全盛期
ホームストレート。
北の方から聞こえてきた割れんばかりの轟音が、僕の耳をつんざく。
二台が絡み合うようにして、先頭で帰ってきた。
この二台が僕の目の前に現れるのは10回目。
すなわち…これがレースの終わりを示していた。
半車身。
勝負はほんの半車身の差で付いた。
松田裕毅の黒いマシンが、わずかに前。
僕はその光景を目の当たりにした時、なんとも言えない感情に苛まれた。
苛まれた、とは言ったものの、極めて不快であるとかそんなのではない。
手汗が滲み、立ち上がって動き出したくなるような感覚。
それは、今までに体感したことのあるどの感情フィードバックとも一致しなかった。
隣に座る父さんは言う。
「今、凛が感じているモノが喜びだとしても、悔しさだとしても。それは俺たちが感じている種類のモノと何ら変わりはないんだよ。」
その言葉の意味は、瞬時には理解できなかった。
でも、日を置いた今となって分かるのは、僕が既に底なし沼へと足を踏み入れているということ。
でもそれは、服が汚れて嫌だとか、窒息するんじゃないかといった不快感を伴う沼ではないような気がする。
あんなにも、忌み嫌っていたのが噓のように。
表面上では嫌いのレッテルを貼っていながら、DNAに刻み込まれた本能を包み隠すことはできなかったということ。
僕の『優しさ』とはそんなものであったのか、と、少し卑屈に考えてみたりもする。
食わず嫌いほど勿体ないことは無い。
人はウニやトマトの美味しさを知って、初めて大人になるのだから。
…ところで、先日のレースにて優勝した松田裕毅さん。
今、僕の隣でソフトクリームを頬張っています。
「いや~、また兄弟だと思われちゃったね!まいったな~!!!」
心底嬉しそうに横を歩く裕毅さん。
確かに、若く見られそうではあるけれども。
父さんも『お前たち似てるから兄弟でイケるイケる!ハハハ!!!』って言ってたし…。
まあ、特段若く見られないといけないワケではないので意味は無いのだが。
そして、今は夏真っ盛り。
7月の、陽気と言うには殺意が込められ過ぎている日差しを受けながらサーキットへと向かっている。
X1グランプリ夏シーズン、日本ラウンド。
@富士スピードウェイ。
父さんは運営の仕事で忙しいから、と、僕の子守を裕毅さんに頼んだらしいが…。
ドライバーが忙しくないわけなくない???
このあたりはよく考えた采配とは言い難いと思うけど。
「凛くん、日焼け止めいる?」
配慮はいらんと言うかのように、裕毅さんはずっと喋り通している。
富士山の麓に位置するこの場所は空間として開けており、日差しがひと際強い。
貰った日焼け止めをこれでもかと腕や首に塗りたくりながら、僕も質問してみる。
「裕毅さんって、この世界にずっと居るんですよね。」
「うん。そうだね。凛くんが生まれる前からずっと居るよ。」
知りたい。
父さんが教えてくれた話の、その先を。
伏見瀬名が去ってからの、モータースポーツの話を。
そんなつもりで、僕は口にした。
「裕毅さんの全盛期って、いつだったんですか?」
その言葉に、彼は眉をピクッと反応させると。
一段低い声に切り替え、真面目な表情で返答した。
「それは、簡単には答えられないね。」
裕毅さんは足を止め、僕の方を向き直る。
片手を前に突き出すと、指を一本一本立てていった。
「ボクのレースキャリアは、大きく四つの時期に分けられるんだ。」
人差し指がピンと立つ。
「まず、瀬名さんと出会う前。ただひたすら、戦う相手を…憧れの対象を探してた。」
この時点から既に神童であったのは有名な話らしい。
裕毅さんは、今の僕とほとんど変わらない歳で父さんと出会っていたという。
そこから父さんと仲良くなって、師事するに至ったみたい。
それはもう運命的な出会いだったに違いない。
「二つ目は、スーパーフォーミュラでのクラッシュまでの期間。瀬名さんという明確な目標ができて、それを追いかける時期。」
この時はまだ経験が浅く、粗削りな走りだったと聞いている。
本人も間違いないと言っていたし。
「三つ目。クラッシュからF1参戦初年度の、低迷した時期。仲間たち、先輩たちに支えられてそれを乗り越えたんだ。」
結果的には大事に至らなかったようだが、かなり大きなクラッシュを起こしていたらしい。
それによる恐怖心や自信の喪失なんかもあったかもしれない。
僕がモータースポーツから距離を置く原因になったのは、この裕毅さんと父さんが事故を起こしたレースを知ったからだ。
「そして四つ目は今。F1やX1でチャンピオンを獲って、安定を手にした時期。」
今、まさに生ける伝説として名を轟かせる裕毅さん。
過去100年以上続くモータースポーツの歴史の中で、最も成功したドライバーとの呼び声も高い裕毅さん。
その息は長く、36歳を迎えた今でも健在の走りを見せてくれているのだ。
「さあ、凛くん。ボクの全盛期はどれでしょーか!!!」
そんな裕毅さんの半生を聞いた僕へと投げかけられた問い。
僕の答えは、至って普通の考え方だと思う。
「四つ目…ですかね。四つ目の中でも若い時が一番力を発揮されていたのでは…と思いますが…。」
無難な回答だと思う。
普通に考えればそうだ。
経験を積みつつ、若さのある二十代中盤から後半あたりが一番、パフォーマンスを発揮できるはず。
でも、彼の口からは意外な返答が送られてきた。
「ブー。正解は、全部だよ。」