伏見瀬名《愛すべきトラウマ》
気が付けば、もう陽が傾き始めていた。
ルイスさんたちの話は、それだけの時間を忘れさせる何かがあった。
みんなそれぞれ、お酒を飲んだり喋ったりしながら過ごしている。
「『おい瀬名、お前はなんか無いのかよー』」
カレルさんたちと肩を組みながら、周さんが父さんに声をかける。
確かに、今日の父さんは聞き役に徹しているような気がする。
「『俺?そうか…俺ねぇ…』」
まるで予想外だったかのように顎に手を当てて考えている。
僕も久しぶりに父さんの話を聞いてみたいと思ってた。
「『それじゃ、凛も完全にこっち側に来たみたいだし。ちょっと嫌な話でもしてみようか。』」
明らかに嫌な話をする顔ではない、落ち着いた笑顔で語りだした。
俺のレース人生を振り返るにあたって、必ず語らなきゃいけないことってのは、『吐き気』と『トラウマ』だ。
どっちもいい言葉じゃないな。
まあ当然だ。
だけど、その中身を見てみると、別に悪いもんじゃないんだ。
どっちも俺の思い出に残ってる要素だね。
凛も、緊張すると吐き気がしてくることってあるだろ?
本来、俺はあんまり緊張するタイプじゃないんだけど、一度だけ吐き気がするほど張り詰めた気持ちになったことがある。
ゆっくり、ゆっくり過去を遡っていくぞ。
俺の、現役最後の一戦。
最終戦、アブダビグランプリの…予選直後だった。
俺はポールポジションを勝ち取った。
その瞬間からだ。
色んな感情や思いがありとあらゆるところからこみ上げてきてな。
俺は口元を抑えて、人の居ないところへ逃げ込んだ。
それは単純な緊張だけではなかったはずだ。
今までやってきたことの集大成が、実りそうになっている実感。
世話になった人たちの思いを乗せているという重圧。
過去に見た、デカいクラッシュのトラウマ。
それらを全てひっくるめて、『緊張』と言うのかもしれないが…。
ただ、その二文字に詰め込むには容量が大きすぎる何かが、俺の胃の中に居座り始めた。
そんな状態の俺を助けてくれたのが…。
はい、はい。分かりましたから。
ジャンニさん、あなたですって。
そんな全身で表現せんでもちゃんと紹介しますって。
…ま、とにかく。
結果から言えば、俺はここで一旦吐いた。
凛も病気とかで経験あるよな。
気持ちのいいもんじゃないわな。
でも、この行為には大事な意味があったんだ。
むかーし、むかし。
俺がまだ大学に行っていた頃の話だ。
尊敬してた先輩がいた。
よくできた人だった。
傷を隠すのが上手くなることを世間じゃ『大人になる』と言うらしい。
その人は誰よりも『大人』だった。
…。
そう。その人が教えてくれたんだ。
緊張して吐くのは良い事だ、ってな。
何言ってんだかわかんないだろ?
でもな、これは俺の、人生のハイライトなんだよ。
その人との思い出も、レース人生の全ても。
俺の、愛すべきトラウマだ。
とにかく、俺が言いたいのはだな。
生きてるならラッキーだ。
それは全人類に言えることだが、そのラッキーな命をどう使っていくか。
そこに、豊かさも有意義かどうかも全て関わってくる。
『大人』になり、忘れることもあるだろう。
ただ、忘れなかったことの中には、忘れてしまったことを思い出させてくれるものも隠れている。
俺は、あくまで俺としてはだが。
隠している傷も、得た安定も、少しの痛みも安いもんだと思っている。
だが、時折フラッシュバックするんだ。
愛すべきトラウマの影が。
『これでよかったのだろうか』と自問する。
その答えは、日によってまちまちだ。
でも、そのトラウマによって俺は食っていけている。
母さんやおまえたちを養っていけている。
自分なりに好きに生きてきたつもりだ。
多かれ少なかれ、後悔することもある。
でも、俺はこのまま爺さんになって死ねるとするならば。
笑って逝けると、自信を持って言えるよ。
重たい話のはずなのに、微塵もそれを感じさせなかった。
終始笑顔で、楽し気に話しているようにすら見えた。
全く知らなかった、父さんの過去。
今まで僕が見ていたのは、ほんの表面上のものでしかなかったのではないかと思うほど、色んな経験をしてきたのが分かる。
皆さんはこの話を覚えていることは無いかも知れないけれど。
僕は、僕にとっては一生ものの講義となった。
次第に、西の空が紅に染まっていく。
それは楽しい時間の終わりと共に、戦いの始まりを告げていた。
夏の終わり。
その、最後の戦いを。




