170 白くて清い
「…………」
手を離して立ち上がる。やれることは、やった。潰れた腕と脚を中心にハルコへ付けられるだけのショーちゃんを付けた。シズキは拳を握り込む。手の中のハルコの血を、ぎゅっと。エオリグの下でハルコは形だけ取り戻している。失われた血肉の分量をシズキはきっちりと補填した。それが功を奏してくれるかどうか。形だけでなく本当の意味でハルコが元通りになってくれるかは、言ったようにシズキ自身にもわからない。なるようになるだけだ。
だいじょうぶ、ともう一度心の中で唱える。祈るように、希うように。必ず癒着してくれる。ハルコには女神の祝福である──と思われる──他者の魔力すら糧とする程の並外れた回復力がある。貸し与えていた分体がミギちゃんに生まれ変わったのもまず間違いなく、彼女の回復力……否、生命力が由来に違いない。そこにエオリグの修復機能も合わさるのだからきっと。いや絶対に。ハルコは手足を取り戻し、目覚め、いつも通りに笑ってくれる。力強く快活に、底抜けに明るい笑顔を見せてくれる──。
「そうだよね、ハルコさん」
一言呼びかけてから、ついと視線を移す。横たわるハルコから、立ち尽くすキャンディへ。未だ諦めることを知らず罵詈と殺気を振り撒く彼女の正面に立ち、見据える。そこで初めてキャンディの言葉が途切れた。
怒りに対し怒りで返されても彼女は押されなかった。体の自由を奪われようとも怯えはしなかった。しかし、全力全開で浴びせている殺気をシズキが意にも介していない。その瞳にさっきまで確かにあったはずの激情が、見つからない。そのことにキャンディは呆気に取られ、飲まれてしまった。
表面上だけではない。こいつは真に「沈んで」いる。もはや自分と同じ目線にいない──そう気付いてしまったからには殺気をぶつける手応えもキャンディにはない。ただ流れていくだけ。シズキを素通りしていくだけ。まったくもって足掻きが無意味なものであると、理解させられたから。
何故、と唖然と呟く。怒り狂っていただろう。仲間の惨たらしいザマを見て勇者らしからぬ憎しみに囚われていたはずだろう。魔族と同じように破壊衝動に駆り立てられていたに違いない、のに。何故そんな顔ができる。何故そんな目で見る。怒りではなく決意に満ちた、怨敵ではなく倒すべき悪を睨む、その正義然とした在り方はなんなんだ。
狂乱は自らの独壇場。共に感情に狂うならば如何にもおぼこい目の前の少女よりも一枚も二枚も上手。与しやすく、手玉に取れる。その自信があったから諦めを知らなかったキャンディは、けれど今のシズキがもう口八丁や意の振り撒きといった猪口才な手段では動じない。一切合切も揺らがないことを知り、とうとうどうにもならないと。
己が命運の尽きを目の当たりとした。
「わたしは、弱いから」
キャンディが何も言えなくなって口を閉ざし、それに代わるようにシズキがぽつりと言う。
「本当は……本心は、あなたを傷付けたい。ハルコさんにやったことを、やり返してやりたい。腕と脚を一本ずつ潰していってゆっくりと……じっくりと殺してやりたい。後悔させるために」
「やればいいでしょう。やりたいのなら、やるべきだわ。あなたにはそれが許されるんだから」
拒む理由はない。破壊を躊躇う必要なんてどこにもない。強ければ何をしたっていいのだ。それがキャンディの理屈でありルールであり、翻ってそれらは魔族の理屈でありルールだった。
だから意味がわからない。衝動のままに暴威を振るうのを良しとしないのは何故なのか。シズキが自らを律しようと努める理由が、考えようともまったく見えてこない。それはキャンディの知見や知識の不足が原因ではない。彼女が彼女であるが故に、キャンディという一個の存在であるが故に、どうしても発想や共感に至らないのだ。人間と魔族の間にはそれだけ深刻な、谷のように深く巨大な一線が引かれている。決して越えられない、歩み寄れない一線が。
