親心
「『…凄いなぁ。外から見てても僕とは走り方が全然違うのが分かるよ』」
サーキットは、建物から一段下がった場所にある。
それらを繋ぐ階段にしゃがみ込み、私たちは会話をしている。
お互い対Gスーツを着て、ヘルメットを抱えて。
隣の彼は手持ち無沙汰にヘルメットを手にはめ、クルクルと回して遊んでいる。
凄い?
私がか?
確かに、このサーキットには私の敵は居なかった。
だが、相手になるレベルの人との争いではいつも負けてばかりだ。
「『…ルイスさんたち、遅いね』」
一向に喋ろうとしない私に気まずくなったのか、眉を八の字にして笑いかけてくる。
正直に言って、凄いのはそっちの方だ。
なによ。
初めて乗って実質私の0.1秒落ち?
バカげてるレベルと言っていい。
「『僕もこの間、裕毅さんと話したんだよ。気さくないい人だよね!』」
ああ。
確かに、フレンドリーな人だった。
レースでの動きとはまるで見合わないほどに。
モータースポーツ界の頂点に10年以上居座るだけの、圧倒的な力。
思い知らされた。
私はまだ小娘に過ぎないのだと。
あれは驕りではなかった。
生半可な実力を持つ者だけに適用される、驕りなどという言葉を使ってはいけない。
自分の実力と、実績に対する圧倒的な自信。
それは驕りではなく…。
私に最も足りていないものだった。
「『あなたは…』」
ますます自分が嫌になる。
「『あなたはX1に来て、戦えると思っているの?』」
久しぶりに発する言葉が、罵りと捉えられてもおかしくないものだなんて。
ただそれでも、彼は笑顔を崩すことは無かった。
それどころか、むしろ嬉しそうに食いついてくる。
「『それなんだよ!僕が出て、戦えるのかどうか…やってみないと分からないけど、でも!』」
続く言葉が、ここ数年の私が持っていた全ての曇りをかき分けていく。
「『同い年のエリックがあそこで活躍してる。だから、僕にできないはずはないんだって思うんだ。』」
私は、まだ誰も到達していない場所へ行きたかった。
私には、そこだけが輝いて見えていた。
でも、彼は違うのか。
「『エリックは、2位は嫌いなんでしょ?ルイスさんから聞いたよ』」
あの人は何をペラペラと喋ってくれているのか。
…いや今はそんなことはどうでもいい。
「『先頭の景色や二番手の景色。見たことは無いけど、これだけは分かるよ。』」
彼からは、勝ちへの執念やこだわりは感じられない。
けれど、その代わり。
「『先頭争いは楽しいんだろうな、って。』」
自らの意見を柔軟に変え、成長していく。
出会った時にはなかった側面が、垣間見えている。
あれだけレースが、マシンが嫌いだった彼が。
今となってはこう…か。
「『エリックはまだ誰も見たことない景色を見に行くんだ。僕も頑張って追いかけるよ。』」
私の夢を、全体を通してこれほどまでに尊重してくれたのは。
彼で二人目だ。
家族以外で唯一、私の本当の名前を呼ぶ…彼。
育ての親と私が呼ぶ、たった一人の人。
そう、ルイスが私の身を案じ、練習時間を取らせてくれなかったことも知っている。
今となっては、しっかりと彼に感謝を述べることができると思う。
急ぐことだけが、速いことだけが…早いことだけが。
モータースポーツの本質ではないと、今は気づいたから。
頑張っていればおのずと勝てる、そんな簡単な世界ではない。
そんなことはとうの昔から、分かっている気でいた。
でもそれは歪んだ解釈だったのだろうと思う。
だからこそ私は自分を追い込んでしまっていったのだろう。
ルイスは、私に過度に干渉することは無かった。
それが彼の仕事ではないと、彼自身も分かっていたからだろう。
でも、私一人ではもうどうすることもできないところまで来てしまっていた。
そう。
だから。
もう一人、私の名前を呼んでくれる人が必要だったんだ。
いや、それすら間違いなのかも。
誰に対しても心を開いてみる。
合う、合わないはそれから見極めればいい。
決めつけてしまわない。
私の意見がいつも正しいとは限らないから。
そして、自らに課した呪いを断ち、私を押し上げてくれた、彼は。
真っ先に私の名前を呼んでほしい、そんな人だ。
ルイスは言う。
『謝るよりも先に感謝をしなさい』と。
「『ありがとう、凛。もしよければ…』」
初めて会った日のことを、謝るのは。
この後、二人で紅茶を飲みながらにしよう。
「『私のことは、エリカと呼んでくれない?』」
一瞬だけ、彼は驚いた表情を見せた。
でも、すぐにふっと笑って。
「『ありがとう、エリカ。』」
私の手を取った。
「『なぁルイス、まだか?』」
「『しっ!!!今はダメだ!!!』」
「『…親心だな』」
「『親心 吹く夏風の ルイスかな ――伏見瀬名』」
「『やかましいわ』」