グリーン・ヘル
6月。
季節は移ろい、日本には梅雨がやってきた。
「ふぁぁ…おはよう。凛、早いな」
ジメジメとした空気にうねって反応する長い髪と格闘していると、父が洗面所にあくびをしながら入ってきた。
去年の暮れにあったあの数日間は、僕の中で強く根を張り影響力を保ったままでいる。
「父さんが遅いんだよ。だって今日はもう出発の日でしょ?」
あれから僕は日本に戻った。
数日間ですっかり仲良くなったジャンニさんたちとは、必ずまた会おうと約束をした。
「ああ。どこに行くかは覚えてるか?」
僕だって人並み以上に記憶力はあるつもりだ。
道順だってそらんじることができるさ。
ドイツ、ニュルブルクリンク。
X1グランプリ夏シーズンの、開幕戦が行われる場所だ。
ドイツ北西部、アイフェル地方のニュルブルクに位置するこのサーキットは、1927年のオープンから100年を超える歴史を紡いできた。
このサーキットには二つの顔がある。
北コース、ノルドシュライフェ。
全長20キロを超える途方もない大きさの曲がりくねった山道を、全速力で駆け抜ける。
日本国内で最大である鈴鹿サーキットの全長が5.8キロであることから、その巨大さがうかがえるだろう。
そのあまりの危険度や難易度から、付いたあだ名がある。
『緑の地獄』
もう一つの顔がGP、グランプリコース。
1984年に新設された、近代的なコースだ。
こちらはサーキットとしての安全性が重視されており、北コースでのF1開催が廃止された後のドイツグランプリ開催場所としても知られている。
そして、このX1グランプリで利用されるのが、この二つのサーキットを掛け合わせた複合コース。
コース全長は25.378キロ。
X1マシンをもってしても1周するために5分前後のラップタイムを必要とする。
「『予選開始だ、エリック。』」
「『Copy that…了解。』」
ヘルメットのシールドを下ろし、アクセルへ力を込める。
5分間のイリュージョンが、始まるのだ。
「あ!瀬名さん!!!」
その人は、僕の横に立つ父を目ざとく見つけた。
マシンに真剣な表情で向き合っていたその人は、作業を中断して早足でこちらへ歩み寄る。
ベテランの風格を持ちつつも、ジャンニさんらよりも若々しい印象を受ける。
僕はピットの内部に入るのは初めてだった。
その辺に置いてある器具類を内心ビビりながら眺めていると、その人は僕を見て仰天する。
「え、瀬名さんこの子って…」
「ああ。凛だ。」
「ホントに!?もうボクより大きいじゃん!!!」
僕の身長は160後半台。
そんなに高い方ではないはずだが、この人は背伸びして張り合おうとしてくる。
そして例のごとくこの人も、僕の幼少期に良くしてくれた人なのだろう。
「久しぶり!今日は楽しんでいってね!」
そう言って、僕と父さんを関係者席へと案内する…えーと。
名前…名前…。
苦悶の表情を浮かべる僕を見た父さんは、可笑しそうに笑って。
「すまん、裕毅。自己紹介頼むわ。」
「えー凛くん覚えてないのー?…って、冗談冗談!」
一瞬ヒヤッとしたが、そんなに意地悪な人ではないと分かる。
そうか。
この人が、今の絶対王者。
父さんが一番目をかけていた、あの人なのだ。
「松田裕毅です。よろしくね!」
くぐもっていたエンジン音が、ハッキリと聞こえてくるようになる。
それはあまりにも大きく響き渡っているが、なぜか耳を塞ぎたくはなかった。
「『お、来たぞ。』」
「『もう予選始まってるよー!』」
裕毅さんに案内された先は、ホームストレートの頭上。
関係者席で待っていたのは、イギリスのあの時のメンツだった。
「『瀬名、凛くんは預かってていい?』」
「『その方がいいですね。ルイスと喋ることは何一つ分からないと思うので。』」
何のことやらわからない話をされても、僕は楽しめないだろうという父さんなりの気遣いだろう。
僕はジャンニさんに手を引かれ、カレルさん・周さんのイツメンが待つテーブルに腰を掛ける。
「『いや~、半年ぶりだね。』」
「『…元気そうで何よりだな。飯は食っているか?』」
「『ドイツの飯は美味いよな。オレは地元の次に好きだぜ』」
本格的にこの人たち、親戚のおじさんと化している。
でも確かに、今日の朝食で食べたソーセージはめっちゃ美味しかったです。
「『ここに来るのは初めてだけど、楽しいですね。特にここから見える北コースの景色はすごく綺麗で…』」
そんな僕の言葉を聞くと、お三方は何か言いたげな表情を浮かべて黙っている。
あれ?なんか変なこと言いました?
僕が不思議そうな顔をしていると、周さんが沈黙を破って告げる。
「『凛。実はおまえ、ここは初めてじゃないんだぜ。』」