204 勇猛か無謀か
鼻から漏れ出た血を乱雑に拭い、ハルコは感嘆を胸にする。
本気も本気で挑み、あしらわれた。まったくもって通用しなかった。その事実に歯噛みしつつも尊敬の念が湧き上がる。
シュリトウの格闘技術はハルコからすれば異次元のそれだった。変幻自在にして柔軟兼在にして攻防一体。掴みどころがなく流れ、いなしと返撃がほぼ同時に行われる。同じ二本の腕で打ち合っているとはとても思えなかった。気分としては達人クラスを三人まとめて相手取っている。それくらいの手数と技量の差を感じた。
そんな相手からまだ一打しか貰っていないというのは奇跡にも近しい、ハルコの力量からすれば上々の戦果だが。しかしそれもシュリトウがまだ本気を見せず、咀嚼するのも惜しいとばかりにじっくりとハルコを味わっているが故だ。その気になればすぐに噛み潰せるし飲み込めんでしまえる。それだけ両者の技量は隔絶している。
妹以外にもいたのか、とハルコは構え直しながら思う。これほどまでに格闘の巧い人間が、あの妹にも匹敵すると思えるほどに優れた人間が、他にも。たとえ世界広しと言えども、そして世界の壁すら越えたこの場所と言えども、実際に出会ったからには衝撃を受けざるを得ない。
どこかにはいるかもしれない。だが、どこを探したっていないかもしれない。そう思えるくらいにハルコにとって妹は武の頂点にして象徴的な存在だった──翻って今、この場面。
ぶるりと背筋が震えるのをハルコは実感した。
「ふー……」
落ち着け、と己へ声をかける。飲まれてしまいそうな心を戒めて思考する。
格闘術も然ることながら、シュリトウの真に恐るべきところはその卓越した肉体技能に魔力操作を万全に合わせている点だ。打ち込むその瞬間まで均等に体を覆っていた魔力が、いつの間にか拳に集中している。守りにおいても同じ、受けるその時まで魔力がそこへ集おうとしているのがわからない、読めない。だから彼の動き全体まで読めなくなるのだ。
どちらか一方だけが優れている、というのであればいくらでも対処できた。体だけ速くとも魔力が追いつかなければそれは豆鉄砲にしかならず、なんら脅威ではない。また魔力操作にだけ秀でていても肝心の肉体が鈍ければこれもまた脅威にならない。一方的に打ち据えて終わりだ。しかし、そのふたつが揃っていれば。それもここまで高水準の両立が叶えば、こんなにも厄介になる。ハルコはここに魔闘士の真髄を見た気がした。
魔術師にはない強みだ。そして自分にも欠けている強さである。性質としては魔術師とも魔闘士とも言い切れないどっちつかずの彼女は、格闘戦を自身の得意と認識しながらも魔力強化の質でも魔力操作の精度においても中途半端だ。それは仲間であり優れた魔闘士を体現しているナゴミと比べれば明白過ぎるほどに明白なハルコの弱点でもあった。
それでもこれまでなんとかなってきたのは──四災将との戦いという死線を越えてこられたのは、純然たる幸運。そして右足に擬態しているミギちゃんに助けられてのことだ。
特にこの足になっていなければイレイズとの肉弾戦において勝ち目なんてなかったろう。足りない攻撃力をミギちゃんが補い、そしてミギちゃんを当てるために糸や捨て身の戦法で工夫する。それが今のハルコの戦い方だった。しかしこの試合は肉体一本での勝負。魔術である糸繰りは勿論、ミギちゃんだって使用は禁止されている。それは禁止事項として予め列挙されたということではなく、ハルコが自身に課したルールだった。
切る特別な手札はひとつだけ。そうでないとシュリトウとの模擬戦が調整にならない。
ただし──もう少しだけ意地も張りたい。
