149 人間にできることは何か
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横入りの裏拳が手首のスナップで伸びる。射程の伸展だけでなく敵との接触時の摩擦を増やす、つまりはウロコによる「擦り下ろし」をより強烈にするためのその工夫は、経験で培った技術ではなくイレイズの肉体に生来備わっていたもの。故に淀みがなく、武術の知識など皆無の彼女であっても一流の練度で以て放てている。
応じるハルコにできることは少ない。ウェービングの要領で躱そうにもそもそもリーチにおいて(僅かではあるが)負けている上に、イレイズの手足は打ち終わりから伸びてくる。少なくともハルコからはそう見えるし、今も実際に肩を引いていなしたつもりが思いの外に深く入り、激しく血飛沫を上げて肩口が削られてしまった。
「チッ」
可動域を邪魔しないために肩回りの鎧糸は体全体の中でも薄めだ。それでも肩は元々頑丈、ブロックにもよく使うほどに堅牢な部位であるために弱点にはなり得ない──はずが、どこを打とうとウロコによる削りが伴うイレイズを相手には、肌を保護する鎧糸の薄さはそのまま出血量の増加に繋がる危険性を孕んでいた。
この際痛みは気にしない。気にしている余裕などないハルコだったが、血の喪失はそうも言っていられない。人は体内の血液の総量の三分の一も失えば命にかかわるのだ。五分の一でも通常通りには動けなくなる。当然、それでも無理して動けばそのぶんだけ血が出て行くスピードも速まってしまう。
防御のために体中に巡らせた魔力がその副次作用として止血効果をもたらしてくれるために、優れた魔術師、またそれ以上に魔闘士は出血多量の限界点が遠い──それはハルコも例外ではないが、しかし全身余すことなく傷だらけにされてしまえばその限りではない。さらに新たに傷を負わされる瞬間、そこで飛び散る血液に関しては魔力防御による蓋も利かない。
打たれれば打たれるほど、削られれば削られるほど出血死は近づいてくる。それを理解しながら。
「ふんっ!!」
剥けた肩の鎧糸を他部位の糸から寄せ集めて巻き直すのもそこそこに、まずは反撃として殴る。殴る。もう一発殴る。ウロコによってその拳は更に痛んでいくがハルコがそれを気にする様子はない。
「クッ……、」
一打の返礼として三打も浴びせられたイレイズの顔が歪む。それは己が身の崩壊も顧みないハルコの気迫に若干ながら押されたというのと、それ以上にもうひとつ。単純にハルコの打撃が重かったせいでもあった。
(やはり……やはり気のせいではない! 先ほどから確かに! 増していっている──ハルコの膂力が一打ごとに強力になっていく!)
互いに足を止めての殴り合いに移行してからというもの、胸中へにわかに雨雲の如く垂れ込めてきた違和感。ハルコに起きつつある変化。ほんの微かに、けれど確実に、彼女の放つ打撃が重みを増していっている。当初は思い過ごしと判じたそれが今となっては捨て置くこともできない鮮明な差となって、見えない牙となってイレイズの肉体に刻まれていく。
(これはいったい!?)
ハルコにそのような変化が起きる要因は皆無。というより、正しく言うならこれは「起こるはずのない変化」であった。何故なら彼女は疲弊している。時間が経つほどに力はむしろ弱まっていかなければおかしい。
息を荒げ歯を食い縛り大粒の汗を滝のように流すハルコ。苦しさを隠さない、隠すことのできないその姿は、どこからどう見ても倒れる寸前だ。限界。彼女の全てがそれを肯定している。だが打ち込む力強さだけが頑なにそれを否定する。
(わたくしは魔族。ハルコは人間。そこには種族としての覆しようのない性能差がある。なのにこの少女はどこまで──?)
どこまで追い縋ってくるのか。如何に『慈母の女神』などと呼ばれている上位存在より加護を与えられていると言っても元が人間。そこに無尽蔵の力など宿るはずもない。だからイレイズは殴り合い、優勢を取りつつも、これだけ殴打の応酬を続けてまだ「優勢を取ることしかできていない」事実に戸惑いを抱く。
──人と認められている四種族についてイレイズはそれなりに学んできている。特に数が多く、連合国の主要構成員である人間に関しては一段と詳しく知り得ている。それはあくまで体験の伴っていない知識上のことに過ぎないが、しかしそのインプットには抜かりもなければ誤りもない。
それが戸惑いの主な原因にもなっている。ハルコはイレイズの知識内にある人間像を超越してしまっている。まったく人間を相手にしている気がしない。まだしも彼女の正体が実は魔族だと言われたほうが納得できる。それくらいに今のハルコは箍が外れてしまっていた。これはまかり間違っても人間らしい戦い方ではない、とイレイズは思う。
人間にできることは何か。逆にできないことは何か。その最たる特長が生物的な適応力にあるというのは現代の魔族にとって常識だ。住まう環境を著しく選ぶその他の人種とは違い、人間にそういった枷はない。これと言って定まった在り方がない。それこそが人間の強みであり、そこに個の強度は含まれていない。
四人種の中で人間は決して「強い生物」ではない……魔王率いる魔族が魔王期の度に攻め切れず辛酸を舐めさせられてきているのは偏に「強くない」からこその団結力と、女神が遣わす勇者というこの上ない切り札が人間側にあるからだ。
性能で人間が魔族を上回っているわけでは、ない。人間はこれといって欠点もないが際立った長所も持たない、戦士としては並の評価を出ない種族。個人において魔族とも与する超人は出てこない──だから疑問だった。
女神が選ぶのはどうして人間なのか。それもこの世界の者ではなく、なぜ異物である異世界からの来訪者を勇者に仕立て上げるのか。
そんなことをせずとも人間にはない力を持つ「生まれながらの戦士の種族」こと獣人や、人間とは異なる魔術と優れた魔力量を持つ森人から勇者を選定すれば、その強度は凄まじいものになる。獣人以上の肉体と森人以上の魔力を有する魔族でさえも手も足もでないほどの究極の戦士が完成する。これまでの魔王期における勇者の八面六臂の活躍を思えばそう判断せざるを得ない。なのに、女神はそうしようとしない。それは何故か?
人間にしか勇者を任せられない理由がある。そうとしか考えられない。それが破れない制約なのか単なる拘り程度のものなのかはともかくとして、女神はなんらかの事情により人間にしか力を授けられない。あるいは──人間はその適応力によって女神の加護を直接その身に受け入れられる、唯一の種族なのかもしれない。
ザリークがそう推測していた通りに。
(……だとしても異常と言う他ありませんね。このどこから湧いているのかわからない力は!)
懐に入り込まれて一際に鋭いアッパーで顎を打ち抜かれたイレイズは、与えられた痛みを噛み締めながらもそれを殺さず、地に付けた尻尾で全て吸収。そしてバネのように反動をつけてお返しの鉤手打ちを叩きつけてやった。
ざっくりとした手応え。過たず舞う血飛沫。魔族の殺傷衝動を大いに満たすその光景の向こう側からお返しのお返しとして拳を顔面に突き込まれたイレイズは、決意する。
もはや後先などどうでもいい。
全力で殺しにかかって尚も殺せないのがハルコであるなら──勇者と呼ばれる非人間的人間であるならば。
全力以上を。必殺を超えた絶殺を見舞ってやらねば、魔族の矜持に障るというもの。
彼女にはそれだけをしてやる価値がある。
「──蛇鱗殺法・極彌」
濃密な戦闘の終止符としてイレイズの奥義が放たれた。