。確かに、黙っていれば高校生くらいには見える。もっと上にも見間違う人がいても不思議じゃないかもしれない。
だから年齢を偽って働く、っていうこともできはするのかもしれない……身分証とか出せないわけだからナゴミちゃんの言う通り、職場のほうも協力してくれているからこそ非合法なそれが成立しているんだろうけど。なんにせよ壮絶だ。人一倍に朗らかで明るい彼女の実生活がそんなに大変なものだったとは、まったく想像もつかなかった。
だけどそういえばナゴミちゃん、女神の真っ白空間で初めて顔合わせした際、一人だけすやすやと眠っていた上に制服姿じゃなかったな。普通に寝間着だった。あのときは「大物だな」ぐらいに思ってそこまで気にもしていなかったけど、今になって振り返ればそれは彼女だけが「着るべき制服を持っていない」ってことの証だったのかもしれない。だって不登校で、おそらく連れ去られたときにも制服を着ていなかっただろうシズキちゃんにはしっかりとそれを身に纏わせているんだからね、女神のやつ。
そう思うとあのときのシズキちゃんは状況だけじゃなくて自分の恰好にも戸惑っている様子だったな……なんか、ちょっとした疑問に次々と答えが出ていくぞ。気付き方が気付き方なだけにちっとも気持ちよさはないけども。