流血の痛感として歴然の差があると理解した。したがしかし、ここですぐに奥の手に頼っては芸がないし根性もない。せめて一撃。一度だけでいいから己が力だけでシュリトウに当てたいとハルコの、自分にはないと思っていた武人としてのプライドが疼く。
「!」
ぐ、とハルコの重心が下がり、前に向く。酸素の吸入もろくに行なわないままに短くも濃密な打撃のやり取りを躱した後ということで、ハルコの気と息が整うのを悠然と待ち構えていたシュリトウだったが、ハルコの回復は彼の想定よりもいくらか早く、そして攻め入ろうとする気配は想定よりもずっと苛烈だった。
シュリトウは先の連撃にハルコの持ち得る全てが注がれていたことをしかと見抜いてもいる。正真正銘の全力の攻めが通じなかった、なのにハルコは再び呵成の猛攻を始めようとしている。
──前のめりか。勇猛か無謀か、他に手段がないのか。だがそれも良し、元より格闘戦の縛りを入れたとしても勇者にまさか「なんの手もない」とは考えていないシュリトウだ。仮にそっくりそのまま先ほどの応酬を繰り返すことになろうともそこには何かハルコなりの考えがあり、未知なる牙がどこかで剥くはず。類い稀な武の観察眼とはまるで関係なく勇者への厚い信頼と期待がその予感を揺るぎないものとしていた。
依然として悠然にシュリトウは構えを取り、それに目掛けて獣が吠えるが如き息の吐き出し方でハルコが駆けた。走る、というよりも奔るような迷いと後先のなさで詰めた彼女は身を捻って横回転。変則の外回し踵蹴りをシュリトウの頭上から打ち下ろした。
曲芸が過ぎる攻撃。尋常の者であれば意表を突かれて隙を晒したやもしれないが、シュリトウにそのような手落ちはない。およそ徒手格闘のセオリーにないその動きも彼の目には見えているし見え透いている。振り下ろされる踵を片腕の横受けでしっかりと防ぎ──。
「っ、」
思わぬ重さに沈む。
ハルコの打撃は奇妙に重い。打ち込んだ際の感触と合わせてまるで体が鉛で出来ているかのようだ、というのがシュリトウの率直な感想だった。予想の値を飛び越える不可思議なまでの拳の重みは即ちそのまま彼女自身の肉体的重量が加わっているからなのではないかと。
しかし彼の観察眼が告げるハルコの体重はやや筋肉質ながらに体型や年頃の適性範囲を超えない程度でしかない。そこに生じる差異こそがハルコから感じる違和の正体だろうと彼はとっくに見抜いている──が故に、修正済み。打撃力の高さは既に上方修正されていたというのに。
(この右足は更に重い……!)
だからとて彼の防御は破れない。余裕を持って受けられるはずの攻撃がそうならなかった、からといってシュリトウは危なげなど見せなかった。
想定外の重量を感じた瞬間に僅かに背を曲げ腰を屈め膝を屈し、体に備わるクッションを活用して腕のみでは足りていなかった防御力の代わりとする。真正面から受け止めるだけが守ることではない。ハルコが打ち込んだ渾身の踵落としによる衝撃をシュリトウは余さず地面へと逃がしてしまった。コンマ一秒にも満たない判断と反応。脳で導いたというよりも鍛え抜いた肉体が即応的に対処したとでも言うべき練達の技術。
芯で当たったはずの攻撃にまったく手応えが返ってこないことからその凄みを心身で感じ取ったハルコは、けれど止まらない。己が牙が食い込まなかったのを幸いと言わんばかりに打ち込んだばかりの足を軸足と共に振り上げて一回転。美しいまでの後方宙返りを決めて右足で着地。そして。
「どっっっせい!!」
着地したその足を蹴り上げて即座にシュリトウへ振り上げ蹴りを見舞わせる。
二連続、かつ一度目のそれを超えて大幅にセオリーから外れた極度の超絶曲芸。シュリトウの目をしても想像の余地に収まらなかったその攻撃は──。




