松田裕毅という男
負けて…たまるもんですか…!!!
私はあなたも、何もかも超えるためにここに居る!!!
まだスリップストリーム圏内。
捉えてる。
ブレーキングで前に出られないのなら、ストレートよ。
この先に待ち受けるドッティンガーストレートは、2キロに及ぶ直線。
一度前に出れば、抑えきれる。
自身を持ってそう言える。
私はルイスから、彼の持てる全てを教わってきた。
彼の弟子であるのなら。
勝て。
必ず、勝つんだ。
「…父さん、今どうなってるの?」
僕は時々起こるどよめきに、居ても立っても居られず父さんに話しかけた。
「おっ、凛。ジャンニさん達にはもう飽きたのか?」
顔をこちらに向けて、そんな冗談を飛ばしてくる。
ニヤニヤとしたその笑みは、僕に向けられているようにも見えるし、何か別の事柄に向けられている気もする。
レースはどうなってるんだろう。
エリックや裕毅さんはどうなったんだろう。
「よし、俺が今の状況を解説してやろう。ここに来るといい。」
二人掛けのソファに座っていたルイスさんと父さんが、二人して端に寄る。
その真ん中に、僕が座れるくらいの空間ができた。
二人の間に座ってみる。
そこからは、ガラス越しで眼下にホームストレートが広がって見えた。
けたたましい音と共に、マシンが一台、また一台と通過していく。
「まずはレースの説明からだな。」
父さんはどこから出したか分からない小さなホワイトボードを手に、僕の顔を窺いながら話す。
そこにはコース図とマシンの形をしたマグネットがあった。
「ニュルブルクリンク複合コース、俺が知る中で世界一長いサーキットだ。ここを10周する。」
コースの長さを加味したとしても、少し短めのレースだと思う。
X1マシンなら1時間とかからないだろう。
「このレースレギュレーションを作ったのは俺だ。戦略の必要ないスプリントレース…ピットを必要としないレースはドライバーの純粋な技量で勝負ができると同時に、観客に飽きを来させない。」
サラッと凄いこと言ってるなこの人。
まあ、今になって驚くべきことではないのかもしれないけど。
「『このコースの見せ場は、やはり北コース。山を切り裂き、起伏に富んだノルドシュライフェだろう。』」
ルイスさんも腕を組み、北を見つめる。
そこにはエキゾーストノートが響く広大な森があった。
父さんは手元のホワイトボードでマシンのマグネットをコース図に沿わせてうねうねさせる。
「そして北コースの最後に待ち受けるのが、約2キロの直線。ドッティンガーストレートだ。」
ギアを6から7ヘ。
速度は400キロを数えたところ。
二つの甲高いエンジン音が、共鳴する。
「エリックくんとの距離、0.3秒…0.2…近づいてきてる。」
ドッティンガーストレートの中盤、充分に速度が乗った両者。
そのギャップが0.1を切った時、エリカはマシンを横に振った。
「『スリップストリームの恩恵を受けた私の方が、幾分か速いはず…!』」
じりじりとエリカのマシンが前に出ていく。
「『446…447…』」
「442…。ここは譲るよ、エリックくん。」
両者の速度差は5キロほど。
しかし、この長い長いストレートで前に出るには充分な時間があった。
松田裕毅の首位が、陥落する。
「1位が入れ替わった。」
父さんは動じることなく、淡々とそう告げた。
隣のルイスさんは小さくガッツポーズをしていた。
教え子がX1のトップを走っているんだ、そりゃあ嬉しいだろう。
「でも、アイツの真骨頂はここからだよ。」
父さんは肘置きに掴まりながら立ち上がり、北コースからホームストレートへとなだれ込んでくるトップツーを待つ。
ドッティンガーストレートでの攻防戦が終わり、僕達の眼前へと姿を現す。
「裕毅。」
ただ一言だけ、そう呟いて。
その次の瞬間、ありえない速度で二台の車影が僕達の目の前を通過した。
ドッティンガーストレートにてエリックくんの先行を許した。
だけど、忘れてもらっては困るよ?
ボクのモータースポーツ人生で、最も多くの時間を費やしたのは。
最も大事だった時間と言えば。
二番手を走り、トップを陥れるためにプレッシャーをかけ続ける時間なのだから。
ホームストレート通過。
抜いたばかりだけど、引き離していくことを考えなくては…。
その時だった。
両肩が重りを乗せられたかのように、ズシンと重くなる。
バックミラーは、黒い車影で埋め尽くされた。
ものすごいプレッシャー。
これが…これが現役最強を10年近く維持してきた『松田裕毅』だとでも言うのか。
あの柔らかい物腰からは考えられないほどの気迫を感じる。
…。
そうだ。
ルイスが言っていた。
「『俺は裕毅くんのプレッシャーに呑まれかけたことがある。忘れもしない、雨のモナコだったよ。』」
そんなバカな、と思っていたが…。
「『不死鳥は、本当に存在するんだ。』」
あのルイスが呑まれるとするのなら、本当に私はそれに打ち勝てるのか?