ビジネスマン
「『そこ、もっと奥までブレーキ我慢ね』」
「『え、ここを?』」
気が付いたら居なくなっていた父さんとルイスさん。
ただ二人残されて、謎の講習会が始まっている。
僕がきちんとシミュレーターに向かっているからなのか、先ほどと比べると幾分か物腰が柔らかい。
「『X1マシンのコーナリング性能は並外れてるわ。あなたもお父さんから聞いてないの?』」
「『父さんが僕に話をしてくれてたのは随分前だから、もう覚えてないなぁ…』」
父さんは僕がモータースポーツに心を閉ざしてから、無理に話そうとはしなかった。
それは気遣ってくれていたんだと思うし、ありがたいことなんだけど。
今はちょっともったいなかったのかな、とも思う。
「『ふーん…でも、あなた筋が良いわよ。』」
え。
そうなの???
画面の反射で、エリックは腕を組んでこちらを見つめているのが分かる。
「『どうすればクルマが速く走れるかが分かってる…そんな走り方をしてるわ。遺伝子に組み込まれているんでしょうね』」
走りの上手さが遺伝子に組み込まれる要素になるほど、人類はクルマと時間を共にしてないと思うけど…。
でもまあ、嬉しい…のかな?
「『今のコーナーも、あなた進入で無意識にアウト側に寄ったでしょ?』」
「『え?うん、曲がらなきゃいけない角度を極力緩くしようと思って…』」
その僕の言葉を聞いたエリックは、口に手を当てて考え込む。
「『驚いたわ…それを全く教えられずに自分から気づく人って中々居ないと思うわよ』」
それってかなり難しい技術ってことなのかな。
それとも…。
「『あなたが今やったのは、ドライビングにおける基本中の基本。アウト・イン・アウトってやつね。』」
やっぱり基礎的なことだったのか。
それはそうだ。
これが一番手軽にクルマを速く前に進めることができると思うもん。
「『モータースポーツを始めた者が一番最初に教えられることだから、『教わった知識』として定着することがほとんどなの。だけど、私はこの事実を好ましくないと思ってる。』」
『教わった知識』と『気づいた知識』。
知識を得ることは同じことでも、やはり後者の方が深い理解を得られるのは自明の理だろう。
「『あなたは上手くなるわ。それと同時に、速くもなる。15歳からのスタートだとは考えられないほどに。』」
エリックは組んでいた腕を解き、体の向きを変えた。
「『今更『こちらの世界にいらっしゃい』なんて言わないわ。あなたの恐怖も優しさも、全て理解する。…でもね。』」
歩き去ろうとする彼女の足音が一瞬止まり、こちらを向いているであろう声が聞こえてくる。
「『今居るその場所に踏み込んだ時点で、あなたはもう『こちらの世界』の住人よ。』」
「『ルイス、そろそろ本題に入ろうか。』」
「『ああ…だがあの二人を一緒にしてていいのか?』」
「『大丈夫大丈夫。凛なら上手くやる。』」
適当に流す瀬名。
二人は再び二階に上がった。
建物の外れにある会議室にて。
「『それにしてもだ、瀬名。忙しい中悪いな…こんな田舎まで来てもらって。』」
「『ドライバーの最終チェックくらいキチンとやるさ。X1の運営委員長としてな。』」
瀬名は鞄から書類をいくつか出して、ルイスの目の前に並べる。
「『実力は全く申し分ない。すぐにでも優勝争いができると思う。』」
「『そうか…今の絶対王者を喰えるかな?』」
ルイスの問いに瀬名は、サラサラと書類に記入事項を書き写しながら答える。
「『ああ、ウチの弟子をヨロシク。そろそろアイツの一強にもいい加減皆様飽きているだろうからな。』」
「『私情よりも観客重視ってワケか。ビジネスマンだねぇ』」
「『いつからそうなったんだかね。元々はアイツを助けるためだったんだがな。』」
書類を一枚一枚手に取り、文章を隅から隅まで読む。
間違いが無いことを確認すると、ルイスの方へ紙を向けた。
「『登録名は本人の希望通り、『エリック・フェルスタッペン』としてある。あとは育成所の責任者サインのみだ。』」
「『ありがとう。では…』」
ルイスはペンを手に取ると、書類に自らのサインを記した。
「『…確かに頂いた。それでは、エリック・フェルスタッペンが来年度夏シーズンよりX1グランプリへ参戦することを承認する。』」