それは彼岸と此岸の距離。果てしなく遠く、けれど無関係でいられるほど離れてもいない。
シズキもまたキャンディを理解できない。好んで何かを傷付ける者。傷付けずにいられない者のことなど、何も。だがシズキは理解できないままでも、理解できないなりにでも、せめて伝えることを放棄しようとはしなかった。
「やりません。あなたがやった残虐な行いを、あなたにやり返したりはしません。それをしたら……あなたと同じになってしまうから。それでもいいと、さっきまでは思っていました。でも」
血達磨のハルコを見て激情に駆られたのは確かだ。が、そんな姿になっても懸命に生きることを諦めない、その如何にもハルコらしい在り方を目の当たりにして目が覚めた。追い詰められて、詰み切って。そこで剥き出しになる本性を真実その者の性根と定めてしまっていいものかは議論の余地があるだろう。しかしハルコは。少なくとも彼女は拷問の果ての死を間近にしても尚──『前を向いていた』。恨みもつらみも、呪詛も悔悟も吐かず、ただ生を棄てずにいた。
生きることを望む。ハルコの想いは今の今まで生き足掻こうとしていたキャンディのそれと似ているようで、決定的に違う。同じにしてはいけないものだとシズキは思う。その差もきっと、キャンディにはわからないのだろうけど。
「わたしがあなたと同じことをして、同じになってしまったら。たぶん、ハルコさんは悲しむ。わたしはそれがイヤなんです」
ありがとうと言うだろう。助けてくれてありがとうと、心から感謝を述べるだろう。それ以上のことは何も言おうとしないはずだ。でも、必ず悲しむ。シズキが残酷な行いに手を染めたことを。自分が止められなかったからそうなったのだと、ハルコは責任を感じる。そういう人なのだ、ハルコは。
美しい人なのだ。
その美しさに陰りを作りたくない。
言ってしまえばシズキが自制するのは、ハルコの分までキャンディを痛めつけようとしないのは、それだけが理由だった。
「ハッ……それを悲しませたくないから我慢するって? ご立派なことじゃない。それが人間らしさだってことね。魔族にはないもので、素晴らしいものだって。そう言いたいんでしょう」
要は血生臭い暴力ではなく、一見して小奇麗な言葉の暴力を選んだということだ。精神的なマウントを取りにきたのだと、キャンディはそう判断した。異なる主義主張に主観で優劣を付けて悦に浸る。そういった方向に舵を切り替えたに過ぎないと──彼女の目に映るのは「それだけ」だった。
シズキがどんなに気持ちを込めて言葉を届けたところで、それは。
「そうじゃない、って言いたいですけど……きっとそうなんでしょうね。ハルコさんに嫌われたくないから、失望されたくないから、キレイでありたいって。それを立派だとか高潔だとか、飾りたくはありません。真っ白じゃなくてもいい。でも、真っ白な人の傍にいられるくらいには、白くありたいんです。ハルコさんが今見てくれているわたしのままでいたい」
「ちっともわからないわ、私には。あなたの言っていることも、言いたいことも、何を考えているのかも。何ひとつよ」
「わたしもです」
なのにこうして精一杯を伝えようとするのは……それも結局は、ハルコならそうするだろうと思ってのことに過ぎないけれど。本物の白さではないのだろうけれど。だけどそうありたいと思える内は、そうあり続けたいと願える内は──こんな醜い自分にも、少しは価値があると信じられるから。
白くて清い人たちと一緒にいてもいいんだと、信じていられるから。
「一思いに終わらせます」
シズキは手を伸ばし、キャンディを拘束しているショーちゃんに触れた。その手に付いたハルコの血を塗り込むように、擦り込むように。我が身にそれを取り込むように。
少しでも白に近づくように。




