絶対王者
「『いきなり二番手か。想像以上だな、彼女。』」
予選が終わったらしい。
父さんは手を顎に、そんなことを呟いていた。
「『エリカなら、やるさ。』」
ルイスさんは誇らしげにそう言う。
僕から見える彼の横顔には、安堵と歓喜が見て取れた。
X1グランプリは予選を午前に、決勝を午後に行うワンデイ方式。
予選を終えたレーサーたちは、すぐに決勝の準備へ取り掛かる。
スタートの時間は、刻一刻と迫っている。
「『エリック、ナイスランだった!決勝次第では優勝も狙えるぞ!!!』」
ピットクルーたちが、私を讃えてくれている。
育成所でも褒められることの方が多かったけれど、どこに行っても嬉しいものね。
そんな中、外の風を浴びようとピットガレージから出る。
まだ誰も走っていないサーキット。
これから私は、あそこで戦う。
7年前にこの舞台が用意されてから、ずっと夢見てきた。
私にとっての聖地は、ここニュルブルクリンクだ。
想いを高め、集中するモードに入ろうとしたところ。
その時、私の肩が叩かれる。
「『エリックくん…だよね?』」
私に声をかけてきたのは、今まさに絶対王者と呼ばれる男。
齢35を超えているはずだが、童顔であるためとっつきやすさを感じる。
「『まさかこの長いサーキットで一秒差以内だなんて、ビックリしたよ。決勝はよろしくね!』」
松田裕毅。
X1開設以後玉座を降りない、まさに絶対王者。
しかし、私は差し出された手を取らなかった。
なんだかんだ自分が勝つのだという『驕り』が透けて見えたから。
私を舐めるな。
エリック・フェルスタッペンはそう甘くない。
参戦初年度だろうと関係ない。
私の目標は、あなたではない。
未だ誰も到達していない、孤高の領域。
そこを私は目指しているのだから。
ひと際大きなエンジン音が、辺りに響きだした。
スタートの時間である。
1500馬力を誇るX1マシンは、弾かれたように第1コーナーへと吸い込まれていった。
「『なあ、瀬名。』」
「『なんだ?』」
ルイスと瀬名。
凛やジャンニ達とは違った席で、落ち着いてワインを飲みながら観戦している。
ジャンニ達は落ち着きの対義語みたいな騒ぎ方をしているが…周や凛がなんとか治めることだろう。
「『この試合、どっちが勝つと思う?』」
ジャンニ達のことは頭から完全に消えているかのように、真剣な表情で会話を交わす二人。
「『どっち、というのは…裕毅か、エリックか。ということだよな。』」
肉眼で見ることができないレース状況は、モニターで逐一確認する。
カメラには丁度、先頭集団の攻防戦が映し出されていた。
瀬名は顎に手を当てて考え込む。
単純ながら難解な問いである。
「『完全な独立状態や、タイムアタックによる全開走行。ベストな状態を繋ぎ合わせた場合…そこではシミュレーター全盛時代のエリックに分があると思う。』」
ほぼ完全なリアルを再現した、シミュレーター技術。
それを自らの手足のように使いこなしてきたエリカは、全てが完璧に嚙み合った時、途方もないスピードを発揮するだろう。
「『では、なぜ予選では裕毅くんがポールポジションを獲った?』」
その問いが出るのは自然である。
タイムアタックを得意とするなら、予選で結果が出せるはずなのだから。
「『経験…と、一言で片づけるのは少々乱暴だな。』」
瀬名は指を一本立て、離し続ける。
「『北コース…ノルドシュライフェを攻める上で最も邪魔になる感情は、『恐怖』だ。』」
安全性が確保されていると、分かっていても。
本能的な部分で、私たちは恐怖を感じる。
「『我々レーサーは、気が狂っているとよく言われるが…それで結構なんだ。むしろ、そうでないと一流とは呼べない。』」
一般の人間は、自らの運転で100キロ以上を出すことはまずない。
それの4.5倍ものスピードを、使いこなすために。
削ぎ落すものは、数えきれないほどある。
「『もはやアイツは人であることを捨てている。狂気の世界の住人なんだ。』」
「『…よしッ…並びかけた…!!!』」
この速度差なら、次のブレーキング勝負で前に出られる…!!!
ギリギリまで我慢して…。
「『今よッ!!!』」
ブレーキングと同時に前に出ていくのは、私のマシン…かと思いきや。
私が限界ギリギリだと思っていたそのさらに先。
松田裕毅のマシンは、さらに先にあった。
「『突っ込みすぎでしょ…!そんなんじゃ曲がれない!』」
次の瞬間、彼のマシンはゆらりと揺れたかと思うと。
「『…なによッ…それ…!!!』」
コーナーの脱出に向けてワープしたかのような挙動を見せた。
「『一見無茶に見えるんだが、実は理にかなっている。シミュレーターが教えてくれない事を、アスファルトやマシンたちは教えてくれるんだ。』」
そこまで言って、瀬名はグラスに注がれたワインを一口。
「『つまるところ、結論としては…』」
語りつくして満足したのか、ハッとしたように結論を述べる。
「『あの突っ込みができるヤツってのは今、世界に松田裕毅しか居ないんだよ。』」